胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

空模様6

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 研究所に籠る、との言葉通り、飛鳥は早い夕食を済ませると出かけてしまった。夜半前に帰ってきたデヴィッドにしても「そうなんだよねぇ、急な話で僕も驚いてるとこ」と肩をすくませはしたが、「まぁ、嬉しい誤算ってやつだね!」と豪快に笑い飛ばした。彼にしてみれば、飛鳥以上に力強い助っ人はいない。吉野の身辺が落ち着き、飛鳥が仕事に精を出してくれるなら願ったり叶ったりというものだ。

 それでどうする、と問われたアレンは、当然、明日から参加したい、と即答した。
「ヘンリーもアスカちゃんもいないこの館に、一人残されるっていうんじゃ、さすがに気も塞ぐよね」
「ええ、今はフラットに戻るのもどうかなって感じですし」
 アレンは少し寂しそうにぎこちなく笑みを結んだ。
 アレンの試験日程はすでに消化しているのだが、フレデリックはまだ終わっていないのだ。それに吉野も——
 フラットに帰ってフレデリックの邪魔をするのも、いつ戻るとも知れない吉野をここで待ち続けるのも、どちらもアレンには辛い選択になる。飛鳥の申し出はまさに渡りに船だった。
「うん、うん。大学関係はもう少し避けておいた方がよさそうだしね」
 デヴィッドは明るい口調で言ったのだが、「あ、特に何かあった訳じゃないからね、気にしないでね」と慌てて付け加える。
「大丈夫です」
 ふふっとアレンは微笑を返した。



 そんなことで、吉野が大学での試験を終えてこの館へ戻ってきた時、そこには誰もいなかった。メアリーに替り、通いで家事を受け持っている彼女の姪ナンシーは、すでに退勤していたのだ。
「まさかこれを使うことがあるなんてな」とぼやきながら、吉野は合鍵で玄関のドアを開けた。音声認識システムで開く表門とは違い、玄関は昔ながらの仕組みなのだ。
 しんと静まり返った玄関ホールからも、人の気配は感じられない。
 面倒がらずに連絡を入れておけばよかった、と今さら頭を搔きながら、吉野はキッチンに向かった。まずはコーヒーを淹れ、この後どうするかを考えるために。



 そんなこととは知らないアレンとデヴィッドが研究所から戻ってきた時、誰もいないはずの館にはあかりが燈り、玄関を開けると同時に何ともいえない美味しそうな匂いが漂ってきた。

「兄でしょうか?」
「違う、ヨシノだよ! この香ばしい匂い、肉じゃがだ! ヨシノ~」

 あ、という間にデヴィッドは走り出している。ダイニングを通り越し、キッチンのドアをバンッと開ける。呆気に取られてその背中を眺めていたアレンも、我に返って後を追った。

「おい、廊下を走るなって習っただろ!」
 ひょっこりと吉野の顔が開け放たれたドアから突き出され、「おかえり」と勢い余ったアレンを全身が受け止めた。
「ヨシノ、もう間に合わないかと心配していたんだ!」
「ちゃんと行ってきたって」
 吉野はアレンの頭をわしわしと撫でながら、「お前、髪のびたなぁ」とクックッと笑う。


「おーい、ヨシノ!」とデヴィッドに呼ばれ、二人はキッチンへと入っていった。作業テーブルに置かれた食べかけの肉じゃがに白ご飯、味噌汁は、まだほくほくと温かそうだ。吉野は、一人黙々と食事をしていたのだと気づき、アレンは「ごめん、邪魔しちゃったね」と恐縮して謝った。
 その一方でデヴィッドは、「帰ったなら帰ったって連絡してくれればいいのに! 僕ら、食事を済ませてきちゃったよ」などとぼやきながら、未練がましく鍋の蓋を持ち上げている。
 吉野は、「したよ。でも、飛鳥もお前らも電源切ってただろ。どこにいたの?」と、ひとり席に戻って箸を持ちあげ食事を再開する。そんな彼を羨ましそうに眺め、「お腹空いてないけど、ちょっとくらいなら入るかなぁ」と、デヴィッドは深皿を取りに行く。

 アレンはにこにこと頬を緩ませて、そんな彼らの掛け合いを眺めていた。いつもの日常に戻ったんだ、と胸いっぱいの安心感で満たされていた。

 
 食事しながら一頻ひとしきりアレンたちの近況を聞き終えると、吉野は「飛鳥の仕事を手伝ってるって、お前、もう試験は終わってメイウィークに入ってるんだろ? コレッジに遊びに行かないの?」と意外そうな顔で尋ねた。
「一応僕もそれ、考えたんだけどね~」
 その向かいに座るデヴィッドが、箸を下ろして複雑そうな声音で応える。

 お茶を淹れようとコンロ前でお湯を沸かしていたアレンは、自分に話しかけられたのではなかったのか、と怪訝そうな眼差しで交互にそっと二人を盗み見る。
 ああ、そうか――
 デヴィッドの複雑な表情から、すぐにアレンは彼が自分に替わって応えた意味に合点がいった。
 自分は大学のお祭り騒ぎにから、誰も――、目の前にいるデヴィッドだけでなく、クリスもフレデリックもこの話題を出すことがなかったのだ。
 いつまでこんな、人目を避けていなければならないのだろう、とアレンは情けなさから聞こえないふりをしていた。

「いまだにごちゃごちゃしてんの? お前ら、神経質すぎなんじゃないの?」
 吉野の無神経な発言に、デヴィッドはいらっと瞳に険を走らせる。
「こういうことは、神経質すぎるくらいでいいんだよ! 何かあってからじゃ遅いんだからね」
「確かに隠れてりゃ安全かもしれないけどさ、そのために楽しいことからも遠ざかって、隔離されるような毎日じゃつまんねぇだろ。実際、つい最近までそんな生活だったんだしさ、なぁ、アレン!」
 一気に喋ると、吉野はアレンに同意を求めて声を上げた。だがアレンはほぼうわの空で、大きな目を更に丸めて吉野の手許を凝視していた。

  吉野が箸を止めている! いつも食べ終えるまで相槌くらいしかしないのに、食事を優先しないなんて――
 こんなの初めてだ、と驚きでいっぱいだったのだ。

「な、お前だって嫌だろ?」
「えっと、何が?」
「メイウイークなんだぞ。試験が終わったんだからぱぁっと騒げばいいじゃん」
「僕は済んだけど、きみはまだだよ、ね?」
 自信なさそうにアレンは小首を傾げている。
「俺たちのコレッジ、今年はまたアーカシャーが協賛するって知ってるだろ?」
「あー!」デヴィッドが遮るように大声を出した。

 だが時すでに遅しだ。アレンは不思議そうな、けれど好奇心で輝きを増した瞳で吉野を、そしてデヴィッドを見つめている。

「もう、なんでばらしちゃうんだよ!」吉野を横目でにらみながら、デヴィッドは観念して吐息をついた。「新作発表会のプレイベントとして、今、取り組んでいるやつ、メイボールで発表しようかって話になってるんだよ」


 


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