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九章
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真鍮のドアノブを捻ると、満天の星が無限に広がっていた。星明りの照らす薄闇には、苔むした崩れかけの石壁と雑草の生えた黒々とした大地が横たわる。
サウードをケンブリッジの館に預け、ロンドンのタウンハウスへ舞い戻った吉野は、主の留守中のこの部屋の在りように、何とも言いようのない疑問を感じていた。
なぜ、この景色なのか。
これは、言わずと知れたアーカシャー店舗の標準設定の映像だ。疑問に思うほどのことでもなく、初心に帰るため、ということなのだろうか。それよりも、もっと個人的に、ヘンリーにとってはイレギュラーな日々だったに違いない、ウイスタンの風景を懐かしんでいるだけかもしれない。
ヘンリーに伴われてニューヨーク支店の開店記念イベントを手伝った折、なぜこの風景を実店舗背景に取り入れたのかと尋ねたことがある。
――ここは、ウイスタンで僕とアスカが初めて出会った場所だから。
ヘンリーはそう答えた。
あの時の映像をさらに進化させた眼前の景色が、そんな記憶を蘇らせる。なぜか、それが吉野には引っかかる。
大理石の冷たさを感じさせる大地に腰を下ろし、星を見あげる。首を捻って左右を見回す。
歴史ある学舎でも寮舎でもなく、この荒涼とした場所が、ヘンリーにとって最も思い出深い場所だというのだ。
どれほどそうしていただろうか。ドアがカチャリと開けられ、「やぁ、来ていたんだ?」と、ヘンリーの穏やかな声が静寂を破った。「ああ」と吉野は言葉少なに応え、そのまま戸口に留まっているヘンリーを見あげる。
「入らないの? 話があるから戻ってきたんだ」
「それなら下へ行こうか。お茶でも淹れるよ」
「あんたが? そいつは希少だな。でも今はいい。ここがいい」
早く来いとばかりに吉野はくいっと顎をしゃくる。ヘンリーは小さく息をついて後ろ手にドアを閉めた。
「サラは、あの庭へケネス・アボットを連れていったよ」
「そう」
「あいつにとって、何よりも大切な場所なんだろ?」
「おそらくね」
「飛鳥は、その存在すら知らない」
身動ぎもせず、射るような瞳で凝視する吉野に視線を返し、ヘンリーは薄く苦笑する。
「何が言いたいの?」
「あんた、俺との約束を反故にするつもりか?」
「そうなると思うかい?」
どこか虚ろな感情の籠らない声音に、吉野はぴくりと眉尻を上げだ。だが、すぐに返答するでもなく、じっと押し黙ったまま、向かいあって座るこの男を睨めつける。
「ケネス・アボットはあんたのなんなんだ?」
「今さらおかしなことを訊くね。きみだって、よく知った人物じゃないか。僕の後輩できみの先輩、友人でもある、」
「その後輩を、サラにあてがうために躾けてきたってことか」
「ずいぶん失礼な言い方だけど、あえて否定しないよ。でもね、残念なことに彼は誰とも結婚の意志はないそうだよ」
「ゲイだからか?」
「彼の性指向に僕が言及するのもどうかと思うがね、誤解のないように言わせてもらうよ。その噂は事実じゃない。だけど理由は、きみであっても明かすわけにはいかない」
「じゃあ、あんたの思惑に外れて、他に好きな奴がいるってことか」
「どうしても僕の口から言わせたいのかい? 彼の性格を鑑みれば、きみならば察しがつきそうなものなのに」
それ以上の追求を拒んで、ヘンリーは侮蔑的に唇を歪めた。理由を求める吉野が、さも下劣なことをしているかのように。そこでようやく吉野自身も納得がいき、矛を収めた。
ケネスは事故で後遺症の残る怪我を負っている。それは、傍目からも分かる脚だけの問題ではない、ということなのだろう。障害者としての自分が家庭をもつことで家族の負担になるのを、プライドの高い彼ならば望まないのかもしれない、そう考えるのが一番しっくりきたのだ。
だが、それならばヘンリーはなぜ――、と自分の導きだした答えがまた振り出しに戻り、吉野は気の抜けたようなため息をつく。
「なぁ、サラの旦那候補、ケネスのほかにもいるの? 参ったな。サラなんて赤子の手をひねるようなものじゃん。パブリックスクール出に、飛鳥がかなうはずないよ」
「まさか。彼ほどの逸材が、そうそう見つかるはずがないじゃないか。アスカくらいだよ。それにアスカだってパブリックスクール、ウイスタン出身だよ」
クスクス笑うヘンリーに、吉野は苦虫を嚙み潰したような顔を向ける。
「出身たって、たった1年だろ。ケネスとじゃ仕込まれ度合いが違う」
それもただ単に、エリオットで紳士教育を受けている、というだけではない。ケネスの気の配り方はヘンリーに似ている。ヘンリーの代理を務めることができるように、前もってサラの情報を得ていたのだろう。彼女の関心を引き、安心を与え、その心をたやすく掴めるように。将来の配偶者として――。
だがその思惑が崩れたことで、何か見落としはなかったか、と吉野は訝しんでヘンリーを見つめ直した。
吉野の印象では、サラはケネス・アボットに夢中なのだ。食卓での何気ない会話から、スヌーカー初めとする様々なゲームでのやりとりにしても、ケネスがいると、彼女は飛鳥の存在を忘れる。極めつけが、父親の彼女へ向けた愛情の証といっていい特別な庭へケネスを招いた事実だ。
あの庭は、これまで彼女がヘンリー以外の誰にも見せることのなかった心の拠り所といえる秘められた場だろう。その心の内側に、ケネス・アボットが立ち入ることを許したのだ。婚約している飛鳥ではなく――。
これは裏切りだ、と吉野は思ったのだ。けれど、人の心はままならないものだということは、彼にしても解っている。サラに飛鳥を愛するように強制することはできない。この心変わりに、というよりも、彼女が飛鳥を愛していない事実に気づいたことに非があるとするならば、そのきっかけを作ったヘンリーにこそ。そう思って吉野はここへ来た。そうまでして、サラを手放すのが嫌なのか、と文句をつけるために。
だが、この推察の根本的な間違いに、吉野は、こうしてこの部屋にいることで気がついた。
ヘンリーは、こんな会話をしているというのに緊迫感の欠片も感じさせないのだ。サラの心変わりも、ケネスのこともどうだっていいように淡々としている。自分の代わりを務めさせたかった男と対峙させることで、サラをどうしたかったのか――。
そこまで考えた時、吉野はようやく求めていた答えに至った。
目の前にいる自分を通り越し、ぼんやりと紫紺の空を眺めているヘンリーをまじまじと見つめる。
「で、あんた、どうするの? この婚約、無かったことにする?」
「まさか、そうはならないだろ。けれど、もし仮にそうなるとしたら、決めるのは僕じゃない。サラ自身、――あるいはアスカだよ」
ヘンリーは夜空を見上げたまま感情を感じさせない声音で応じ、継いでゆるりと視線を吉野に向けた。苛立たしさを隠そうともしない、吉野の獰猛な瞳に臆することもなく。
「それで、きみの方はどうする? もし彼女が、きみの意に沿わない選択をしたとしたら――」
サウードをケンブリッジの館に預け、ロンドンのタウンハウスへ舞い戻った吉野は、主の留守中のこの部屋の在りように、何とも言いようのない疑問を感じていた。
なぜ、この景色なのか。
これは、言わずと知れたアーカシャー店舗の標準設定の映像だ。疑問に思うほどのことでもなく、初心に帰るため、ということなのだろうか。それよりも、もっと個人的に、ヘンリーにとってはイレギュラーな日々だったに違いない、ウイスタンの風景を懐かしんでいるだけかもしれない。
ヘンリーに伴われてニューヨーク支店の開店記念イベントを手伝った折、なぜこの風景を実店舗背景に取り入れたのかと尋ねたことがある。
――ここは、ウイスタンで僕とアスカが初めて出会った場所だから。
ヘンリーはそう答えた。
あの時の映像をさらに進化させた眼前の景色が、そんな記憶を蘇らせる。なぜか、それが吉野には引っかかる。
大理石の冷たさを感じさせる大地に腰を下ろし、星を見あげる。首を捻って左右を見回す。
歴史ある学舎でも寮舎でもなく、この荒涼とした場所が、ヘンリーにとって最も思い出深い場所だというのだ。
どれほどそうしていただろうか。ドアがカチャリと開けられ、「やぁ、来ていたんだ?」と、ヘンリーの穏やかな声が静寂を破った。「ああ」と吉野は言葉少なに応え、そのまま戸口に留まっているヘンリーを見あげる。
「入らないの? 話があるから戻ってきたんだ」
「それなら下へ行こうか。お茶でも淹れるよ」
「あんたが? そいつは希少だな。でも今はいい。ここがいい」
早く来いとばかりに吉野はくいっと顎をしゃくる。ヘンリーは小さく息をついて後ろ手にドアを閉めた。
「サラは、あの庭へケネス・アボットを連れていったよ」
「そう」
「あいつにとって、何よりも大切な場所なんだろ?」
「おそらくね」
「飛鳥は、その存在すら知らない」
身動ぎもせず、射るような瞳で凝視する吉野に視線を返し、ヘンリーは薄く苦笑する。
「何が言いたいの?」
「あんた、俺との約束を反故にするつもりか?」
「そうなると思うかい?」
どこか虚ろな感情の籠らない声音に、吉野はぴくりと眉尻を上げだ。だが、すぐに返答するでもなく、じっと押し黙ったまま、向かいあって座るこの男を睨めつける。
「ケネス・アボットはあんたのなんなんだ?」
「今さらおかしなことを訊くね。きみだって、よく知った人物じゃないか。僕の後輩できみの先輩、友人でもある、」
「その後輩を、サラにあてがうために躾けてきたってことか」
「ずいぶん失礼な言い方だけど、あえて否定しないよ。でもね、残念なことに彼は誰とも結婚の意志はないそうだよ」
「ゲイだからか?」
「彼の性指向に僕が言及するのもどうかと思うがね、誤解のないように言わせてもらうよ。その噂は事実じゃない。だけど理由は、きみであっても明かすわけにはいかない」
「じゃあ、あんたの思惑に外れて、他に好きな奴がいるってことか」
「どうしても僕の口から言わせたいのかい? 彼の性格を鑑みれば、きみならば察しがつきそうなものなのに」
それ以上の追求を拒んで、ヘンリーは侮蔑的に唇を歪めた。理由を求める吉野が、さも下劣なことをしているかのように。そこでようやく吉野自身も納得がいき、矛を収めた。
ケネスは事故で後遺症の残る怪我を負っている。それは、傍目からも分かる脚だけの問題ではない、ということなのだろう。障害者としての自分が家庭をもつことで家族の負担になるのを、プライドの高い彼ならば望まないのかもしれない、そう考えるのが一番しっくりきたのだ。
だが、それならばヘンリーはなぜ――、と自分の導きだした答えがまた振り出しに戻り、吉野は気の抜けたようなため息をつく。
「なぁ、サラの旦那候補、ケネスのほかにもいるの? 参ったな。サラなんて赤子の手をひねるようなものじゃん。パブリックスクール出に、飛鳥がかなうはずないよ」
「まさか。彼ほどの逸材が、そうそう見つかるはずがないじゃないか。アスカくらいだよ。それにアスカだってパブリックスクール、ウイスタン出身だよ」
クスクス笑うヘンリーに、吉野は苦虫を嚙み潰したような顔を向ける。
「出身たって、たった1年だろ。ケネスとじゃ仕込まれ度合いが違う」
それもただ単に、エリオットで紳士教育を受けている、というだけではない。ケネスの気の配り方はヘンリーに似ている。ヘンリーの代理を務めることができるように、前もってサラの情報を得ていたのだろう。彼女の関心を引き、安心を与え、その心をたやすく掴めるように。将来の配偶者として――。
だがその思惑が崩れたことで、何か見落としはなかったか、と吉野は訝しんでヘンリーを見つめ直した。
吉野の印象では、サラはケネス・アボットに夢中なのだ。食卓での何気ない会話から、スヌーカー初めとする様々なゲームでのやりとりにしても、ケネスがいると、彼女は飛鳥の存在を忘れる。極めつけが、父親の彼女へ向けた愛情の証といっていい特別な庭へケネスを招いた事実だ。
あの庭は、これまで彼女がヘンリー以外の誰にも見せることのなかった心の拠り所といえる秘められた場だろう。その心の内側に、ケネス・アボットが立ち入ることを許したのだ。婚約している飛鳥ではなく――。
これは裏切りだ、と吉野は思ったのだ。けれど、人の心はままならないものだということは、彼にしても解っている。サラに飛鳥を愛するように強制することはできない。この心変わりに、というよりも、彼女が飛鳥を愛していない事実に気づいたことに非があるとするならば、そのきっかけを作ったヘンリーにこそ。そう思って吉野はここへ来た。そうまでして、サラを手放すのが嫌なのか、と文句をつけるために。
だが、この推察の根本的な間違いに、吉野は、こうしてこの部屋にいることで気がついた。
ヘンリーは、こんな会話をしているというのに緊迫感の欠片も感じさせないのだ。サラの心変わりも、ケネスのこともどうだっていいように淡々としている。自分の代わりを務めさせたかった男と対峙させることで、サラをどうしたかったのか――。
そこまで考えた時、吉野はようやく求めていた答えに至った。
目の前にいる自分を通り越し、ぼんやりと紫紺の空を眺めているヘンリーをまじまじと見つめる。
「で、あんた、どうするの? この婚約、無かったことにする?」
「まさか、そうはならないだろ。けれど、もし仮にそうなるとしたら、決めるのは僕じゃない。サラ自身、――あるいはアスカだよ」
ヘンリーは夜空を見上げたまま感情を感じさせない声音で応じ、継いでゆるりと視線を吉野に向けた。苛立たしさを隠そうともしない、吉野の獰猛な瞳に臆することもなく。
「それで、きみの方はどうする? もし彼女が、きみの意に沿わない選択をしたとしたら――」
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