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九章
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「俺? どうするって、どうもできないだろ。結婚する、しないを決めるのは俺じゃない、飛鳥だもん。だめになったらなったで、せいぜい、あんたに嫌味を言うくらいのもんだよ」
鼻で笑って吉野は肩をすくめてみせる。
おそらく飛鳥なら、サラの心が別の誰かに埋められていると判れば、何も言わずに身を引くに違いない、とそんな気がするからだ。飲めない酒でも飲んで、ちょっとだけ泣いて、その時には傍にいてつきあってやればいい――。そしてその後は、飛鳥ならばそれまで通りに、仕事上でのパートナーとしてサラと接していくだろう。何事もなかったかのように。飛鳥はそういう奴なのだ。
と、吉野は、飛鳥の気持ちを確かめるよりも先に、そんな未来像をリアルに描いてしまっている。
だが当時者同士の成り行きはさておいて、眼前のこの男に関しては、吉野にしてもそれでは済ませられる気がしない。そしてヘンリーにしても、吉野の言い様をそのまま信じたりはしないだろう。彼は確かに飛鳥を騙し、翻弄し、手酷く傷つけようとしているのだから。
それでも、今、このヘンリーの裏切りにも増して吉野が苦々しく思っているのは、自分自身に対してだ。決定的な、読み違い。飛鳥にとって良かれと思っての選択が、飛鳥自身を苦しめることになるなどと、想像だにできなかったのだから。
ヘンリーは、サラを自分の手許から放すのが嫌だったのではない。それはずっと以前から、おそらく飛鳥と出会う以前から準備されていた。サラの幸せだけを願い、ケネスであれ、飛鳥であれ、あるいはデヴィッドであれ、彼女が接することになる異性を、細心の注意を払い吟味してきたのだ。
彼が自身の思惑に反してまで手放すのが嫌だったのはサラではなく、飛鳥。飛鳥を妹婿としてソールスベリー家に迎えろ、という吉野の提案に一度は諾と言ったものの、誰よりも、何よりも愛おしいと公言してはばからないサラにでさえ、奪われるのは嫌だった、などと。
大切なものは、宝石箱に入れて誰にも見せない――。
こいつはそういう性質の奴だった、と吉野は今さらながらに思い知らされ、解っていたはずなのに、と臍を噛んでいる。
見落としていたのは、この端正な涼しげな顔の下に隠されている、信じられないほどの、執着心。表からは見えないそんな彼の内側を、この部屋に映しだされた風景が教えてくれた。
この澄み渡る星空の下にある空間が、彼の時を巻き戻し、安らぎを与えていたのだろう。そんな記憶――、それは吉野ですら知らされていない、飛鳥とだけ共有する記憶なのだろう。
だが、サラにケネスをぶつけ、彼女自身の心を見つめ直させたところで、彼には結婚の意志はないという。サラが自身の身の振り方を考え直すかどうかは、吉野であれ判断はつかない。だからこそ、ヘンリーはあえて「そうはならない」と言うのだ。ヘンリーの創り上げた閉鎖的な環境で育った彼女の道徳観念は、いまだ幼少期に刻み込まれたインド由来の要素が強いのだ。
要は、家父長の意向に服従する、ということ。
それがこの英国で、ヘンリーの影響下で変化しているかどうかは、当のヘンリーでさえ懐疑的だった。
飛鳥を手放したくない、だけではなかったのかもしれない。
睨めつけている自分を眼中にいれているとも思えない鷹揚さで、ヘンリーは一人物思いに沈んでいる。そんな静かな佇まいの内側を見定めようと、吉野は目を細める。
ヘンリーの身体の一部のように、思想や思考、感情までも分け合ってきたサラを、自分から引き剥がし一人の人間にするために、ヘンリーの対象ではない相手を――、ヘンリーによく似た、けれどヘンリーとは重ならない対象を、あえて彼女にぶつけたのかもしれない。
おそらくサラは、ヘンリーが飛鳥を愛するがゆえに、自分も飛鳥を愛していると錯覚していたのだろうから。
他者から隔絶されて育ってきたサラの情操の幼さを、吉野は詰る気にはなれなかった。そんなヘンリーのやり方に、幼い頃の自分への、飛鳥の想いとだぶるものが垣間見れたのだ。飛鳥にしろ、吉野の特殊な才能がジェームス・テーラー始めとする金融関係者に利用されることを何よりも恐れ、吉野の存在そのものを隠そうとしていたのだから。
やりきれない思いで、吉野は深く息をついた。
「とりあえず、この件はいったん保留だ。俺、サラのことよく解ってないんだ。あいつが自分の感情でも、数字を操るように捌くかどうか――。俺の思惑とは違う選択をあいつがするなら――、あんたへの嫌味は、これからゆっくり考えるよ」
「これから、王宮で?」
「ああ」
ようやく口許をにっと吊り上げて、吉野は立ちあがった。そしてもう一度、ぐるりと周囲を見回した。
「それにしても、この部屋、不健康だな。感傷的に書き換えられた記憶ってのは、人を腐らせるんだぞ。あんたも、たいがいにしとけよ。サラがどんな判断を下そうと、あんたが飛鳥を傷つけた事実は変わらないからな。そんな腑抜けた面で飛鳥に償えるなんて思うなよ」
「そうだね、首を洗って待っているよ」
「なんだ、言い訳しないのか」
「今さら――、今以上に僕の無様なさまが見たいのかい? きみの方こそ、僕を待たせるんじゃないよ。無事に――」
「ああ、帰ってくる。あんたの首を取りにくるよ」
「楽しみだ」
ヘンリーは、ククッと喉を鳴らして笑い、おもむろに立ちあがると、しっかりと吉野を抱きしめた。
これから最後の舞台を務めに向かう吉野が、つつがなくその幕を下ろすことのできるように。心から、無事を祈って――。
鼻で笑って吉野は肩をすくめてみせる。
おそらく飛鳥なら、サラの心が別の誰かに埋められていると判れば、何も言わずに身を引くに違いない、とそんな気がするからだ。飲めない酒でも飲んで、ちょっとだけ泣いて、その時には傍にいてつきあってやればいい――。そしてその後は、飛鳥ならばそれまで通りに、仕事上でのパートナーとしてサラと接していくだろう。何事もなかったかのように。飛鳥はそういう奴なのだ。
と、吉野は、飛鳥の気持ちを確かめるよりも先に、そんな未来像をリアルに描いてしまっている。
だが当時者同士の成り行きはさておいて、眼前のこの男に関しては、吉野にしてもそれでは済ませられる気がしない。そしてヘンリーにしても、吉野の言い様をそのまま信じたりはしないだろう。彼は確かに飛鳥を騙し、翻弄し、手酷く傷つけようとしているのだから。
それでも、今、このヘンリーの裏切りにも増して吉野が苦々しく思っているのは、自分自身に対してだ。決定的な、読み違い。飛鳥にとって良かれと思っての選択が、飛鳥自身を苦しめることになるなどと、想像だにできなかったのだから。
ヘンリーは、サラを自分の手許から放すのが嫌だったのではない。それはずっと以前から、おそらく飛鳥と出会う以前から準備されていた。サラの幸せだけを願い、ケネスであれ、飛鳥であれ、あるいはデヴィッドであれ、彼女が接することになる異性を、細心の注意を払い吟味してきたのだ。
彼が自身の思惑に反してまで手放すのが嫌だったのはサラではなく、飛鳥。飛鳥を妹婿としてソールスベリー家に迎えろ、という吉野の提案に一度は諾と言ったものの、誰よりも、何よりも愛おしいと公言してはばからないサラにでさえ、奪われるのは嫌だった、などと。
大切なものは、宝石箱に入れて誰にも見せない――。
こいつはそういう性質の奴だった、と吉野は今さらながらに思い知らされ、解っていたはずなのに、と臍を噛んでいる。
見落としていたのは、この端正な涼しげな顔の下に隠されている、信じられないほどの、執着心。表からは見えないそんな彼の内側を、この部屋に映しだされた風景が教えてくれた。
この澄み渡る星空の下にある空間が、彼の時を巻き戻し、安らぎを与えていたのだろう。そんな記憶――、それは吉野ですら知らされていない、飛鳥とだけ共有する記憶なのだろう。
だが、サラにケネスをぶつけ、彼女自身の心を見つめ直させたところで、彼には結婚の意志はないという。サラが自身の身の振り方を考え直すかどうかは、吉野であれ判断はつかない。だからこそ、ヘンリーはあえて「そうはならない」と言うのだ。ヘンリーの創り上げた閉鎖的な環境で育った彼女の道徳観念は、いまだ幼少期に刻み込まれたインド由来の要素が強いのだ。
要は、家父長の意向に服従する、ということ。
それがこの英国で、ヘンリーの影響下で変化しているかどうかは、当のヘンリーでさえ懐疑的だった。
飛鳥を手放したくない、だけではなかったのかもしれない。
睨めつけている自分を眼中にいれているとも思えない鷹揚さで、ヘンリーは一人物思いに沈んでいる。そんな静かな佇まいの内側を見定めようと、吉野は目を細める。
ヘンリーの身体の一部のように、思想や思考、感情までも分け合ってきたサラを、自分から引き剥がし一人の人間にするために、ヘンリーの対象ではない相手を――、ヘンリーによく似た、けれどヘンリーとは重ならない対象を、あえて彼女にぶつけたのかもしれない。
おそらくサラは、ヘンリーが飛鳥を愛するがゆえに、自分も飛鳥を愛していると錯覚していたのだろうから。
他者から隔絶されて育ってきたサラの情操の幼さを、吉野は詰る気にはなれなかった。そんなヘンリーのやり方に、幼い頃の自分への、飛鳥の想いとだぶるものが垣間見れたのだ。飛鳥にしろ、吉野の特殊な才能がジェームス・テーラー始めとする金融関係者に利用されることを何よりも恐れ、吉野の存在そのものを隠そうとしていたのだから。
やりきれない思いで、吉野は深く息をついた。
「とりあえず、この件はいったん保留だ。俺、サラのことよく解ってないんだ。あいつが自分の感情でも、数字を操るように捌くかどうか――。俺の思惑とは違う選択をあいつがするなら――、あんたへの嫌味は、これからゆっくり考えるよ」
「これから、王宮で?」
「ああ」
ようやく口許をにっと吊り上げて、吉野は立ちあがった。そしてもう一度、ぐるりと周囲を見回した。
「それにしても、この部屋、不健康だな。感傷的に書き換えられた記憶ってのは、人を腐らせるんだぞ。あんたも、たいがいにしとけよ。サラがどんな判断を下そうと、あんたが飛鳥を傷つけた事実は変わらないからな。そんな腑抜けた面で飛鳥に償えるなんて思うなよ」
「そうだね、首を洗って待っているよ」
「なんだ、言い訳しないのか」
「今さら――、今以上に僕の無様なさまが見たいのかい? きみの方こそ、僕を待たせるんじゃないよ。無事に――」
「ああ、帰ってくる。あんたの首を取りにくるよ」
「楽しみだ」
ヘンリーは、ククッと喉を鳴らして笑い、おもむろに立ちあがると、しっかりと吉野を抱きしめた。
これから最後の舞台を務めに向かう吉野が、つつがなくその幕を下ろすことのできるように。心から、無事を祈って――。
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