霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅰ.秋の始まり

8 土足厳禁

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 鏡の中の自分の顔に、しかめっ面をしてみせる。目が気味悪いほど充血している。クマもできている。蒼白い肌は生気がない。ほとんど寝ていないからだ。朝までかかってレポートを書いていたのだ。その後横になっても眠れなくて、勢いこんで朝食まで作ってしまった。こんな頭がハイになっている時じゃないと、アルビーを誘ったりできないから。

 頬が勝手に緩んでくる。
 僕はちょっとだけ、この自分の顔色の悪さに感謝している。だって、彼が僕のことを心配してくれたんだもの! 言い方は、すこぶるきつかったけれど。
 緊張して上手く喋れなくてもっと困るかと思っていた。だけどアルビーと二人の時は、無理に喋らなくてもいいのだと判った。マリーがいるとこうはいかない。彼女は機関銃のように喋るだけじゃない。同じくらい多くのことを訊いてくる。

 何が好き? 
 何が嫌い? 
 一緒に暮らすんだもの、もっと自分の意見を言いなさいよ!

 僕は、少し黙ってくれる、って本気で言いたかった。アルビーがあんな無口になるのも解る気がした。


 
 ノックの音にびくりと心臓が跳ねる。返事と同時にドアが開いた。

「コウ、朝食のことなんだけど、」
「ちょっと、待った! 土足厳禁! 僕の部屋に入る時は靴を脱いで!」

 朝のジョギングから帰ったところなのか、マリーの靴は灰色の泥が跳ねていてびしゃびしゃだ。気がつかなかった。外は雨だ。

「靴を脱ぐって、汚いじゃないの!」
「僕の部屋はちゃんと拭き掃除したから綺麗なの!」

 こればかりは譲れない。昨日、マリーたちが僕の歓迎会の買い物をしている間に、大急ぎで掃除したんだ。フローリングの床を水拭きして、乾拭きして。
 僕はベッドに腰かけて、白い靴下の足の裏を彼女に向けた。

「ほら、汚れていないだろ!」

 マリーはしかめっ面のまま、唇を尖らせている。でも、強引に部屋の中まで入ってこようとはしない。

「それで、何?」
「――朝食、これからも作ってくれる?」
「この時間でいいの?」
「たぶん」

 マリーにしては歯切れが悪い。いつも歯に衣着せぬ言い方をするのに。

「珍しいのよ。アルがちゃんと起きてくるのも、朝食を食べるのも」

 早口で怒ったような言い方だ。
 彼女自身は、朝はジョギングにシャワーで忙しく、コンビニのスムージーが食事代わりだ。アルビーは、時間があるときはシリアルかトーストだって。

 新年度が始まってから目にみえて忙しく、時間を惜しんで食事もおろそかになっている。だからこうして彼がちゃんと食べてくれると、私が安心なの。と、マリーは真剣な顔をして僕に告げた。

 まるでお母さんだ……。

 声にはださなかったのに、マリーには解ったみたいだ。この時だけは、空気を読まない英国人ブリティッシュとは思えない察しの良さだった。

「心配で当然でしょ。博士号がかかっているんですもの!」

 つんと上を向いた鼻に、胸の前で腕組みまでしている。そんな偉そうに言わなくても――。

 って、「博士!?」と僕は叫んでしまっていた。

「彼、専攻は何なの?」
 そういえば訊いてなかった。
「臨床心理学。博士課程三年目」
「彼、臨床心理士を目指してるってこと?」

 僕は恐る恐る訊ねた。どうも、ピンとこなかったのだ。アルビーと心理学だなんて……。カウンセラーって、あんな無口でもなれるものなの?
 それに3年目って、彼、いくつなんだよ? ストレートに進んだとして、大学終了で二十一、修士過程は、こっちは一年だったよな。それから3年目。25! 僕より5つも年上なわけ!

 僕のこと中学生っていうけど、彼だってたいがいだよ。5つも上だなんて詐欺だ!

 この衝撃でぽかんと固まってしまっていた僕を、マリーは顔をしかめて眺めていた。





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