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Ⅰ.秋の始まり
16 謝罪1
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僕はある種高揚した気分で階段をあがっていった。
でも、上りきる手前で立ち止まった。マリーが、アルビーの部屋から出てきたのだ。――泣いてる。
アルビーは宥めるように優しくマリーの髪を撫でていて、それから彼女にキスした。
僕は手摺りに手をかけたまま、その場にしゃがみこんでしまった。とっさに見てはいけないものを見てしまった気がしたんだ。聞こえてしまうんじゃないかってほど、心臓がトクトクと速く大きく脈打っていた。恥ずかしさで真っ赤になっているのが自分でも判った。
ドアが軋んで閉まる音にほっと息をつく。マリーは自分の部屋に戻ったんだ。でもまだ動く気になれなくて階段に座りこんだ。常夜灯の照らす薄闇が心地良い。火照った顔を冷ましてくれる。
こっちに来てからというもの、道端や公園なんかでキスしている連中を見ることなんてしょっちゅうあるから、もう照れることもなくなってたのに。やっぱり知っている人となると全然違う。それにあんな、あんな優しげなアルビーは初めてだ。あんなにしおらしいマリーも。
恋人同士じゃないって言っていたのに。そうとしか見えない。揶揄われているのか騙されているのか、それともなにか事情があるのか、さっぱり判らない。
またドアの開く音がして、びくりと震えた。アルビーが僕の横を駆けおりていった。僕には見向きもせずに。またどこかへ出かけるのかと一瞬焦ったけれど、彼は玄関ではなくキッチンに入っていった。せっかく穏やかになっていた心臓がまた暴れだしている。
彼が戻ってこないうちに、僕は三階の自分の部屋へ急ぐべきだろう。
翌日、授業を終えて帰宅すると、珍しくアルビーが家にいた。平日はほぼ大学にいるのに。今日はのんびりと居間のソファーでコーヒーを飲んでいる。まだ顔を合わせたくなかったのに――。でも、それもかえって良かったような気もして。いつまでも悩んで、こんな想いをひき摺るのはいいことじゃないって僕だって解っているのだ。
言わないと。謝らないと。ちゃんと説明しないと。
でも、足がすくんで動かなかった。喉が締めつけられているように苦しい。
僕は悪くない。悪いことをしたわけではない。でも、僕のせいでマリーもアルビーも酷く誤解してしまっている。アルビーは不快に思ったにちがいない、ってことはどうしようもない事実で――。
「ごめん」
頭の中で必死に自分を叱咤して、声をふり絞った。アルビーが僕に視線を向ける。僕は唇をこじ開けてもう一度繰り返した。
「ごめん、アルビー」
「なにが?」
「誤解させるようなことをしてしまって」
「――まぁ、座りなよ」
ぱんぱんと、アルビーは自分の横を軽く叩いている。僕はおずおずと、彼の横ではなく向かいの一人掛けの方に座った。
「きみは――、僕が、きみに特別な好意を抱いている、と思っていた?」
ここまでくると覚悟がついたのか、言葉は比較的楽に出てきた。
「うん、まあね」
心臓が冷えるよ。
「ずっと、僕を見ていただろ?」
やっぱり気にしていたんだ。
「違うんだ! そうじゃなくて。きみはあの人形にどこか似ていて、あの人形が僕にとって特別だからだよ。やっと解ったんだ!」
「人形?」
深い緑が鋭く僕を見つめ返している。地雷だって解ってはいるけれど、避けては通れない。
「ロンドンに来たばかりの頃、僕の友人が、骨董屋さんで赤毛の男の子の人形を買ったんだ。その店の主人に言われた。その人形はアンティークではないけど、とても人気のある作家の作品で滅多に手に入らない希少品なんだって。それにも、」
すっと目を細めるアルビーの面をまじかに見つめる僕の背中を冷や汗が伝う。
「アビゲイル・アスターの刻印が打ってあった」
「そう。珍しいね。巷で彼の作品がみつかるなんて」
冷ややかな声音が否応なく僕を責めたてる。いつもの無言のアルビーに言うだけ言ってみるつもりだった僕は、こんなふうに返事が返ってくることも、彼が席を立たずに聴いてくれることも、ちっとも予想していなかったんだ。
でも、上りきる手前で立ち止まった。マリーが、アルビーの部屋から出てきたのだ。――泣いてる。
アルビーは宥めるように優しくマリーの髪を撫でていて、それから彼女にキスした。
僕は手摺りに手をかけたまま、その場にしゃがみこんでしまった。とっさに見てはいけないものを見てしまった気がしたんだ。聞こえてしまうんじゃないかってほど、心臓がトクトクと速く大きく脈打っていた。恥ずかしさで真っ赤になっているのが自分でも判った。
ドアが軋んで閉まる音にほっと息をつく。マリーは自分の部屋に戻ったんだ。でもまだ動く気になれなくて階段に座りこんだ。常夜灯の照らす薄闇が心地良い。火照った顔を冷ましてくれる。
こっちに来てからというもの、道端や公園なんかでキスしている連中を見ることなんてしょっちゅうあるから、もう照れることもなくなってたのに。やっぱり知っている人となると全然違う。それにあんな、あんな優しげなアルビーは初めてだ。あんなにしおらしいマリーも。
恋人同士じゃないって言っていたのに。そうとしか見えない。揶揄われているのか騙されているのか、それともなにか事情があるのか、さっぱり判らない。
またドアの開く音がして、びくりと震えた。アルビーが僕の横を駆けおりていった。僕には見向きもせずに。またどこかへ出かけるのかと一瞬焦ったけれど、彼は玄関ではなくキッチンに入っていった。せっかく穏やかになっていた心臓がまた暴れだしている。
彼が戻ってこないうちに、僕は三階の自分の部屋へ急ぐべきだろう。
翌日、授業を終えて帰宅すると、珍しくアルビーが家にいた。平日はほぼ大学にいるのに。今日はのんびりと居間のソファーでコーヒーを飲んでいる。まだ顔を合わせたくなかったのに――。でも、それもかえって良かったような気もして。いつまでも悩んで、こんな想いをひき摺るのはいいことじゃないって僕だって解っているのだ。
言わないと。謝らないと。ちゃんと説明しないと。
でも、足がすくんで動かなかった。喉が締めつけられているように苦しい。
僕は悪くない。悪いことをしたわけではない。でも、僕のせいでマリーもアルビーも酷く誤解してしまっている。アルビーは不快に思ったにちがいない、ってことはどうしようもない事実で――。
「ごめん」
頭の中で必死に自分を叱咤して、声をふり絞った。アルビーが僕に視線を向ける。僕は唇をこじ開けてもう一度繰り返した。
「ごめん、アルビー」
「なにが?」
「誤解させるようなことをしてしまって」
「――まぁ、座りなよ」
ぱんぱんと、アルビーは自分の横を軽く叩いている。僕はおずおずと、彼の横ではなく向かいの一人掛けの方に座った。
「きみは――、僕が、きみに特別な好意を抱いている、と思っていた?」
ここまでくると覚悟がついたのか、言葉は比較的楽に出てきた。
「うん、まあね」
心臓が冷えるよ。
「ずっと、僕を見ていただろ?」
やっぱり気にしていたんだ。
「違うんだ! そうじゃなくて。きみはあの人形にどこか似ていて、あの人形が僕にとって特別だからだよ。やっと解ったんだ!」
「人形?」
深い緑が鋭く僕を見つめ返している。地雷だって解ってはいるけれど、避けては通れない。
「ロンドンに来たばかりの頃、僕の友人が、骨董屋さんで赤毛の男の子の人形を買ったんだ。その店の主人に言われた。その人形はアンティークではないけど、とても人気のある作家の作品で滅多に手に入らない希少品なんだって。それにも、」
すっと目を細めるアルビーの面をまじかに見つめる僕の背中を冷や汗が伝う。
「アビゲイル・アスターの刻印が打ってあった」
「そう。珍しいね。巷で彼の作品がみつかるなんて」
冷ややかな声音が否応なく僕を責めたてる。いつもの無言のアルビーに言うだけ言ってみるつもりだった僕は、こんなふうに返事が返ってくることも、彼が席を立たずに聴いてくれることも、ちっとも予想していなかったんだ。
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