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九章
空模様8
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マーシュコートの朝は早い。夜型の飛鳥を中心に回っているケンブリッジの館と違い、ここでは朝早くから活動するサラに合わせて一日のルーティンが決められるからだ。
朝の庭仕事を一頻り終え、シャワーを浴び、朝食を済ませると、ふと物足りなさを感じてサラは小首を傾げた。いつものルーティンで安心できない、欠けている。そう感じられる時にどうすればいいのか、彼女はよく解かっていた。
サラはすぐにTSネクストを使ってビデオ通話をかけた。滅多にこの手段を取らないだけに、受け手の反応は早かった。彼女を待たせることなく画面が立ち上がる。何事か、と緊迫した表情を見せた相手に、彼女は挨拶も、前置きもなく要点だけを真顔で伝えた。
「ヘンリー、アスカが戻ってこないの。彼、どこで何をしているの?」
「どこ、って——、聞いてないの?」
「何も」
サラは僅かに眉をひそめた。今はロンドンにいるヘンリーのどこか気だるげ空気を敏感に感じ取ったのだ。
また、この二人は噛み合っていないのだ、と彼女の直感が囁いた。
「彼は今、ケンブリッジだよ。研究所に籠ってる」
「何の研究?」
訝しげに、サラは小首を傾げた。マーシュコートに戻らず、わざわざ施設に籠らなければならないような類の開発があっただろうか? 以前、同じように何の連絡もなく飛鳥が戻ってこなかった時を思い返し、呟く。
「ああ、通信映像の改良ね」
そういえば、自分を驚かすためだった。今のように不満をぶつけた自分に、ヘンリーがこっそり教えてくれたではないか。サラは表情を和らげくすりと微笑んだ。
「そっちじゃなくて、デイブの助っ人でね。春イベントが上手くまとまらなくて伸びているだろう、遅れを取り返すためにアスカが頑張ってくれているんだ。そのプレイベントとして、メイボールで、」
「なんでアスカが?」
自分でも思いのほか苛立たって、サラはヘンリーを遮った。予測と違った彼の返答は、彼女には信じ難いものだったのだ。彼女のそんなむき出しの感情を宥めるためにか、ヘンリーはよりいっそう優し気な眼差しで彼女を見つめ、淡々とした口調で言葉を重ねた。
「総チェックしてくれているって」
「それじゃあ、今回のイベントに、通信映像は出さないの?」
「そうだね。デイブからの報告によるとそうなるね」
「信じられない」
デヴィッドの管轄はTSインテリアだ。確かに、春のイベントでは、新しく立ち上げたインテリア部門をお披露目することになっている。だが、そのイベント予定がずれ込んでいるのは、液状ガラスのTS化が達成できた今、TSの新たなステージを発表するために調整しているからだとばかり思っていた。サラは、飛鳥にしろ、そのつもりなのだ、と思い込んでいたのだ。飛鳥も、吉野も、ここにいる目的はサウード殿下を匿うことだということを忘れるほどに、開発に打ち込んでいたではないか。
「まだそんな段階じゃないよ。アスカにしても、発表の意思はまだないって。使い方にしても、考え直したいと言ってるんだ」
「ヘンリーだって、今までのアーカシャーの事業展開を根底から覆しかねない開発だ、って言ったじゃない。完成度だって、もう十分商品化できるほどに、」
「サラ、僕はアスカの意思を尊重する」
有無を言わせないヘンリーの口調に、サラはびくりと震え、押し黙った。
「寂しかったら戻っておいで」
労わるようなヘンリーの優しい声が上滑る。唇を噛みしめて、サラは首を横に振った。
「寂しいわけじゃないの。——ただ、」
没頭していないと落ち着かないのだ。一人でできることはやり尽くし、今以上に作業を進めるには飛鳥が必要だった。それだけ。
「戻ってくるといい。ヨシノも戻っている。アスカがきみを手伝えないなら、彼に頼んでみてはどうだい?」
そう言いながら、ヘンリーはどこか皮肉気な表情を浮かべている。決して心からの提案というわけではないのだろう。そんな代替案をサラは吞むわけにはいかない。それは彼の意に反することになる。
「イベントが済むまで待ってる。終わり次第、アスカに戻るように言って」
冷ややかな口調でそれだけ告げると、別れの挨拶もそこそこにサラはTS画面を閉じた。
ヘンリーにしても、飛鳥にしても、どこか変だ。そう思わずにはいられなかった。そう、やる気を感じられないのだ。液状TSガラスにしろ、通信映像にしろ、世に知らしめることで、また一歩同業他社から抜きんでることができる。宿敵ガンエデン社に一矢報いることだってできる。そんな熱情を、いつしか二人から感じ取れなくなっていた。今はむしろ、吉野の方が地に足をつけているかもしれない。
「アスカはムラがあるからよ」サラはため息をついて独り言ちた。
そして、ヘンリーはそんな飛鳥を気遣いすぎて振り回されている。飛鳥の安定がヘンリーの安定。そのためにサラができることは、今のこの寄り道から本来の道へ立ち返った時、すぐに取り掛かれる環境を整えておくことだろう。
そう決意を固めると、朝食の席に腰を据えている理由はもうない。サラは立ち上がり、自分の居場所へと足を進めた。自分の内側にある明確なヴィジョンを誰とも共有できないまま。ヘンリーの気持ちが整うまで、ひとりで、いくらでも磨き上げればいいと、不満さえも、目標にすり替えて——
朝の庭仕事を一頻り終え、シャワーを浴び、朝食を済ませると、ふと物足りなさを感じてサラは小首を傾げた。いつものルーティンで安心できない、欠けている。そう感じられる時にどうすればいいのか、彼女はよく解かっていた。
サラはすぐにTSネクストを使ってビデオ通話をかけた。滅多にこの手段を取らないだけに、受け手の反応は早かった。彼女を待たせることなく画面が立ち上がる。何事か、と緊迫した表情を見せた相手に、彼女は挨拶も、前置きもなく要点だけを真顔で伝えた。
「ヘンリー、アスカが戻ってこないの。彼、どこで何をしているの?」
「どこ、って——、聞いてないの?」
「何も」
サラは僅かに眉をひそめた。今はロンドンにいるヘンリーのどこか気だるげ空気を敏感に感じ取ったのだ。
また、この二人は噛み合っていないのだ、と彼女の直感が囁いた。
「彼は今、ケンブリッジだよ。研究所に籠ってる」
「何の研究?」
訝しげに、サラは小首を傾げた。マーシュコートに戻らず、わざわざ施設に籠らなければならないような類の開発があっただろうか? 以前、同じように何の連絡もなく飛鳥が戻ってこなかった時を思い返し、呟く。
「ああ、通信映像の改良ね」
そういえば、自分を驚かすためだった。今のように不満をぶつけた自分に、ヘンリーがこっそり教えてくれたではないか。サラは表情を和らげくすりと微笑んだ。
「そっちじゃなくて、デイブの助っ人でね。春イベントが上手くまとまらなくて伸びているだろう、遅れを取り返すためにアスカが頑張ってくれているんだ。そのプレイベントとして、メイボールで、」
「なんでアスカが?」
自分でも思いのほか苛立たって、サラはヘンリーを遮った。予測と違った彼の返答は、彼女には信じ難いものだったのだ。彼女のそんなむき出しの感情を宥めるためにか、ヘンリーはよりいっそう優し気な眼差しで彼女を見つめ、淡々とした口調で言葉を重ねた。
「総チェックしてくれているって」
「それじゃあ、今回のイベントに、通信映像は出さないの?」
「そうだね。デイブからの報告によるとそうなるね」
「信じられない」
デヴィッドの管轄はTSインテリアだ。確かに、春のイベントでは、新しく立ち上げたインテリア部門をお披露目することになっている。だが、そのイベント予定がずれ込んでいるのは、液状ガラスのTS化が達成できた今、TSの新たなステージを発表するために調整しているからだとばかり思っていた。サラは、飛鳥にしろ、そのつもりなのだ、と思い込んでいたのだ。飛鳥も、吉野も、ここにいる目的はサウード殿下を匿うことだということを忘れるほどに、開発に打ち込んでいたではないか。
「まだそんな段階じゃないよ。アスカにしても、発表の意思はまだないって。使い方にしても、考え直したいと言ってるんだ」
「ヘンリーだって、今までのアーカシャーの事業展開を根底から覆しかねない開発だ、って言ったじゃない。完成度だって、もう十分商品化できるほどに、」
「サラ、僕はアスカの意思を尊重する」
有無を言わせないヘンリーの口調に、サラはびくりと震え、押し黙った。
「寂しかったら戻っておいで」
労わるようなヘンリーの優しい声が上滑る。唇を噛みしめて、サラは首を横に振った。
「寂しいわけじゃないの。——ただ、」
没頭していないと落ち着かないのだ。一人でできることはやり尽くし、今以上に作業を進めるには飛鳥が必要だった。それだけ。
「戻ってくるといい。ヨシノも戻っている。アスカがきみを手伝えないなら、彼に頼んでみてはどうだい?」
そう言いながら、ヘンリーはどこか皮肉気な表情を浮かべている。決して心からの提案というわけではないのだろう。そんな代替案をサラは吞むわけにはいかない。それは彼の意に反することになる。
「イベントが済むまで待ってる。終わり次第、アスカに戻るように言って」
冷ややかな口調でそれだけ告げると、別れの挨拶もそこそこにサラはTS画面を閉じた。
ヘンリーにしても、飛鳥にしても、どこか変だ。そう思わずにはいられなかった。そう、やる気を感じられないのだ。液状TSガラスにしろ、通信映像にしろ、世に知らしめることで、また一歩同業他社から抜きんでることができる。宿敵ガンエデン社に一矢報いることだってできる。そんな熱情を、いつしか二人から感じ取れなくなっていた。今はむしろ、吉野の方が地に足をつけているかもしれない。
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そして、ヘンリーはそんな飛鳥を気遣いすぎて振り回されている。飛鳥の安定がヘンリーの安定。そのためにサラができることは、今のこの寄り道から本来の道へ立ち返った時、すぐに取り掛かれる環境を整えておくことだろう。
そう決意を固めると、朝食の席に腰を据えている理由はもうない。サラは立ち上がり、自分の居場所へと足を進めた。自分の内側にある明確なヴィジョンを誰とも共有できないまま。ヘンリーの気持ちが整うまで、ひとりで、いくらでも磨き上げればいいと、不満さえも、目標にすり替えて——
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