霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅰ.秋の始まり

20 ハムステッド・ヒース2

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 こっちの人って、雨に濡れるのをあまり気にしない。こんな霧雨なんて降っている内にはいらない、そんな感じだ。
 だからアルビーとマリーは、気にせず見晴らしの良いこの高台の緑の上にピクニックシートを広げて昼食の準備にかかっている。
 といっても、持参の袋から買ってきたサンドイッチやサラダ、コーヒーをだして並べるだけ。

 なんとなく抱えていた気まずいわだかまりを、マリーのにぎやかなお喋りがかき消してくれた。僕の知らない二人の共通の友人の話や、マリーの今日のテニスの話なんかで、僕は軽く相槌を打つだけでとくに会話に加わる必要がなかったのも助かった。アルビーもべつに僕を無視するわけでもなく、さっきのように積極的に話しかけてくるでもなくで、普段の彼に戻っている。



 いつの間にか雨も止んでいた。雲の狭間から日が差している。しっとりとした芝の緑がキラキラしている。

「見て! 虹がでてる」

 マリーが指差す彼方に、薄っすらと光に透ける虹が見えた。霧の中に霞むロンドンの街の上に架かっているようにもみえ、この丘のふもとにあるようにもみえる。

「コウ、この詩を知ってる? 『虹の橋』っていうんだ」

 アルビーは柔らかなビロードのような声で詩を諳んじてくれた。

 天国の手前に、「虹の橋」と呼ばれている場所がある。この世で生きていたとき誰かとともに暮らしていた動物たちは、その命を終えると「虹の橋」のふもとへ行く。

「ここのようなね」

 アルビーは言葉をきって、微笑んだ。少し寂しそうに。

 緑の草原になだらかな丘。温かな満ち足りた美しい場所。そこでみんな楽しく暮らしている。だけどただ一つの彼らの心残りは、この世に残してきた飼い主のこと。

「いつか自分が死を迎えたとき、先に逝ったペットたちはその場所で待っていてくれる。だから必ず会える、そして一緒に虹の橋を渡っていくんだ。そういう詩だよ」
「だから虹を見るとなんだか哀しくなっちゃうのよ。アレクサンダーはあの虹のふもとにいるのかな、って」

 マリーがしみじみとした口調で口を挟んだ。

「うちでも犬を飼ってたのよ」
「僕の誕生日にスティーブがくれたんだ」

 アルビーは、懐かしそうに目を細めて言った。

「ともに暮らした愛する人を死んだ後でも待っていられる場所があるっていうなら、ペットに限らず人にだってそんな場所があればいいのにね。天国の門をくぐるのは自分ひとり、なんて淋しすぎる」

 消えかかっている虹を追いかけたいような、そんな遠い眼をしてアルビーは呟いた。マリーは、ちらりとアルビーを見て目を伏せている。

 僕はペットを飼ったことがないから、そんな二人の気持ちは解らない。
 だけど、親よりも先に亡くなった子どもは賽の河原で親を待つ、って言い伝えが日本にもあるくらいだ。アルビーの言い分はもっともだと思ったんだ。

「待っているのはペットだけじゃないと思う。人だって同じだよ、きっと。その『虹の橋』って、ビフレスト橋のことじゃないの、北欧神話の。神々が天と地をつなぐ橋だよ。きっと、ペットのための橋ってわけじゃないよ」

 ふっと真顔になり、アルビーはまじまじと僕を見つめた。あの宝石のような緑の瞳でじっと見るのは、本当にやめて欲しい。アルビーは自分の目力の自覚がないのかな。いや、彼のことだから解っていてやっているのか。

「北欧神話だなんて、コウ、意外なことに詳しいんだね」
「僕の希望専攻は民俗学だから」

 言ってなかったかな?

 これが墓穴だった。納得したように目を見開いたアルビーが、思いがけなく話を蒸し返してきたのだ。

「それでサラマンダー? 意外だな。コウが精霊だの神話だのに興味があるなんて。コウはもっと地に足のついた、無難な選択をすると思っていたよ。経済とか、法律とかさ」

 確かに、以前の進路は法学部だった。

「それも友人の影響なの?」

 また振りだしだ。

 今日のアルビーは変だ。容赦なく僕の傷口をえぐってくる。まるでそうすることが必要だからといわんばかりに。





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