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Ⅰ.秋の始まり
7 キッチン
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「馬鹿じゃないの?」
憧れのアルビーと二人で朝食、と心臓をドキドキと高鳴らせていた僕の、ほんわりとした幸せを吹き飛ばすに充分な一言だ。それも、僕を一瞥したのはほんの一瞬。アルビーはもうそっぽを向いて黙々とトーストを食べている。
「今にもぶっ倒れそうな顔してるよ」
続いて聞こえた言葉に驚いて、僕は咀嚼するのを忘れたトーストをそのまま呑みこんでいた。
「あんなもの、ほっとけばいいのに」
ちらりとアルビーはシンクに目をやる。
「そうはいかないよ」
僕は苦笑いを返した。まけてもらった家賃二百ポンド分は働いて返さないと。
窓の外から覗くどんよりと重い曇天に負けることなく、今朝のキッチンはキラキラしている。昨夜の内に洗い物はすませた。溜まっていたゴミもまとめて出した。散らばっていた調味料も棚の中に突っこんだ。夜中までかかって、埃の溜まっていたオープンシェルフの拭き掃除までしたのだ。
そのキッチンに入ってきたアルビーの第一声が、さっきの「馬鹿じゃないの」だ。そうして馬鹿、と言った僕の用意した朝食を食べている。薄切りトーストにベーコンエッグをのせて、上品にカトラリーを操って。
「朝食、食べる?」と訊いて回った僕に、マリーはドア越しに「いらない」と言い、アルビーはドアを開けて頷いてくれた。
この朝食は、二人では食べきれなくて食材を無駄にすることが多いから、あるものは勝手に食べていい。と言ってもらったお礼のつもりで作ったのだ。
「なんで、アキラなのにコウなの?」
何の脈絡もなくアルビーが呟く。
透けるような肌色に、彼の方こそ顔色が悪いんじゃないかと思いながら見とれていた僕は、思わず視線を泳がせる。
「えっと、友だちが、晃って漢字はコウとも読めるんだなって。その方が呼びやすいって」
訊ねておいて反応はなしで、彼は立ちあがった。小鍋に水を入れ火にかける。
「僕は、朝はコーヒーなんだ」
周囲を見回して首を傾げている。吊り棚の扉を一つ一つ開けていく。
「ごめん! コーヒーは冷凍庫。それからドリッパーはここで、ペーパーフィルターは、」と、僕は慌てて必要なもの一式、あちこちの引き出しから取りだした。
「そんなふうにしまい込んで、よくどこに何があるかが判るね」
アルビーは変なところで感心している。
「マリーのお母さんは料理上手な人だろ? 道具が揃っているし、調味料も。置き場所がすごく機能的だ」
勝手にキッチンをいじってはいけなかったのかな、と気もそぞろで言い訳がましく並べたてた。
と、アルビーは嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
微笑んだんだよ!
「そうなんだ。アンナは料理やお菓子を作るのが好きで、得意な人なんだよ」
誇らしげなその口調に、マリーの言っていた家族として一緒に育ったから、という言葉が嘘ではないのだとすとんと胸に落ちていた。
ふわりと彼のまとう空気が和らいでいる。人形のようなつるりとした肌が、弾力をもって柔らかに動いている。立ち昇るコーヒーの香。ハンドドリップで音をたてずにお湯を注ぐ、ゆったりとしたその仕草が、とても綺麗で、優雅で、なぜだか懐かしい。
こんな綺麗な人、他に知らないのに。彼は郷愁を感じさせるんだ。そして僕は、なぜだか泣きたくなる。なぜなんだろう。
アルビーはできあがったコーヒーを持ってテーブルに戻っている。ドリッパーに残るコーヒー粕は、その場に置かれたまま。
マリーだけじゃない。アルビーも……。
ここで僕はいきなり現実に引き戻された。
昨夜の食卓は浮かれていて、そこまで気が回らなかったのだ。テーブルにつくアルビーの皿に残る、見事に選り分けられたサラダのパプリカが、賑やかな彩で警告を発してくれているじゃないか。
僕は気の遠くなるのを感じながら、これから始まる残飯との闘いに思いを馳せていた。
憧れのアルビーと二人で朝食、と心臓をドキドキと高鳴らせていた僕の、ほんわりとした幸せを吹き飛ばすに充分な一言だ。それも、僕を一瞥したのはほんの一瞬。アルビーはもうそっぽを向いて黙々とトーストを食べている。
「今にもぶっ倒れそうな顔してるよ」
続いて聞こえた言葉に驚いて、僕は咀嚼するのを忘れたトーストをそのまま呑みこんでいた。
「あんなもの、ほっとけばいいのに」
ちらりとアルビーはシンクに目をやる。
「そうはいかないよ」
僕は苦笑いを返した。まけてもらった家賃二百ポンド分は働いて返さないと。
窓の外から覗くどんよりと重い曇天に負けることなく、今朝のキッチンはキラキラしている。昨夜の内に洗い物はすませた。溜まっていたゴミもまとめて出した。散らばっていた調味料も棚の中に突っこんだ。夜中までかかって、埃の溜まっていたオープンシェルフの拭き掃除までしたのだ。
そのキッチンに入ってきたアルビーの第一声が、さっきの「馬鹿じゃないの」だ。そうして馬鹿、と言った僕の用意した朝食を食べている。薄切りトーストにベーコンエッグをのせて、上品にカトラリーを操って。
「朝食、食べる?」と訊いて回った僕に、マリーはドア越しに「いらない」と言い、アルビーはドアを開けて頷いてくれた。
この朝食は、二人では食べきれなくて食材を無駄にすることが多いから、あるものは勝手に食べていい。と言ってもらったお礼のつもりで作ったのだ。
「なんで、アキラなのにコウなの?」
何の脈絡もなくアルビーが呟く。
透けるような肌色に、彼の方こそ顔色が悪いんじゃないかと思いながら見とれていた僕は、思わず視線を泳がせる。
「えっと、友だちが、晃って漢字はコウとも読めるんだなって。その方が呼びやすいって」
訊ねておいて反応はなしで、彼は立ちあがった。小鍋に水を入れ火にかける。
「僕は、朝はコーヒーなんだ」
周囲を見回して首を傾げている。吊り棚の扉を一つ一つ開けていく。
「ごめん! コーヒーは冷凍庫。それからドリッパーはここで、ペーパーフィルターは、」と、僕は慌てて必要なもの一式、あちこちの引き出しから取りだした。
「そんなふうにしまい込んで、よくどこに何があるかが判るね」
アルビーは変なところで感心している。
「マリーのお母さんは料理上手な人だろ? 道具が揃っているし、調味料も。置き場所がすごく機能的だ」
勝手にキッチンをいじってはいけなかったのかな、と気もそぞろで言い訳がましく並べたてた。
と、アルビーは嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
微笑んだんだよ!
「そうなんだ。アンナは料理やお菓子を作るのが好きで、得意な人なんだよ」
誇らしげなその口調に、マリーの言っていた家族として一緒に育ったから、という言葉が嘘ではないのだとすとんと胸に落ちていた。
ふわりと彼のまとう空気が和らいでいる。人形のようなつるりとした肌が、弾力をもって柔らかに動いている。立ち昇るコーヒーの香。ハンドドリップで音をたてずにお湯を注ぐ、ゆったりとしたその仕草が、とても綺麗で、優雅で、なぜだか懐かしい。
こんな綺麗な人、他に知らないのに。彼は郷愁を感じさせるんだ。そして僕は、なぜだか泣きたくなる。なぜなんだろう。
アルビーはできあがったコーヒーを持ってテーブルに戻っている。ドリッパーに残るコーヒー粕は、その場に置かれたまま。
マリーだけじゃない。アルビーも……。
ここで僕はいきなり現実に引き戻された。
昨夜の食卓は浮かれていて、そこまで気が回らなかったのだ。テーブルにつくアルビーの皿に残る、見事に選り分けられたサラダのパプリカが、賑やかな彩で警告を発してくれているじゃないか。
僕は気の遠くなるのを感じながら、これから始まる残飯との闘いに思いを馳せていた。
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