胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
734 / 758
九章

しおりを挟む
 早朝から怪しげだった空模様は、彼らが右往左往している間にも王宮の上空を覆い尽くすほどにぶ厚い黒雲を広げていた。普段ならば厳しく降り注いでいるはずの陽光は遮断され、辺りは昼間とは思えないほどの鈍色に沈んでいる。
 重たげな雲を切り裂く閃光が走る。
 地上の喧騒に追い打ちをかけるように、空がとどろく。
 間を置くことなく水底が抜けたような雨が、大理石の中庭に叩きつけてきた。ガラス窓は瞬く間に数多の雨粒に覆われ、室内にいる者は、鈍色の外界を屈折させる滝のごとき流れに視界を奪われた。



 そんな、この国ではめったに聞くこともない激しい雨音は、吉野のいるモニター管理室にも届いていた。だが窓辺に佇み、この突然の土砂降りを眺めるウィリアムとは対照的に、彼の関心は眼前のモニターのみに集中している。

「馬鹿が――、だから見るなっつたのに!」
 壁をずらりと埋めるモニター画面の内の一つを睨みつけ、吉野はチッと舌打ちしていた。

 そこには、しとどに濡れたガラス窓に両腕をついて項垂れた、サウードの白い背中が映っていた。
 彼はガラスの向こう側――、そこで行われていた近衛師団式典の一部始終を淡々と眺めていたのだ。自分自身の姿が凶弾に倒れるさまを見とめてからは、その場に固まったように動くこともなく。いや、姿勢を変えないだけで、背中を小刻みに震わせて。

 悲惨な場面の視覚的な刷り込みは、頭で考える以上に記憶に刻まれて傷として残る。後々、本人の思いもよらぬところで、自らの意志に反して行動を抑制する誘因となり兼ねない。吉野は、そう口を酸っぱくして止めたのだ。見るな、と。

 虚構バーチャルだと解っていても、平静でいられるはずがないではないか。自分が、殺される場面など――。


「サウード」
 吉野は押し殺すような小声で画面に向かって呼びかけた。こくんと頷くようにサウードの頭が揺れた。それまで何度呼びかけても反応を返さなかったのに、ようやく応答する気になったらしい。吉野は手許のパネルを操作して、画面上のサウードの頭部を拡大する。口の動きを読めるように、と考えてのことだ。
 サウードは今、その部屋に一人でいるわけではないのだ。吉野の声はサウードの鼓膜に直接響くTSネクストを通したもので、他者に聞きとがめられる恐れはない。しかし、サウードが声を発してそれに応えることは、はばかられるかもしれない。

 誰が敵で、誰が味方か――。

 内通者を炙り出すための最終テストが、今日のこの式典なのだ。その場にいるのが、これまで心を許してきた側近といえども、最後の最後まで気を抜く訳にはいかなかった。


「心配ない、私は平気だ」
 
 うつむいたまま、胸ポケットに向かって明瞭に呟かれたのは、サウードが吉野との日常会話に使う英語ではなく、自国語だった。だがそれは確かに吉野への返答だ。そして同時に、彼を見守る側近たちへの気遣いでもあったのだろうか。

 サウードは窓ガラスから緩慢に腕を下ろし、ひと息ついてから背筋を伸ばすと、振り返った。そのおもては毅然として、吉野が危惧したようなショックを受け苦痛を含んだものではなかった。そのうえいかにも安堵したような、穏やかな笑みさえ湛えていたのだ。

「イスハーク、今、その場で死んだのは、私ではない。あれは、父が私にまとわせた影にすぎない」

 イスハーク、と呼びかけながら、そのじつ吉野に、そして自分自身に言い聞かせているのか、サウードは凛としたよく通る声で、一語一語を噛みしめるように話していた。

「これで、ようやく私は、私を喰らう父の影と決別し、自分自身を取り戻すことができた。その実感に、全身が歓喜しているようだよ、震えが止まらない」

 しばらくの間、サウードは薄い唇に笑みをのせたままで顔を伏せ、胸の高さにまであげた掌の震えを眺めていた。だがやがて、ぐっと力を込めて拳に変えた。意志では抑えられない震えを、自らの手で握り、封じようとでもするかのように。

「僕は、僕自身の目で見て、心に、焼き付けておきたかったんだ。自分が誰なのか、忘れないためにも」掠れた声にならない声でささやかれたのは、吉野だけに向けられた呟きだったのだろうか。

 戸口に立つイスハークも、その他の側近たちも終始無言のままだった。ただ、この幼少のころから仕えてきた彼らの主君に対して、誇らしげな眼差しの黙礼でもって応えていた。



 モニターのこちら側では、吉野がそんなサウードの返答に驚いたようすで、ぽかん、としたまぬけづらを晒していた。

「あなたの心配は杞憂でしたね」

 いつの間にかウィリアムまでが穏やかに笑いながら、吉野の方へと向き直っていた。

「そうみたいだな。あいつも俺の知らないうちに、それだけの覚悟をつけて、ここまできていた、ってことなんだろうな。なんだかなぁ……、俺だけが、変わらないみたいじゃん」

 吉野は両腕を後頭部で組んで背をのけぞらせ、ウィリアムに応えた。だが、ふと、こういう仕草が子どもっぽいと笑われるのか、と思い直して姿勢を戻し、回転椅子をくるりと回して向きなおった。

「父の影――、か。あいつ、そんなふうに思ってたのか。それなら、それを纏わせたのは王様じゃなくて、俺じゃん。あのサウードを作ったのは、俺なんだからさ」
「譲位のためと、殿下にしても、意図は充分に理解しておられますよ」

 ウィリアムが慰めるように語調を和らげて言った。

「自分に投影された親父の夢を見せつけられるんだもんな、そりゃ嫌だよなぁ。がなきゃ、サウードだって気づかなかったかもしれないのにな……」

 吉野は画面上のサウードをもう一度見やり、継いで別のモニターを冷ややかな眼差しで見つめる。「こっちは、」と言いかけたところで、新たに入った連絡音に口をつぐみ、スイッチを切り替えた。

「了解、任せるよ」と応じた後、吉野は再びウィリアムを見上げて頷いてみせた。

「狙撃犯2名、身柄確保を終えたそうだ」




しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。 そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ナースコール

wawabubu
青春
腹膜炎で緊急手術になったおれ。若い看護師さんに剃毛されるが…

アイドルグループの裏の顔 新人アイドルの洗礼

甲乙夫
恋愛
清純な新人アイドルが、先輩アイドルから、強引に性的な責めを受ける話です。

処理中です...