霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
12 / 193
Ⅰ.秋の始まり

10 洗濯機

しおりを挟む
 マリーの機嫌がすこぶる悪い。部屋の空気は重苦しくて、息をすることさえ気を使ってしまう。いきなり関係ないことで、彼女は僕に当たり散らしてくる。そのくせ何の説明もしてくれない。
 しばらくイライラと部屋を歩き回ったあげく、彼女は白い飾り棚の中のビスクドールを睨めつけて、「こんなもの、捨ててしまえばいいのよ」と吐き捨てるように呟くと、荒々しく部屋を出ていった。

 彼女が階段を上がっていく足音に耳を澄ませ、部屋のドアが閉まる音が聞こえてから、僕は立ちあがり飾り棚を覗きこんだ。

 アルビーの面差しによく似た青いドレスの人形が、ガラスの向こうでしめやかな微笑みを浮かべている。じっと眺めていると、人形のガラスの瞳も誘うように僕を見つめる。それに触れてみたい衝動に駆られる。艶やかな黒。体温すら感じせる白。柔らかそうな朱。
 そっと、扉を開けてみた。キィーと小さな叫び声のような軋み。

 この人形、柔らかな黒髪は本物の人間の髪みたいだ。でも、陶器の肌はひんやりと冷たく指を滑る。朱の唇もカツンと固い。


 ――ねぇ、相手してあげようか。

 さっきのよく解らないアルビーの声が、いきなり呼びかけてくる。

 まさかね……。
 僕は自分の妄想に顔を赤らめ、情けなくなって手のひらで口許を覆った。誰が見ているってわけでもないのに。
 なんだか居た堪れなくてガラス扉を閉めると、そそくさと勉強道具をまとめた。

 ちらりと窓から見た空は、いつの間にか闇に沈んでいる。



 自室に戻ってからも勉強を続ける気になれなくて、でも、じっとしている気分でもなくて掃除を始めた。
 こんなもやもやとした気分の時は、身体を動かしている方がいいんだ。馬鹿なことを考えずにすむ。
 瞼裏にチラつくアルビーの緑と、人形のガラスの瞳が重なりあう。僕はそれを雑巾で拭いとる。ツヤツヤとした板の間は冷たく柔らかい。


 それなのに、そんな僕の努力もものともせず、拭いされない記憶が突然声をあげるんだ。

 あの人形はアルビーの何なんだよ!

 地雷よ。

 すかさずマリーの声が答える。ビスクドールと白雪姫が彼の地雷。白雪姫の経緯は聴いたけれど。

 ぼんやりと宙を睨んでいて、雑巾を動かす手が止まっていた。僕は頭からマリーのきんきん声を追いだして、まずは拭き掃除を終わらせることに専念する。

 明日はカーテンを洗おう。

 くすんだ黄色いカーテンを閉めるついでに、外を眺めた。まだ降っている。離れた道沿いの外灯のぼんやりとした明かりが、雨の中をゆらゆら、泳いでいるみたいだ。



 その晩、アルビーは帰ってこなかった。

 僕は一人で朝食を食べた。ガランガランと轟音をたてて回るドラム式洗濯機が煩すぎる。寝不足の頭に地鳴りみたいだ。日本製と違って、こっちのは一度スタートボタンを押したら停止できない。いつも入れ忘れはないか慎重に確かめてから始めるのに、今日はいろいろしくじった。

「煩いわね。朝っぱらから洗濯なんてやめてよ!」

 ほら、マリーもまだイライラが収まらないみたいだ。きっと彼女もあまり寝ていないからだ。きっとアルビーのことが心配で。いつも以上に厚めの化粧をしてたって目が赤いよ。それとも、泣いてたの?

 黙ってトーストを齧る僕に、マリーは顔をしかめたまま。冷蔵庫から出したスムージーを手に、僕の向かいに乱暴に座った。

「なに? 洗濯機が煩くて聞こえない」

 僕を睨みつけて早口で喋るマリーに、僕だって大声で言い返す。マリーはいっそう眉根をよせる。そしてちっと舌打ちをすると、立ちあがって僕の腕を掴んだ。そのままキッチンを出てドアを閉める。扉の向こうで轟音が若干マシになった。

「昨日、どうしてあんなこと訊いたのよ?」

 マリーの目は、疑わしそうに細まっている。まるで僕がアルビーに何かしたんじゃないかと疑っているみたいだ。それは誤解だ、と僕は声をあげた。




しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

婚約者に会いに行ったらば

龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。 そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。 ショックでその場を逃げ出したミシェルは―― 何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。 そこには何やら事件も絡んできて? 傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。

『これで最後だから』と、抱きしめた腕の中で泣いていた

和泉奏
BL
「…俺も、愛しています」と返した従者の表情は、泣きそうなのに綺麗で。 皇太子×従者

夏の扉を開けるとき

萩尾雅縁
BL
「霧のはし 虹のたもとで 2nd season」  アルビーの留学を控えた二か月間の夏物語。  僕の心はきみには見えない――。  やっと通じ合えたと思ったのに――。 思いがけない闖入者に平穏を乱され、冷静ではいられないアルビー。 不可思議で傍若無人、何やら訳アリなコウの友人たちに振り回され、断ち切れない過去のしがらみが浮かび上がる。 夢と現を両手に掬い、境界線を綱渡りする。 アルビーの心に映る万華鏡のように脆く、危うい世界が広がる――。  *****  コウからアルビーへ一人称視点が切り替わっていますが、続編として内容は続いています。独立した作品としては読めませんので、「霧のはし 虹のたもとで」からお読み下さい。  注・精神疾患に関する記述があります。ご不快に感じられる面があるかもしれません。 (番外編「憂鬱な朝」をプロローグとして挿入しています)  

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

転生貧乏貴族は王子様のお気に入り!実はフリだったってわかったのでもう放してください!

音無野ウサギ
BL
ある日僕は前世を思い出した。下級貴族とはいえ王子様のお気に入りとして毎日楽しく過ごしてたのに。前世の記憶が僕のことを駄目だしする。わがまま駄目貴族だなんて気づきたくなかった。王子様が優しくしてくれてたのも実は裏があったなんて気づきたくなかった。品行方正になるぞって思ったのに! え?王子様なんでそんなに優しくしてくるんですか?ちょっとパーソナルスペース!! 調子に乗ってた貧乏貴族の主人公が慎ましくても確実な幸せを手に入れようとジタバタするお話です。

目覚ましに先輩の声を使ってたらバレた話

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
サッカー部の先輩・ハヤトの声が密かに大好きなミノル。 彼を誘い家に泊まってもらった翌朝、目覚ましが鳴った。 ……あ。 音声アラームを先輩の声にしているのがバレた。 しかもボイスレコーダーでこっそり録音していたことも白状することに。 やばい、どうしよう。

泣くなといい聞かせて

mahiro
BL
付き合っている人と今日別れようと思っている。 それがきっとお前のためだと信じて。 ※完結いたしました。 閲覧、ブックマークを本当にありがとうございました。

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

処理中です...