695 / 758
九章
2
しおりを挟む
アレンは朝が弱いのだ。それでもエリオットの寮生活で毎日が規則正しく送られていたときは、嫌々ながらも起きていた。ケンブリッジに移り自由度の高い大学生になってからも、その生活リズムを崩さないようにと心がけている。
だが今回の騒動での心労からか、睡眠状態も体調もなかなか以前のようにはいかず、毎度、寝起きの怠さには抗えない。それでも、ここマーシュコートに滞在するようになってからの彼は、昼夜を問わず働いている飛鳥たちに軽蔑されることのないようにと、できうる限り早起きしての参加を努めている。
そんな気概にもかかわらず、この朝、彼が自室を出たのは遅かった。だから、彼一人でコンサバトリーで朝食をとることになったのも仕方ない。
雨が降っていた。軽い雨音がトントンとリズミカルに丸天井のガラスの上で踊っている。優しい音だ。この静寂の音楽に心を和ませ、アレンはいつもよりもゆっくりと時間をかけて朝食を味わった。彼はそれを後から後悔することになる。けれど、彼が朝食を食べずに直接図書室へ向かったとしても、その後の落胆は避けられなかっただろう。
彼は長い廊下を渡って図書室のドアをノックする。返事がないのを待って、風圧でTSの白い幕を揺らすことのないようにそっと開ける。ここでは返事のないことが、許可なのだ。
「おはよう」と幕のなかを覗きこむと、そこにはいつも通り吉野とサウードがいて、にこやかに「おはよう」と応えてくれる。けれどアレンは、え、と小首を傾げる。緋色の絨毯にあぐらをかいているこれは、吉野ではない。人工知能を連動させた彼の映像だ。吉野は、彼が「おはよう」と言うと、いつも「おう」と応えるのだから。
本物の吉野はどこにいるのだろう、とアレンは四方をぐるりと見回す。背の高い円柱、飾細工の衝立、濃い緑の繁る植物の陰――。現実には、ここはそんな広い空間ではない。離れた場所にいるはずがない。錯覚の作りだした背景なのだから。
ため息を一つついて、彼は問いかけるように、この映像の横で寛いでいるサウードに視線を戻した。吉野とは逆に、彼にはこのサウードは映像ではなく本物の彼ではないのかと思えたのだ。根拠もなにもなかったのだが。
「きみには区別がつくんだね。僕はあやうく騙されるところだった。こんなにヨシノらしくなっているなんて、思ってもみなかったよ」
優雅な仕草でアレンに座るように促しながら、サウードは鷹揚に笑って言った。
「それで、ヨシノは?」
アレンは嫌な予感に胸をざわつかせていた。いつもなら、ここに来ることのないサウードがいて、吉野がいないなんて――。案の定、穏やかな笑みを貼りつかせているのに、どこか感情の感じられないこの友人は、「今朝早く、ロンドンに発ったよ」と、何でもないことのように告げた。「1週間ほど、あるいはもっと早く戻るそうだよ」
危険だから、ここに隠れているのではなかったのか――。
アレンはその瞬間、自分でも驚くほどの苛立ちを感じていた。これまで何度も吉野のうえに降りかかってきた、命を脅かすような出来事の数々がフラッシュバックしていたのだ。
「こんなときに、なんでそんな?」
「さぁ、僕は聴いていない。私用だろう」
「聴いてない、って――」
呆れて声を荒げる。アレンにしても、詳しく説明されることはなくても、彼らが、スキャンダルの最中にある彼につきあって、ここに滞在しているのではないことくらい判っているつもりだ。彼らがここにいるのは、フィリップの実家に匿われていた時と同じく、命を左右されるほどのやむにやまれぬ事情があるから。だからこそサウードは、おそらく本人も思いがけなく、アレンに本音を零してしまったのではなかったのか。
それがわずかな時間を置いてしまえば、アレンには何も知らさぬまま、また、吉野の姿はかき消えている。理由を問うことも、追いかけることもかなわぬまま――。だがそれよりも、サウードが平然とここに残っていることが、彼にはあまりにもやりきれなかった。
アレンはもう何も言わずに立ちあがり、この砂漠の王宮を模した空間の出口をはぐる。
白い幕の裏にいるはずの飛鳥に尋ねようと思ったのだ。ところがそこには彼も、サラもいなかった。今度こそわけがわからず、アレンは立ちすくんでしまった。
「ヨシノの兄なら部屋だ。この家のお嬢さんもそこにいる」
いつの間にか傍らに、イスハークがぬっと立っていた。アレンは、「わっ!」と声をあげてしまう。
動転したまま彼を凝視するだけのアレンに、「熱を出して寝込んでいるそうだ」とイスハークは無表情のまま、ついでのようにつけ足した。
「アスカさんが?」
いったい何が起こっているのだ、と微動だできないまま、アレンはパニックになりかけていた。だがイスハークはいたって冷静だ。
「連日の疲れがでたのだろう、と本人は言っている。当然だな、ここに来てから、彼はほとんど寝ていなかった」
「お見舞いにうかがってみるといいよ。今なら、起きておられるようだよ。こちらの様子はどうか、と訊いておられる。滞りなく、ときみからもお伝えしてくれる?」
幕の内側から出てきたサウードが、手にしたTSネクストをアレンに示しながら告げた。アレンは、ただ頷き、足早に彼らから離れこの場をあとにした。
だが今回の騒動での心労からか、睡眠状態も体調もなかなか以前のようにはいかず、毎度、寝起きの怠さには抗えない。それでも、ここマーシュコートに滞在するようになってからの彼は、昼夜を問わず働いている飛鳥たちに軽蔑されることのないようにと、できうる限り早起きしての参加を努めている。
そんな気概にもかかわらず、この朝、彼が自室を出たのは遅かった。だから、彼一人でコンサバトリーで朝食をとることになったのも仕方ない。
雨が降っていた。軽い雨音がトントンとリズミカルに丸天井のガラスの上で踊っている。優しい音だ。この静寂の音楽に心を和ませ、アレンはいつもよりもゆっくりと時間をかけて朝食を味わった。彼はそれを後から後悔することになる。けれど、彼が朝食を食べずに直接図書室へ向かったとしても、その後の落胆は避けられなかっただろう。
彼は長い廊下を渡って図書室のドアをノックする。返事がないのを待って、風圧でTSの白い幕を揺らすことのないようにそっと開ける。ここでは返事のないことが、許可なのだ。
「おはよう」と幕のなかを覗きこむと、そこにはいつも通り吉野とサウードがいて、にこやかに「おはよう」と応えてくれる。けれどアレンは、え、と小首を傾げる。緋色の絨毯にあぐらをかいているこれは、吉野ではない。人工知能を連動させた彼の映像だ。吉野は、彼が「おはよう」と言うと、いつも「おう」と応えるのだから。
本物の吉野はどこにいるのだろう、とアレンは四方をぐるりと見回す。背の高い円柱、飾細工の衝立、濃い緑の繁る植物の陰――。現実には、ここはそんな広い空間ではない。離れた場所にいるはずがない。錯覚の作りだした背景なのだから。
ため息を一つついて、彼は問いかけるように、この映像の横で寛いでいるサウードに視線を戻した。吉野とは逆に、彼にはこのサウードは映像ではなく本物の彼ではないのかと思えたのだ。根拠もなにもなかったのだが。
「きみには区別がつくんだね。僕はあやうく騙されるところだった。こんなにヨシノらしくなっているなんて、思ってもみなかったよ」
優雅な仕草でアレンに座るように促しながら、サウードは鷹揚に笑って言った。
「それで、ヨシノは?」
アレンは嫌な予感に胸をざわつかせていた。いつもなら、ここに来ることのないサウードがいて、吉野がいないなんて――。案の定、穏やかな笑みを貼りつかせているのに、どこか感情の感じられないこの友人は、「今朝早く、ロンドンに発ったよ」と、何でもないことのように告げた。「1週間ほど、あるいはもっと早く戻るそうだよ」
危険だから、ここに隠れているのではなかったのか――。
アレンはその瞬間、自分でも驚くほどの苛立ちを感じていた。これまで何度も吉野のうえに降りかかってきた、命を脅かすような出来事の数々がフラッシュバックしていたのだ。
「こんなときに、なんでそんな?」
「さぁ、僕は聴いていない。私用だろう」
「聴いてない、って――」
呆れて声を荒げる。アレンにしても、詳しく説明されることはなくても、彼らが、スキャンダルの最中にある彼につきあって、ここに滞在しているのではないことくらい判っているつもりだ。彼らがここにいるのは、フィリップの実家に匿われていた時と同じく、命を左右されるほどのやむにやまれぬ事情があるから。だからこそサウードは、おそらく本人も思いがけなく、アレンに本音を零してしまったのではなかったのか。
それがわずかな時間を置いてしまえば、アレンには何も知らさぬまま、また、吉野の姿はかき消えている。理由を問うことも、追いかけることもかなわぬまま――。だがそれよりも、サウードが平然とここに残っていることが、彼にはあまりにもやりきれなかった。
アレンはもう何も言わずに立ちあがり、この砂漠の王宮を模した空間の出口をはぐる。
白い幕の裏にいるはずの飛鳥に尋ねようと思ったのだ。ところがそこには彼も、サラもいなかった。今度こそわけがわからず、アレンは立ちすくんでしまった。
「ヨシノの兄なら部屋だ。この家のお嬢さんもそこにいる」
いつの間にか傍らに、イスハークがぬっと立っていた。アレンは、「わっ!」と声をあげてしまう。
動転したまま彼を凝視するだけのアレンに、「熱を出して寝込んでいるそうだ」とイスハークは無表情のまま、ついでのようにつけ足した。
「アスカさんが?」
いったい何が起こっているのだ、と微動だできないまま、アレンはパニックになりかけていた。だがイスハークはいたって冷静だ。
「連日の疲れがでたのだろう、と本人は言っている。当然だな、ここに来てから、彼はほとんど寝ていなかった」
「お見舞いにうかがってみるといいよ。今なら、起きておられるようだよ。こちらの様子はどうか、と訊いておられる。滞りなく、ときみからもお伝えしてくれる?」
幕の内側から出てきたサウードが、手にしたTSネクストをアレンに示しながら告げた。アレンは、ただ頷き、足早に彼らから離れこの場をあとにした。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
夏の嵐
萩尾雅縁
キャラ文芸
垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。
全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。


サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる