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九章
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ジムの床で長話もなんだな、とスカッシュを切り上げてエドワードの部屋に移り、長ソファーに並んで座った。ローテーブルには、この国では外国人向けホテルのレストランやバーでしかお目にかかれない酒類、ウイスキーやジンの瓶が数本と、琥珀色の液体の注がれたグラスが二つ。それにチーズやカナッペの盛られた皿が置かれている。
エドワードは酒に強い体質なのか、見た目からは、酔っているのか、いないのかうかがい知ることができない。だが乞われるままに、饒舌に思い出話を語っているところをみると、飲む前よりはいくぶん開放的になっているようだ。
「ふーん、あの廃墟の景色はそんな場所だったのか」
吉野は適度に相槌をはさみ、頷いてみせる。グラスに酒を注いでいるものの、手はつけていない。元来、吉野は酒は飲まない。思考を鈍らせるからだ。そうと告げたところで相手が嫌な顔をするわけでもないだろう。だが存分に喋らせたいときには、やはり互いに杯を交わしているという雰囲気づくりも必要なのだ。
これまで噂話のなかで互いの存在を知るだけで、面識のなかったエドワードと吉野にとって、飛鳥やヘンリーという共通の話題は、探られたくない腹を探り合う取っ掛かりとしてちょうど良い。
吉野の頭を占めていた、ヘンリーの固執する荒涼とした遺跡が彼にとってどんな場所だったのかも、おぼろげに見えてきた。
広大な敷地を高い塀に囲まれた学舎。
その一部に併設する特別な寮。
ウイスタン校の形態は吉野の在学していたエリオットと変わらない。ヘンリーが抱いていた閉塞感は、吉野にも実感として理解できた。道ひとつ隔てた場所にある遺跡に、彼がひと息つける隠れ家的な空間を得ていた、ということも。崩れかけの石塀にもたれて遮るもののない満天の星空を眺め、心を解放していたのだろう。吉野が、森の中の一本の樹を自分の居場所と決めていたように。
そんなヘンリーの横に、飛鳥はいたのだろうか。
エドワードの話からは、その様子は伺えなかった。むしろ、ヘンリーは飛鳥から逃げてそこにいた。
「あそこの壁にもたれて飲みながら、ハリーはアスカがまるで判らないって、しょっちゅう愚痴ってたんだ。それがまさか、一緒に会社をやることになるなんて、想像もつかなかったぞ」
エドワードは豪快に笑って言った。
愚痴といっても、彼の語る細々としたエピソードから浮かびあがるのは、他愛のない文化摩擦――、いかにも日本人的な自己主張の下手な飛鳥と、それにいらつくヘンリーの姿でしかない。
ここが出逢い、そして始まりの地、とヘンリーが心に置くほどの謂れに関しては、エドワードは知らないのかもしれない。
これ以上の情報は望めそうもない、と吉野が見切りをつけようとした時、エドワードはその太い声をいっそう張り上げ、飛鳥とヘンリーの初の共同作業ともいえる、ガイ・フォークス・ナイトの舞台裏を語り始めた。
「そういえば、ハリーもアスカも、2人して閉会式をさぼりやがったんだぞ! 後で聴いたら、大波乱の審査発表を放っぽって、あそこで優雅に花火を見ていたんだと。いくら祭りの後で浮かれてたからって、11月の寒空に吹きっ晒しの原っぱだぞ、アスカが熱を出して、奴が担いで帰ってくる羽目になったってオチだ」
すんだことだから、とエドワードは笑いながら話していた。それが癇に障ったのか、吉野が露骨に眉をひそめて睨みつけた。
「おいおい、聞きしに勝る過保護っぷりだな! アスカだって風邪くらいひくだろ? ハリーの奴を責めるなよ!」
険のあるその視線に、エドワードはひょいと肩をすくめて返し、ショットグラスに手を伸ばすとひと息に呷った。
そんなぎこちない動作に、吉野はくっと咽喉を鳴らす。
飛鳥の虚弱さ――、その本当の原因をエドワードは知っている。
吉野のエリオット在学中に、チューターとして赴任してきた諜報員ギルバート・オーウェン――そこではギルバート・ノースと名のっていた――が殺し損ねた飛鳥を、彼に代って見張っていたのがこのエドワードなのだから。
当時のヘンリーがその経緯を知っていた訳ではない。偶然にも彼とラザフォード家が留学生として英国に来た飛鳥の身元保証人になったことで、飛鳥は命拾いしたのかもしれない。
――それに加えて、エドワードの人柄のおかげで。
どんなスポーツでも一度手合わせしてみれば、相手がどんな性質の男かはある程度見えてくるものだ。単純で、駆け引きよりも力業で押してくるタイプ。こんな男は嘘のない率直さが好感され、相手の心を開きやすいのかもしれない。とても諜報員とは思えない実直さだが、使う側からすれば、相応の使い方があるのだろう。
はたしてこのエドワード・グレイに、ノースのような悪意はあったのか――。
それが吉野が知りたかったことだった。
彼もまた、飛鳥の持つ特許のために近づき、ヘンリーを媒介にして、レーザー光増幅用特殊ガラスの進化形の製法を手にしようとしていたのかどうか。
そして、国王とサウードの暗殺未遂事件には、本当に国防情報参謀部はかんでいなかったのか。
「ただの風邪――、なんかじゃなかったことくらい、あんただって知ってたんだろ? もういいよ、充分だ。そろそろ本題に入ろうよ。なぁ、あんたは俺と取引するために、ここまで乗りこんできた訳だろ? 俺から何を引き出したいの?」
吉野はおもむろに目を細めて口許を緩めると、小首を傾げて無邪気そうな声音で尋ねていた。
エドワードは酒に強い体質なのか、見た目からは、酔っているのか、いないのかうかがい知ることができない。だが乞われるままに、饒舌に思い出話を語っているところをみると、飲む前よりはいくぶん開放的になっているようだ。
「ふーん、あの廃墟の景色はそんな場所だったのか」
吉野は適度に相槌をはさみ、頷いてみせる。グラスに酒を注いでいるものの、手はつけていない。元来、吉野は酒は飲まない。思考を鈍らせるからだ。そうと告げたところで相手が嫌な顔をするわけでもないだろう。だが存分に喋らせたいときには、やはり互いに杯を交わしているという雰囲気づくりも必要なのだ。
これまで噂話のなかで互いの存在を知るだけで、面識のなかったエドワードと吉野にとって、飛鳥やヘンリーという共通の話題は、探られたくない腹を探り合う取っ掛かりとしてちょうど良い。
吉野の頭を占めていた、ヘンリーの固執する荒涼とした遺跡が彼にとってどんな場所だったのかも、おぼろげに見えてきた。
広大な敷地を高い塀に囲まれた学舎。
その一部に併設する特別な寮。
ウイスタン校の形態は吉野の在学していたエリオットと変わらない。ヘンリーが抱いていた閉塞感は、吉野にも実感として理解できた。道ひとつ隔てた場所にある遺跡に、彼がひと息つける隠れ家的な空間を得ていた、ということも。崩れかけの石塀にもたれて遮るもののない満天の星空を眺め、心を解放していたのだろう。吉野が、森の中の一本の樹を自分の居場所と決めていたように。
そんなヘンリーの横に、飛鳥はいたのだろうか。
エドワードの話からは、その様子は伺えなかった。むしろ、ヘンリーは飛鳥から逃げてそこにいた。
「あそこの壁にもたれて飲みながら、ハリーはアスカがまるで判らないって、しょっちゅう愚痴ってたんだ。それがまさか、一緒に会社をやることになるなんて、想像もつかなかったぞ」
エドワードは豪快に笑って言った。
愚痴といっても、彼の語る細々としたエピソードから浮かびあがるのは、他愛のない文化摩擦――、いかにも日本人的な自己主張の下手な飛鳥と、それにいらつくヘンリーの姿でしかない。
ここが出逢い、そして始まりの地、とヘンリーが心に置くほどの謂れに関しては、エドワードは知らないのかもしれない。
これ以上の情報は望めそうもない、と吉野が見切りをつけようとした時、エドワードはその太い声をいっそう張り上げ、飛鳥とヘンリーの初の共同作業ともいえる、ガイ・フォークス・ナイトの舞台裏を語り始めた。
「そういえば、ハリーもアスカも、2人して閉会式をさぼりやがったんだぞ! 後で聴いたら、大波乱の審査発表を放っぽって、あそこで優雅に花火を見ていたんだと。いくら祭りの後で浮かれてたからって、11月の寒空に吹きっ晒しの原っぱだぞ、アスカが熱を出して、奴が担いで帰ってくる羽目になったってオチだ」
すんだことだから、とエドワードは笑いながら話していた。それが癇に障ったのか、吉野が露骨に眉をひそめて睨みつけた。
「おいおい、聞きしに勝る過保護っぷりだな! アスカだって風邪くらいひくだろ? ハリーの奴を責めるなよ!」
険のあるその視線に、エドワードはひょいと肩をすくめて返し、ショットグラスに手を伸ばすとひと息に呷った。
そんなぎこちない動作に、吉野はくっと咽喉を鳴らす。
飛鳥の虚弱さ――、その本当の原因をエドワードは知っている。
吉野のエリオット在学中に、チューターとして赴任してきた諜報員ギルバート・オーウェン――そこではギルバート・ノースと名のっていた――が殺し損ねた飛鳥を、彼に代って見張っていたのがこのエドワードなのだから。
当時のヘンリーがその経緯を知っていた訳ではない。偶然にも彼とラザフォード家が留学生として英国に来た飛鳥の身元保証人になったことで、飛鳥は命拾いしたのかもしれない。
――それに加えて、エドワードの人柄のおかげで。
どんなスポーツでも一度手合わせしてみれば、相手がどんな性質の男かはある程度見えてくるものだ。単純で、駆け引きよりも力業で押してくるタイプ。こんな男は嘘のない率直さが好感され、相手の心を開きやすいのかもしれない。とても諜報員とは思えない実直さだが、使う側からすれば、相応の使い方があるのだろう。
はたしてこのエドワード・グレイに、ノースのような悪意はあったのか――。
それが吉野が知りたかったことだった。
彼もまた、飛鳥の持つ特許のために近づき、ヘンリーを媒介にして、レーザー光増幅用特殊ガラスの進化形の製法を手にしようとしていたのかどうか。
そして、国王とサウードの暗殺未遂事件には、本当に国防情報参謀部はかんでいなかったのか。
「ただの風邪――、なんかじゃなかったことくらい、あんただって知ってたんだろ? もういいよ、充分だ。そろそろ本題に入ろうよ。なぁ、あんたは俺と取引するために、ここまで乗りこんできた訳だろ? 俺から何を引き出したいの?」
吉野はおもむろに目を細めて口許を緩めると、小首を傾げて無邪気そうな声音で尋ねていた。
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