胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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 飛鳥は濃緑の天蓋のかかるベッドヘッドにもたれて、少し恥ずかしそうに苦笑いしてアレンを迎えいれた。空色の壁紙に囲まれた部屋は、ケンブリッジの館の飛鳥の部屋と同じく、何に使うのか判らない機材や乱雑に置かれた本、広げられたままの設計図が床のうえに散乱していて、とても仮住まいとは思えない。

 そんな諸々を避けてアレンはベッドまでそろそろと進み、サラが座っていたのであろう椅子に腰かける。

「熱っていっても大したことないんだよ。あいつがいきなりロンドンに戻らなきゃならなくなったなんて言いだすからさ、今日はもう、のんびりしようかな、って気が抜けちゃったっていうか――」

 どこか緊迫したアレンの表情に、心配かけてしまったと申し訳なさを感じたのか、飛鳥は笑ってまず言い訳した。

「何か、ただならぬ問題でも、」
「あ! そうじゃないんだ。訊いてない? 吉野に客人が来てるんだ。わざわざ米国からだし、ヘンリーも関わっていることだから、自分一人引っこんでいるわけにはいかないってさ」
「客人――? 兄も交えての?」

 アレンは、その綺麗な眉を不快げに寄せていた。米国からの客と聞いて一番に浮かんだのが、セドリック・ブラッドリーだったのだ。あの男がキャルを伴って帰国したから、吉野が逢いに向かったのではないのか。だが、すぐにそんなはずがない、と自分の妄想に苦笑して首を振る。

「うん、ロバート・カールトン。彼の新会社に吉野も参画するんだって。それで最後の詰めの段階だから、さすがにウェブ会議じゃ済ませられないんだってさ」
「ロバート、」
 カールトン? と語尾を呑み込み、不思議そうにじっと見つめてくるセレストブルーの瞳に、飛鳥は気圧されたかのように瞼を伏せた。


「やっぱり兄弟だね」
 上目づかいにアレンを見あげ、飛鳥は困ったような笑みを浮かべて言った。「なんていうか――、眼力めぢから? ヘンリーに怒られているみたいだ」

 アレンはきょとんと、ますます大きく目を見開いて飛鳥を見つめる。それから慌てて何度も首を振る。
「僕は、べつに、怒ってなんか、」
「怒って当然だと思うけど。あいつ、こんな時にきみや殿下を放りだして仕事だなんて、ね。でも、相手がいることだし……。ごめんね」

 吉野の代わりに飛鳥はひょこっと頭を下げた。飛鳥にしてみれば、今、眼前にいるアレンの不安が、またもや彼を落ちこませ、せっかく整ってきた生活を崩してしまうのではないかと、よほど気にかかってしかたがなかったのだ。彼は、アレンが想像したような吉野自身の危険を疑うことはなかったのだから。
 吉野にしても、ヘンリーにしても、そして今回はロレンツォも、飛鳥には真実を話してはいない。アレンが蚊帳の外だと感じる以上に、飛鳥は様々なことを知らず、また自ら知ろうともしていないのだ。

 それはヘンリーの領域だから――。

 心配のし過ぎで身体を壊されたのでは堪ったものじゃない、とヘンリーからやんわりと釘を刺されていたのだ。飛鳥が吉野のことを考え始めると、いつも不穏な心配に行き着いてしまう。その結果、ヘンリーだけでなくロレンツォにも、過保護だと笑われる。彼らにしてみれば、笑い飛ばすくらいしかしようもないだろう。飛鳥にまで、吉野の熾す焔の火の粉を飛ばすわけにはいかないのだから。

 だから飛鳥は、こうして吉野がカールトンJrとの事業に乗りだすというのであれば、それは言葉の通り、サウードの国の情勢が落ち着き、かの国を離れて本来の大学生としての吉野自身に、そして飛鳥たちの生きる世界へ帰還する腹づもりなのだろう、と前向きに考えることにした。
 隠れるようにここ、マーシュコートに滞在しているのもそのための準備で、吉野はサウードのアドバイザーの役割に幕を下ろし、秘密裏に人工知能を伴った吉野、そして影武者としてサウードのスペアを作りあげることで、総仕上げとするのではないか、と飛鳥は期待しているのだ。



 だが、アレンは思い描いていたのとは違った飛鳥の返答に混乱を増し、ぼんやりと黙り込んでしまっている。

「あいつのいない間、きみと殿下であの人工知能AIたちと遊んでやってくれる? 僕もちょっと休んだら見にいくからさ」

 ふっ、とアレンは視線をあげた。何のためにここへ来たのか思いだしたのだ。飛鳥は平気そうな顔で微笑んではいるが、どこかとろんとした瞳でベッドヘッドにもたれかかったままなのだ。熱があって休んでいたのは嘘ではないのだろう。

「すみません――」

 また自分のことにばかり気を取られて、体調の悪い飛鳥に気を使わせてしまったのだ、とアレンはきゅっと唇を結ぶ。それでも彼のなかでの焦点は、ロンドンにいるという吉野の身辺が本当に安全なのかどうか、その一点から動けないのだ。

「ヨシノは、それで、兄と一緒にいるのでしょうか?」

 それならば、と最も安心のいく結論を得ようとアレンが力をぬいて小首を傾げていたのと、ノックの音が響いたのが同時だった。飛鳥の返事にドアが開く。

「失礼するよ。お嬢さんからお茶を預かってきたんだ。ご一緒させてもらってもいいかな?」ティーセットを手にしたケネス・アボットが、にこやかに笑みを湛えて戸口に立っていた。




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