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九章
空模様4
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館を見下ろす高台にある薔薇園で、アレンはガーデンチェアに背をもたせかけ、眼前に広がる風景を漠然と眺めていた。
飛鳥と来た時には、まだわずかにほころび始めたばかりだった薔薇は、この二週間ほどでそこかしこ花開いている。新しい蕾をどんどんつけて満開にはまだまだこれからといった風情だが、それでも十分楽しめるだろう。
だが彼は、花を楽しむ余裕などなさそうな物思いに沈んでいた。
飛鳥さんは、どうしてあんなことを僕に尋ねたのだろうか。
と、こんな問いが彼の頭に根を張ってしまっていたからだ。
あまりの思いがけなさに、アレンはその場で応えることができなかった。真っ白になった頭で意識できないまま、「試験が終わるまで待って下さい」と口走った。そして、試験期間中も勉強の合間をぬって思いあぐねていた。そのかいあって、ある程度自分の気持ちが纏まったのはいいのだが、今度は「何故」が気になって仕方ない。
「悔恨――」、と声に出して呟いてみた。
この美しい薔薇に相応しいとは思えない苦い響き。
何故父は自らの手で丹精込めて生み出した花にこんな名前をつけたのか。飛鳥でなくても知りたいと思うだろう。アレンにしろそう思う。けれど、続く問いが、なぜ「母が、父のことを愛していたか」だったのか。そこがアレンを悩ませた。
アレンは、この質問の主語が逆ならば疑問に思うことも、応えられないこともなかったのだ。
父が、母を愛していたか、と尋ねられたのならば。
答えは否。それ以外にない。
この薔薇の色合いは、母の瞳を映したものじゃない。彼の兄、父にとっては最も愛する息子ヘンリーそのもののセレストブルーだ。この花に「悔恨」という名をつけたのならば、病に倒れ、大切な息子の傍にいることのできなくった彼の想いを、愛しい息子に伝えたかったからではないのか。
幼いころのアレンは、米国の屋敷でこの花を眺めるたびに、不快な思いにかられていた。そして、米国から離れ英国に住むようになってからは、この花を、兄を英国に捨て置き逃げ帰った母を、よりいっそう憎むようになっていた。だがその想いも、吉野をきっかけに180度変化することになったのだ。
「アレン」
いつの間にか回想に浸りきっていた彼は、飛鳥に呼びかけられたことも、彼が目の前にいることにも気づかなかったようだ。
「アレン、お待たせ。お茶を淹れてきたよ」
「ありがとうございます」ぽかんと飛鳥を見上げ、アレンは、はっとしてガタガタと鉄製のガーデンチェアを引き、立ち上がる。
「前に来たときはなかったよね。ゴードンさんが用意してくれたんだね」
意味が判らず、アレンはきょとんと小首を傾げた。
「これ、ガーデンセットのことだよ」と飛鳥は手にしたトレイをテーブルに置いた。
「そういえば、そうですね」合図値を打ち、アレンはポットを持ち上げ飛鳥をちらと見る。
「ありがとう」
飛鳥は礼を言い、ぼんやり薔薇の花群を眺めている。
アレンは、飛鳥の視線が自分から逸れていることにほっとしつつ、丁寧にお茶を注いだ。これまで当たり前に飛鳥やデヴィッドにしてもらっていたことを、ようやく臆することなく自ら進んでできるようになったのが、恥ずかしくもあり誇らしくもあったのだ。
ティーカップを口に運ぶと、ほうっと深い吐息が飛鳥の口から漏れた。
「試験、どうだった? ――あ、もう何度も訊いたか」
ははっと、笑う飛鳥はどうも自分からは切り出しづらいようで。
「試験の話はなしですよ。頭から追いださないと心臓が持ちませんから」
ふふっとアレンも笑って、ふわりと先ほどまで飛鳥の見ていた花群に視線を投げかける。
「保留にさせてもらっていたアスカさんの質問の答えは――、イエスです。母は、父を愛していたと思います。とても深く、その想いを憎しみに変えないと耐えられないほどに」
ロスの屋敷の奥まった一角に母の特別な場所がある。そこには彼女の大切にする青紫の花をつける薔薇が植えられている。滅多に戻ることのない彼の母が、この薔薇が咲く時期にだけ実家に立ち寄るのだ。まるで、今年もちゃんと花開いているか確かめるかのように。
「向こうに住んでいた頃、僕はそれがなぜなのか、考えてみることはありませんでした。だけど――」
彼が祖父に呼び戻されエリオット休学を余儀なくされた時だった。吉野が米国までアレンに逢いに来てくれた。ほんの一瞬、吉野と顔を合わせ、言葉を交わした。たったそれだけの出来事が、アレンの行動を変えた。
この季節、例年通りやって来た母を追いかけ、アレンは庭へ向かった。彼は勇気を振り絞って母に助けを求めようと思ったのだ。誰にも邪魔されないように人目につかない場所で、彼がもう一度エリオットへ戻れるよう祖父を説得してほしい、そう頼むつもりだった。
だが、咲き誇る花群のなかで、ただ一人立ちつくす母の姿を目にした時、彼は彼女に話しかける勇気を失ってしまった。彼女の薔薇を見つめるあまりにも切なげな眼差しに気づいたからだ。そして、哀しみで崩折れてしまいそうにか弱く見える母から、顔を背けてその場を離れた。
「後で、うちの庭師に尋ねたんです。この薔薇は何か特別な謂れでもあるのかって。彼は英国産の特別な苗だって言っていました。特別な伝手で手に入れた市販されていない品種だから特に気を使って育てているって。後から吉野に父の作った薔薇だと聞いて、母の行動のすべてに合点がいきました。――母が父から手に入れたたった一つのものが、この花の苗だったんだと思います」
飛鳥と来た時には、まだわずかにほころび始めたばかりだった薔薇は、この二週間ほどでそこかしこ花開いている。新しい蕾をどんどんつけて満開にはまだまだこれからといった風情だが、それでも十分楽しめるだろう。
だが彼は、花を楽しむ余裕などなさそうな物思いに沈んでいた。
飛鳥さんは、どうしてあんなことを僕に尋ねたのだろうか。
と、こんな問いが彼の頭に根を張ってしまっていたからだ。
あまりの思いがけなさに、アレンはその場で応えることができなかった。真っ白になった頭で意識できないまま、「試験が終わるまで待って下さい」と口走った。そして、試験期間中も勉強の合間をぬって思いあぐねていた。そのかいあって、ある程度自分の気持ちが纏まったのはいいのだが、今度は「何故」が気になって仕方ない。
「悔恨――」、と声に出して呟いてみた。
この美しい薔薇に相応しいとは思えない苦い響き。
何故父は自らの手で丹精込めて生み出した花にこんな名前をつけたのか。飛鳥でなくても知りたいと思うだろう。アレンにしろそう思う。けれど、続く問いが、なぜ「母が、父のことを愛していたか」だったのか。そこがアレンを悩ませた。
アレンは、この質問の主語が逆ならば疑問に思うことも、応えられないこともなかったのだ。
父が、母を愛していたか、と尋ねられたのならば。
答えは否。それ以外にない。
この薔薇の色合いは、母の瞳を映したものじゃない。彼の兄、父にとっては最も愛する息子ヘンリーそのもののセレストブルーだ。この花に「悔恨」という名をつけたのならば、病に倒れ、大切な息子の傍にいることのできなくった彼の想いを、愛しい息子に伝えたかったからではないのか。
幼いころのアレンは、米国の屋敷でこの花を眺めるたびに、不快な思いにかられていた。そして、米国から離れ英国に住むようになってからは、この花を、兄を英国に捨て置き逃げ帰った母を、よりいっそう憎むようになっていた。だがその想いも、吉野をきっかけに180度変化することになったのだ。
「アレン」
いつの間にか回想に浸りきっていた彼は、飛鳥に呼びかけられたことも、彼が目の前にいることにも気づかなかったようだ。
「アレン、お待たせ。お茶を淹れてきたよ」
「ありがとうございます」ぽかんと飛鳥を見上げ、アレンは、はっとしてガタガタと鉄製のガーデンチェアを引き、立ち上がる。
「前に来たときはなかったよね。ゴードンさんが用意してくれたんだね」
意味が判らず、アレンはきょとんと小首を傾げた。
「これ、ガーデンセットのことだよ」と飛鳥は手にしたトレイをテーブルに置いた。
「そういえば、そうですね」合図値を打ち、アレンはポットを持ち上げ飛鳥をちらと見る。
「ありがとう」
飛鳥は礼を言い、ぼんやり薔薇の花群を眺めている。
アレンは、飛鳥の視線が自分から逸れていることにほっとしつつ、丁寧にお茶を注いだ。これまで当たり前に飛鳥やデヴィッドにしてもらっていたことを、ようやく臆することなく自ら進んでできるようになったのが、恥ずかしくもあり誇らしくもあったのだ。
ティーカップを口に運ぶと、ほうっと深い吐息が飛鳥の口から漏れた。
「試験、どうだった? ――あ、もう何度も訊いたか」
ははっと、笑う飛鳥はどうも自分からは切り出しづらいようで。
「試験の話はなしですよ。頭から追いださないと心臓が持ちませんから」
ふふっとアレンも笑って、ふわりと先ほどまで飛鳥の見ていた花群に視線を投げかける。
「保留にさせてもらっていたアスカさんの質問の答えは――、イエスです。母は、父を愛していたと思います。とても深く、その想いを憎しみに変えないと耐えられないほどに」
ロスの屋敷の奥まった一角に母の特別な場所がある。そこには彼女の大切にする青紫の花をつける薔薇が植えられている。滅多に戻ることのない彼の母が、この薔薇が咲く時期にだけ実家に立ち寄るのだ。まるで、今年もちゃんと花開いているか確かめるかのように。
「向こうに住んでいた頃、僕はそれがなぜなのか、考えてみることはありませんでした。だけど――」
彼が祖父に呼び戻されエリオット休学を余儀なくされた時だった。吉野が米国までアレンに逢いに来てくれた。ほんの一瞬、吉野と顔を合わせ、言葉を交わした。たったそれだけの出来事が、アレンの行動を変えた。
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