胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
744 / 758
九章

空模様8

しおりを挟む
 マーシュコートの朝は早い。夜型の飛鳥を中心に回っているケンブリッジの館と違い、ここでは朝早くから活動するサラに合わせて一日のルーティンが決められるからだ。
 朝の庭仕事を一頻り終え、シャワーを浴び、朝食を済ませると、ふと物足りなさを感じてサラは小首を傾げた。いつものルーティンで安心できない、欠けている。そう感じられる時にどうすればいいのか、彼女はよく解かっていた。

 サラはすぐにTSネクストを使ってビデオ通話をかけた。滅多にこの手段を取らないだけに、受け手の反応は早かった。彼女を待たせることなく画面が立ち上がる。何事か、と緊迫した表情を見せた相手に、彼女は挨拶も、前置きもなく要点だけを真顔で伝えた。

「ヘンリー、アスカが戻ってこないの。彼、どこで何をしているの?」
「どこ、って——、聞いてないの?」
「何も」

 サラは僅かに眉をひそめた。今はロンドンにいるヘンリーのどこか気だるげ空気を敏感に感じ取ったのだ。
 また、この二人は噛み合っていないのだ、と彼女の直感が囁いた。

「彼は今、ケンブリッジだよ。研究所に籠ってる」
「何の研究?」

 訝しげに、サラは小首を傾げた。マーシュコここートに戻らず、わざわざ施設に籠らなければならないようなたぐいの開発があっただろうか? 以前、同じように何の連絡もなく飛鳥が戻ってこなかった時を思い返し、呟く。

「ああ、通信映像の改良ね」

 そういえば、自分を驚かすためだった。今のように不満をぶつけた自分に、ヘンリーがこっそり教えてくれたではないか。サラは表情を和らげくすりと微笑んだ。

「そっちじゃなくて、デイブの助っ人でね。春イベントが上手くまとまらなくて伸びているだろう、遅れを取り返すためにアスカが頑張ってくれているんだ。そのプレイベントとして、メイボールで、」
「なんでアスカが?」

 自分でも思いのほか苛立たって、サラはヘンリーを遮った。予測と違った彼の返答は、彼女には信じ難いものだったのだ。彼女のそんなむき出しの感情を宥めるためにか、ヘンリーはよりいっそう優し気な眼差しで彼女を見つめ、淡々とした口調で言葉を重ねた。

「総チェックしてくれているって」
「それじゃあ、今回のイベントに、通信映像は出さないの?」
「そうだね。デイブからの報告によるとそうなるね」
「信じられない」

 デヴィッドの管轄はTSインテリアだ。確かに、春のイベントでは、新しく立ち上げたインテリア部門をお披露目することになっている。だが、そのイベント予定がずれ込んでいるのは、液状ガラスのTS化が達成できた今、TSの新たなステージを発表するために調整しているからだとばかり思っていた。サラは、飛鳥にしろ、そのつもりなのだ、と思い込んでいたのだ。飛鳥も、吉野も、ここにいる目的はサウード殿下を匿うことだということを忘れるほどに、開発に打ち込んでいたではないか。

「まだそんな段階じゃないよ。アスカにしても、発表の意思はまだないって。使い方にしても、考え直したいと言ってるんだ」
「ヘンリーだって、今までのアーカシャーの事業展開を根底から覆しかねない開発だ、って言ったじゃない。完成度だって、もう十分商品化できるほどに、」
「サラ、僕はアスカの意思を尊重する」

 有無を言わせないヘンリーの口調に、サラはびくりと震え、押し黙った。

「寂しかったら戻っておいで」

 労わるようなヘンリーの優しい声が上滑る。唇を噛みしめて、サラは首を横に振った。

「寂しいわけじゃないの。——ただ、」

 没頭していないと落ち着かないのだ。一人でできることはやり尽くし、今以上に作業を進めるには飛鳥が必要だった。それだけ。

「戻ってくるといい。ヨシノも戻っている。アスカがきみを手伝えないなら、彼に頼んでみてはどうだい?」

 そう言いながら、ヘンリーはどこか皮肉気な表情を浮かべている。決して心からの提案というわけではないのだろう。そんな代替案をサラは吞むわけにはいかない。それは彼の意に反することになる。

「イベントが済むまで待ってる。終わり次第、アスカに戻るように言って」

 冷ややかな口調でそれだけ告げると、別れの挨拶もそこそこにサラはTS画面を閉じた。

 ヘンリーにしても、飛鳥にしても、どこか変だ。そう思わずにはいられなかった。そう、やる気を感じられないのだ。液状TSガラスにしろ、通信映像にしろ、世に知らしめることで、また一歩同業他社から抜きんでることができる。宿敵ガンエデン社に一矢報いることだってできる。そんな熱情を、いつしか二人から感じ取れなくなっていた。今はむしろ、吉野の方が地に足をつけているかもしれない。

「アスカはムラがあるからよ」サラはため息をついて独り言ちた。

 そして、ヘンリーはそんな飛鳥を気遣いすぎて振り回されている。飛鳥の安定がヘンリーの安定。そのためにサラができることは、今のこの寄り道から本来の道へ立ち返った時、すぐに取り掛かれる環境を整えておくことだろう。

 そう決意を固めると、朝食の席に腰を据えている理由はもうない。サラは立ち上がり、自分の居場所へと足を進めた。自分の内側にある明確なヴィジョンを誰とも共有できないまま。ヘンリーの気持ちが整うまで、ひとりで、いくらでも磨き上げればいいと、不満さえも、目標にすり替えて——





しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。 そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ナースコール

wawabubu
青春
腹膜炎で緊急手術になったおれ。若い看護師さんに剃毛されるが…

アイドルグループの裏の顔 新人アイドルの洗礼

甲乙夫
恋愛
清純な新人アイドルが、先輩アイドルから、強引に性的な責めを受ける話です。

処理中です...