胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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「もう、戻らなきゃ」
 唐突ににっこりと笑みを浮かべて、飛鳥は立ちあがった。
「定時の連絡が来る時間だ。きみはゆっくりしていて。せっかくの天気だしね。図書室の方は――、僕が終わるまで時間がかかると思うから」

 腕時計を睨み、後の予定を頭のなかで確認する。飛鳥はカチッとスイッチを切り替えるように、今の今まで心を占めていた想念をどこかへ追いやり、すべきことのリストで埋め合わせたのだ。アレンは、心ここにあらずの風情だった飛鳥がいきなり仕事モードに変わったことに特に驚くこともなく、ほっとしたように「はい」と頷く。

 慣れないうちは、アレンは彼のこうした気分の振れ幅を、自分の会話力のなさのせいだと思い落ち込んでいた。だがそれも今は、飛鳥に気を使われていない証拠だと思うようになっていた。ここに来て、共に過ごす時間が増えたことでなお一層強く実感している。飛鳥は彼を気にかけてくれる。けれど、そのために自身を犠牲にするわけではない。彼は彼の抱える問題をアレンに話すことはないけれど、そこから生まれる感情を隠そうとはしないのだ。アレンが側にいるときでもかまわず思索に耽り、没頭する。唐突にアレンには関係ない事を口走って、駆け去っていくこともある。そんな一種奇抜な、今取り組んでいるものを軸にして自律する飛鳥の挙動は、アレンには不思議に楽で、好ましく感じられるのだ。それは、自分の存在が彼の邪魔をしていない、と安心さえも与えてくれるからかもしれない。

「そちらのお仕事が終わられたら、呼びだしてください。これ、持ってきていますから」と、アレンは軽くポケットを叩いた。
「それで今日はこんなにいいお天気なのか!」
「そうかもしれません」

 飛鳥の揶揄いを、アレンも笑って受け流した。
 この広い屋敷では、自室を出てしまった相手を探すことはなかなか手間がかかるのだ。方々を捜し歩くことになりかねない。そんな事情にもかかわらず、アレンはスマートフォンも、TSネクストも、携帯していないことが多かった。持っているとそればかりが気になって、他のことが考えられなくなるからだという。
 それでは安全確認に差し障りがある、とフィリップが青筋を立てて執事のマーカスに抗議したこともあった。「セキュリティ上では把握できております。ですが、こちらでは各々のプライベートを優先させていただいておりますゆえ」と軽くいなされた。要は、警備員に尋ね生体認証すれば所在はすぐに判るが、一人になりたいと引きこもっているのかもしれない本人の意志を尊重するため、居場所は教えないということだ。フィリップにしてみれば本人の意志を尊重したいがために、アレンにではなくマーカスに話を持ち込んだのに、ここでも意を汲んでもらえなかった。
 アレンは決して、隠れていたいがために、ましてフィリップを翻弄するために、携帯を持ち歩かないのではないのだが――。





 飛鳥と別れて一人になると、アレンは気まぐれにこの春先の庭をそぞろ歩いた。今しがたいた白をテーマに造られた一角は彼のお気に入りでもあったので、何度か訪れている。けれど、それ以外のガーデンルームは、まだあまり見て回れていなかった。それは日々の多忙のせいなのだが、のんびりと庭の散策ができるような天気ではなかったせいでもある。4月になってからはずっと曇天。それに雨風の強い日が多かった。飛鳥の言うように、彼が普段と違う行いをしたからこんな晴れ間になったのなら、これからはTSネクストを肌身離さず持っていよう、という気にもなるというもの。アレンは口許をほころばせて、麗らかな陽射しを受けて一斉に咲き誇り始めている花々を眺めていた。


「え――?」

 息を呑み、反射的に、アレンは今いるガーデンルームから次の一角へ移ろうとしていた足を引っ込めていた。生垣にへばりつくように身体を隠す。飛鳥といた時と同じ香りに包まれる。だが彼の頬に触れる距離で強い芳香を放っているのは薄紫のライラックだ。この花群の向こう側から、鈴を振るような、透き通った声が聴こえていた。おそらく、サラの――。

 飛鳥の見間違えではなかったのだ。
 こんなふうに隠れる方がよほど挙動不審で変じゃないか、とアレンは自分でもおかしく思うのだが、身体はメデューサに石にでもされてしまったかのように動けなかった。

 そんなにも、彼女のことが苦手なのだろうか。
 それとも、彼女が一人ではないからだろうか――。

 べつに、庭の散歩くらい誰といっしょであろうと、問題になるようなことではない。そう頭では分かっているのだ。それでもアレンは、自分が見てはいならないものを見、聞いてはならないことを聞いているような気がしてならなかったのだ。

 彼女の弾んだ声音、朗らかな笑い声。
 それに応える優しげな声は、聞く者を安心させる穏やかさと、わきまえさえも感じさせているのに。

 緑の切れ間を赤いパンジャビスーツを着た背中が、通りすぎていく。傍らに寄り添う、脚の悪い彼に合わせているからか、歩調はひどくゆっくりとしている。


「あなたのアルカディアの庭が調うまで、ここに滞在できるといいのですが」

 
 彼らの通りすぎざま、明朗な声がアレンの耳に届いていた。


 アルカディアの庭――。

 
 アレンは声には出さずに反芻する。身体を強張らせたまま、ぼんやりと薄紫に煙るライラックの花群に視線を据えて。
 だが、彼の心に映っていたのは、この愛らしい花ではなかった。つい先ほどまで隣に座っていた飛鳥――、どこか苦しげな、けれどその苦しさを打ち消そうと闘っているような、誰からも触れられることを拒んでいるような、そんな朧な飛鳥の姿だった。




 
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