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Ⅰ.秋の始まり
10 洗濯機
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マリーの機嫌がすこぶる悪い。部屋の空気は重苦しくて、息をすることさえ気を使ってしまう。いきなり関係ないことで、彼女は僕に当たり散らしてくる。そのくせ何の説明もしてくれない。
しばらくイライラと部屋を歩き回ったあげく、彼女は白い飾り棚の中のビスクドールを睨めつけて、「こんなもの、捨ててしまえばいいのよ」と吐き捨てるように呟くと、荒々しく部屋を出ていった。
彼女が階段を上がっていく足音に耳を澄ませ、部屋のドアが閉まる音が聞こえてから、僕は立ちあがり飾り棚を覗きこんだ。
アルビーの面差しによく似た青いドレスの人形が、ガラスの向こうでしめやかな微笑みを浮かべている。じっと眺めていると、人形のガラスの瞳も誘うように僕を見つめる。それに触れてみたい衝動に駆られる。艶やかな黒。体温すら感じせる白。柔らかそうな朱。
そっと、扉を開けてみた。キィーと小さな叫び声のような軋み。
この人形、柔らかな黒髪は本物の人間の髪みたいだ。でも、陶器の肌はひんやりと冷たく指を滑る。朱の唇もカツンと固い。
――ねぇ、相手してあげようか。
さっきのよく解らないアルビーの声が、いきなり呼びかけてくる。
まさかね……。
僕は自分の妄想に顔を赤らめ、情けなくなって手のひらで口許を覆った。誰が見ているってわけでもないのに。
なんだか居た堪れなくてガラス扉を閉めると、そそくさと勉強道具をまとめた。
ちらりと窓から見た空は、いつの間にか闇に沈んでいる。
自室に戻ってからも勉強を続ける気になれなくて、でも、じっとしている気分でもなくて掃除を始めた。
こんなもやもやとした気分の時は、身体を動かしている方がいいんだ。馬鹿なことを考えずにすむ。
瞼裏にチラつくアルビーの緑と、人形のガラスの瞳が重なりあう。僕はそれを雑巾で拭いとる。ツヤツヤとした板の間は冷たく柔らかい。
それなのに、そんな僕の努力もものともせず、拭いされない記憶が突然声をあげるんだ。
あの人形はアルビーの何なんだよ!
地雷よ。
すかさずマリーの声が答える。ビスクドールと白雪姫が彼の地雷。白雪姫の経緯は聴いたけれど。
ぼんやりと宙を睨んでいて、雑巾を動かす手が止まっていた。僕は頭からマリーのきんきん声を追いだして、まずは拭き掃除を終わらせることに専念する。
明日はカーテンを洗おう。
くすんだ黄色いカーテンを閉めるついでに、外を眺めた。まだ降っている。離れた道沿いの外灯のぼんやりとした明かりが、雨の中をゆらゆら、泳いでいるみたいだ。
その晩、アルビーは帰ってこなかった。
僕は一人で朝食を食べた。ガランガランと轟音をたてて回るドラム式洗濯機が煩すぎる。寝不足の頭に地鳴りみたいだ。日本製と違って、こっちのは一度スタートボタンを押したら停止できない。いつも入れ忘れはないか慎重に確かめてから始めるのに、今日はいろいろしくじった。
「煩いわね。朝っぱらから洗濯なんてやめてよ!」
ほら、マリーもまだイライラが収まらないみたいだ。きっと彼女もあまり寝ていないからだ。きっとアルビーのことが心配で。いつも以上に厚めの化粧をしてたって目が赤いよ。それとも、泣いてたの?
黙ってトーストを齧る僕に、マリーは顔をしかめたまま。冷蔵庫から出したスムージーを手に、僕の向かいに乱暴に座った。
「なに? 洗濯機が煩くて聞こえない」
僕を睨みつけて早口で喋るマリーに、僕だって大声で言い返す。マリーはいっそう眉根をよせる。そしてちっと舌打ちをすると、立ちあがって僕の腕を掴んだ。そのままキッチンを出てドアを閉める。扉の向こうで轟音が若干マシになった。
「昨日、どうしてあんなこと訊いたのよ?」
マリーの目は、疑わしそうに細まっている。まるで僕がアルビーに何かしたんじゃないかと疑っているみたいだ。それは誤解だ、と僕は声をあげた。
しばらくイライラと部屋を歩き回ったあげく、彼女は白い飾り棚の中のビスクドールを睨めつけて、「こんなもの、捨ててしまえばいいのよ」と吐き捨てるように呟くと、荒々しく部屋を出ていった。
彼女が階段を上がっていく足音に耳を澄ませ、部屋のドアが閉まる音が聞こえてから、僕は立ちあがり飾り棚を覗きこんだ。
アルビーの面差しによく似た青いドレスの人形が、ガラスの向こうでしめやかな微笑みを浮かべている。じっと眺めていると、人形のガラスの瞳も誘うように僕を見つめる。それに触れてみたい衝動に駆られる。艶やかな黒。体温すら感じせる白。柔らかそうな朱。
そっと、扉を開けてみた。キィーと小さな叫び声のような軋み。
この人形、柔らかな黒髪は本物の人間の髪みたいだ。でも、陶器の肌はひんやりと冷たく指を滑る。朱の唇もカツンと固い。
――ねぇ、相手してあげようか。
さっきのよく解らないアルビーの声が、いきなり呼びかけてくる。
まさかね……。
僕は自分の妄想に顔を赤らめ、情けなくなって手のひらで口許を覆った。誰が見ているってわけでもないのに。
なんだか居た堪れなくてガラス扉を閉めると、そそくさと勉強道具をまとめた。
ちらりと窓から見た空は、いつの間にか闇に沈んでいる。
自室に戻ってからも勉強を続ける気になれなくて、でも、じっとしている気分でもなくて掃除を始めた。
こんなもやもやとした気分の時は、身体を動かしている方がいいんだ。馬鹿なことを考えずにすむ。
瞼裏にチラつくアルビーの緑と、人形のガラスの瞳が重なりあう。僕はそれを雑巾で拭いとる。ツヤツヤとした板の間は冷たく柔らかい。
それなのに、そんな僕の努力もものともせず、拭いされない記憶が突然声をあげるんだ。
あの人形はアルビーの何なんだよ!
地雷よ。
すかさずマリーの声が答える。ビスクドールと白雪姫が彼の地雷。白雪姫の経緯は聴いたけれど。
ぼんやりと宙を睨んでいて、雑巾を動かす手が止まっていた。僕は頭からマリーのきんきん声を追いだして、まずは拭き掃除を終わらせることに専念する。
明日はカーテンを洗おう。
くすんだ黄色いカーテンを閉めるついでに、外を眺めた。まだ降っている。離れた道沿いの外灯のぼんやりとした明かりが、雨の中をゆらゆら、泳いでいるみたいだ。
その晩、アルビーは帰ってこなかった。
僕は一人で朝食を食べた。ガランガランと轟音をたてて回るドラム式洗濯機が煩すぎる。寝不足の頭に地鳴りみたいだ。日本製と違って、こっちのは一度スタートボタンを押したら停止できない。いつも入れ忘れはないか慎重に確かめてから始めるのに、今日はいろいろしくじった。
「煩いわね。朝っぱらから洗濯なんてやめてよ!」
ほら、マリーもまだイライラが収まらないみたいだ。きっと彼女もあまり寝ていないからだ。きっとアルビーのことが心配で。いつも以上に厚めの化粧をしてたって目が赤いよ。それとも、泣いてたの?
黙ってトーストを齧る僕に、マリーは顔をしかめたまま。冷蔵庫から出したスムージーを手に、僕の向かいに乱暴に座った。
「なに? 洗濯機が煩くて聞こえない」
僕を睨みつけて早口で喋るマリーに、僕だって大声で言い返す。マリーはいっそう眉根をよせる。そしてちっと舌打ちをすると、立ちあがって僕の腕を掴んだ。そのままキッチンを出てドアを閉める。扉の向こうで轟音が若干マシになった。
「昨日、どうしてあんなこと訊いたのよ?」
マリーの目は、疑わしそうに細まっている。まるで僕がアルビーに何かしたんじゃないかと疑っているみたいだ。それは誤解だ、と僕は声をあげた。
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