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九章
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マーシュコートの館では、今日も遅れて朝食を済ませたアレンが、図書室のドアをそっと開ける。
誰もいない。だが、話し声、そして楽しげな笑い声が漏れ聞こえている。アレンはいぶかしく思いながらTSの白幕を迂回して、声のする方、天井まである書架の端へと回った。その背後を覗きこむ。そこには、これまで気づくことのなかった扉があり、大きく開け放たれていた。
遊戯室だと、すぐに合点がいった。これまで気にすることもなかったが、この規模の館であれば、あって然るべき部屋だろう。おそらくサラがこの部屋を使用することはないだろうから、ヘンリーが留守にしている間、ここは閉め切られたままなのだろう。
だが、今朝は――。
そこには当然のごとく吉野がいた。こんな派手やかな笑い声を響かせるのは彼しかいない。そして、特別な用途のためにあるこの部屋を使いたがるのも、彼しかないだろう。
吉野は、部屋の中央に置かれたスヌーカーテーブルに上半身を前傾させてキューを構え、涼しい顔で狙い定める。コンッと小気味良い音をたてて主球を撞く。
「よし!」
勢いよく転がっていくボールを目で追いながら、吉野はぐっと握った拳を揚げた。と同時に、ボールが音もなくポケットに吸いこまれるように落ちる。
「おう、やっと起きたか!」
「おはよう――、ヨシノ」
ようやく顔を上げ、にっこりと白い歯を見せて笑った吉野に、アレンは拗ねたように唇を尖らせて小声でおざなりの挨拶を返した。おはようどころか、この様子では、吉野は一睡もしていないのではないかと、もやもやとした不満に胸を塞がれて。
予定を大幅に繰り越してやっと吉野が戻ってきた。それなのに、昨日は言葉を交わすわずかな時間も取れなかったのだ。フィリップに事前に告げられていたように、警備上での問題があるということだから、仕方ない。新事業に関することなのだろう、飛鳥やサラと長時間話し込んでいたのも、仕方ない。そしてサウード。アレンには立ち入ることのできない領域だ。それも、仕方ない。
けれど今の状況はそのどれにも当てはまらないではないか。吉野はどう見ても徹夜明けのハイテンションで、嬉しげに玉突きなんかに興じているのだから――。
「私のリードにかわりないわ」
落ち着きはらった澄んだ声音にびくりと顔を跳ね上げて、アレンは「え――」と間の抜けた声をこぼした。
スヌーカーテーブルを挟んだ吉野の向かいには、視線だけで人を殺せるのではないかと思わせる、殺気立ったフィリップがいた。だからアレンは、対戦相手は彼だとばかり思っていた。だが、どうやらそうではないらしい。フィリップの背後にある白大理石の暖炉の傍らに、サラがキューを手にしたまま、腕組みしてじっとこのプレイを眺めていたのだ。
そして暖炉を中心にシンメトリーに配置されたソファーの一方には、ケネス・アボットがしどけなく眠っている。
思いがけない組み合わせに、アレンはぽかんと長い睫毛を二度、三度と瞬かせた。
その間にも、吉野はじっとテーブル上を睨みながら位置を変え、キューを構えてゲームを続けている。そんな彼を、一見、見据えているように見えたサラは、今は吉野を透かして、その背後を見ているようだった。
彼女の瞳に映っているであろう、絨毯と同系のえんじ色のカーテンは閉ざされたままだ。窓と窓の間になる灰色の壁面には、歴代当主とその家族の肖像画が飾られている。それはサラのいる暖炉側の壁面も等しく、この部屋の壁は肖像画で埋め尽くされている。歴史ある貴族の館ではよく見られる装飾形態だといえるだろう。
だがサラは、この部屋の、そんなごく当たり前の肖像画たちが好きではなかった。この部屋に足を踏みいれたとき、壁のあらゆる方向から、黄金色の額の中にいる、古風な衣装に身を包んだ鷹揚で威厳に満ちた彼らが、中央の巨大なスヌーカーテーブルを威圧的に見おろしているように感じられるからだ。
その視線は、幼いころのサラには、いや、今も変わらず自分を糾弾し、なおかつ見張っているように感じられてならなかった。けれどヘンリーは、そんな彼女の恐れを一笑にふした。そしてこの部屋で、様々な遊戯の手ほどきをしてくれた。サラが怖がるのであれば、「肖像画を取りはずそうか」とも言ってくれた。けれど、その申し出をサラは断った。「彼らはきみの先祖でもあるんだよ」という、ヘンリーの残念そうな吐息の方が、自分の感じる子どもじみた恐れよりも重かったのだ。それにヘンリーがともにいさえしてくれれば、睨みをきかしている肖像画たちの視線も和らぐように思えた。この館の正統な血を継ぐヘンリーならば、彼らは愛情の籠った優しい眼差しで見守る。そのときだけはサラの存在も、お目こぼししてもらえる。そんな気がして――。
チッという舌打ちの音に、物思いに耽っていたサラと、そんな彼女を不思議そうに眺めていたアレンの視線が吉野に戻る。眉根をよせ、唇を尖らせて渋顔を作っている彼の横では、フィリップがざまあみろとばかりに満足げに唇を釣りあげている。
「あら、もう終わり?」
特に馬鹿にしたという様子でもなく、本当に今気がついたと言わんばかりの気の抜けた言いぶりに、吉野はくしゃりと笑って肩をすくめた。
「そうだな。俺の負け」
「そう。それで、――あなたもする?」
唐突に向けられたサラの言葉と三者三様の視線に、アレンは心臓を跳ね上げて、何も答えられないままその場で固まってしまっていた。
誰もいない。だが、話し声、そして楽しげな笑い声が漏れ聞こえている。アレンはいぶかしく思いながらTSの白幕を迂回して、声のする方、天井まである書架の端へと回った。その背後を覗きこむ。そこには、これまで気づくことのなかった扉があり、大きく開け放たれていた。
遊戯室だと、すぐに合点がいった。これまで気にすることもなかったが、この規模の館であれば、あって然るべき部屋だろう。おそらくサラがこの部屋を使用することはないだろうから、ヘンリーが留守にしている間、ここは閉め切られたままなのだろう。
だが、今朝は――。
そこには当然のごとく吉野がいた。こんな派手やかな笑い声を響かせるのは彼しかいない。そして、特別な用途のためにあるこの部屋を使いたがるのも、彼しかないだろう。
吉野は、部屋の中央に置かれたスヌーカーテーブルに上半身を前傾させてキューを構え、涼しい顔で狙い定める。コンッと小気味良い音をたてて主球を撞く。
「よし!」
勢いよく転がっていくボールを目で追いながら、吉野はぐっと握った拳を揚げた。と同時に、ボールが音もなくポケットに吸いこまれるように落ちる。
「おう、やっと起きたか!」
「おはよう――、ヨシノ」
ようやく顔を上げ、にっこりと白い歯を見せて笑った吉野に、アレンは拗ねたように唇を尖らせて小声でおざなりの挨拶を返した。おはようどころか、この様子では、吉野は一睡もしていないのではないかと、もやもやとした不満に胸を塞がれて。
予定を大幅に繰り越してやっと吉野が戻ってきた。それなのに、昨日は言葉を交わすわずかな時間も取れなかったのだ。フィリップに事前に告げられていたように、警備上での問題があるということだから、仕方ない。新事業に関することなのだろう、飛鳥やサラと長時間話し込んでいたのも、仕方ない。そしてサウード。アレンには立ち入ることのできない領域だ。それも、仕方ない。
けれど今の状況はそのどれにも当てはまらないではないか。吉野はどう見ても徹夜明けのハイテンションで、嬉しげに玉突きなんかに興じているのだから――。
「私のリードにかわりないわ」
落ち着きはらった澄んだ声音にびくりと顔を跳ね上げて、アレンは「え――」と間の抜けた声をこぼした。
スヌーカーテーブルを挟んだ吉野の向かいには、視線だけで人を殺せるのではないかと思わせる、殺気立ったフィリップがいた。だからアレンは、対戦相手は彼だとばかり思っていた。だが、どうやらそうではないらしい。フィリップの背後にある白大理石の暖炉の傍らに、サラがキューを手にしたまま、腕組みしてじっとこのプレイを眺めていたのだ。
そして暖炉を中心にシンメトリーに配置されたソファーの一方には、ケネス・アボットがしどけなく眠っている。
思いがけない組み合わせに、アレンはぽかんと長い睫毛を二度、三度と瞬かせた。
その間にも、吉野はじっとテーブル上を睨みながら位置を変え、キューを構えてゲームを続けている。そんな彼を、一見、見据えているように見えたサラは、今は吉野を透かして、その背後を見ているようだった。
彼女の瞳に映っているであろう、絨毯と同系のえんじ色のカーテンは閉ざされたままだ。窓と窓の間になる灰色の壁面には、歴代当主とその家族の肖像画が飾られている。それはサラのいる暖炉側の壁面も等しく、この部屋の壁は肖像画で埋め尽くされている。歴史ある貴族の館ではよく見られる装飾形態だといえるだろう。
だがサラは、この部屋の、そんなごく当たり前の肖像画たちが好きではなかった。この部屋に足を踏みいれたとき、壁のあらゆる方向から、黄金色の額の中にいる、古風な衣装に身を包んだ鷹揚で威厳に満ちた彼らが、中央の巨大なスヌーカーテーブルを威圧的に見おろしているように感じられるからだ。
その視線は、幼いころのサラには、いや、今も変わらず自分を糾弾し、なおかつ見張っているように感じられてならなかった。けれどヘンリーは、そんな彼女の恐れを一笑にふした。そしてこの部屋で、様々な遊戯の手ほどきをしてくれた。サラが怖がるのであれば、「肖像画を取りはずそうか」とも言ってくれた。けれど、その申し出をサラは断った。「彼らはきみの先祖でもあるんだよ」という、ヘンリーの残念そうな吐息の方が、自分の感じる子どもじみた恐れよりも重かったのだ。それにヘンリーがともにいさえしてくれれば、睨みをきかしている肖像画たちの視線も和らぐように思えた。この館の正統な血を継ぐヘンリーならば、彼らは愛情の籠った優しい眼差しで見守る。そのときだけはサラの存在も、お目こぼししてもらえる。そんな気がして――。
チッという舌打ちの音に、物思いに耽っていたサラと、そんな彼女を不思議そうに眺めていたアレンの視線が吉野に戻る。眉根をよせ、唇を尖らせて渋顔を作っている彼の横では、フィリップがざまあみろとばかりに満足げに唇を釣りあげている。
「あら、もう終わり?」
特に馬鹿にしたという様子でもなく、本当に今気がついたと言わんばかりの気の抜けた言いぶりに、吉野はくしゃりと笑って肩をすくめた。
「そうだな。俺の負け」
「そう。それで、――あなたもする?」
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