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九章
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コンサバトリーから出てきた二人を見て、廊下に控えていたマクレガーはほっと安堵の笑みを見せた。だがそれも束の間、会社で見せるのとはまるで違うヘンリーの覇気のない眼差しと顔色の悪さに気づくと、その頬は緊張に強張り笑みはかき消えた。
ルベリーニの訪問のない日のヘンリーは、コンサバトリーで過ごすのが習慣になりつつある。その間、この秘書は立ち入ることを許されない。彼が何をしているのかも知らされない。この私的な時間がいきなり中断された今日のような日は初めてで、いつも毅然としているヘンリーがこんなにも憔悴して見えたのも、彼にとって初めてのことだった。
「ここへ、お茶を頼む」と、ヘンリーがコンッと傍らのティールームのドアを叩く。はっと我に返ったマクレガーは、言葉少なに告げられた指示に、「すぐにお持ちします」と急ぎ踵を返した。望まれることを今すぐして差し上げなければ――、とヘンリーの内面を垣間見てしまった焦燥が、職務以上に彼を突き動かしていた。
そんな彼を無言で見送り、アーネストは、はあ、とため息ともつかない息をついてヘンリーとともに部屋へと移った。背後でドアをパタンと閉じ、そこに背を預けて顎をしゃくる。
「まさかと思うけれど、彼を試してるの? 今のきみのそのザマをわざと見せつけて、ルベリーニを動かす気じゃないだろうね?」
「きみの考えすぎだよ」
自嘲的に息をつき、ヘンリーはドサリと椅子に身を投げだした。
確かに、夜も更けているというのに、居間ではなくこの密閉された狭い空間を選ぶなど、勘繰られても仕方ないのかもしれない。だが決してマクレガーを意識して避けているわけではないのだ。飛鳥の不在を感じずにいられる場所を無意識に選んでしまうだけなのだ、などと、彼には口が裂けても言うことはできない。
「どうだか! あのフランスの坊やは、ああ見えて駆け引きってものを心得ているからね。今回の件にしたって、セディを震え上がらせながら追い詰めることを楽しんでるよ。でも、ロレンツォは違うだろ? あの男、今のきみのこの顔を見たら、原因が何であろうと、こんなふうにケリをつけさせるんじゃないの」
ヘンリーの投げ遣りな姿態を睨めつけたまま、アーネストは、パチン、と指をはじいてみせる。
「まさか――、」ヘンリーは薄く笑い気怠げに髪をかきあげる。「セディの命は僕の顔色にかかっているって? やめてくれよ」
ノックの音に、二人揃って口を噤んだ。秘書が手慣れた様子で丁寧にお茶を淹れている間、特に口を開くこともなく、白々とした空気でやり過ごす。
だが、アーネストのこの勘繰りに乗るのも一興かもしれない、と沈黙を守るヘンリーの脳内では機械的な思考が動いていた。誰よりも自分を知る幼馴染を、心の奥底を覗きこまれることなく、やり過ごすにはどうすればいいのだろうか、と。心は凍りついているのに、頭脳だけはキシキシと働き続けていたのだ。そして、アーネストもまた――。
「ありがとう、美味しそうなキッシュだ」
頼まずとも軽食を添えてくれていた秘書の気遣いに、ぼんやりしているヘンリーに代わり、訪問者がにこやかに礼を言い労っている。
「それで、きみの持ち帰ってくれた吉報ってセディのことなの?」
マクレガーの退場とともに再開された会話の口火を切ったのは、意外にもヘンリーだった。だが気怠げな様子は変わらない。
アーネストは視線でヘンリーを制し、まずはその言葉通り、待ち焦がれていた紅茶の芳香を味わっている。
「ああ、生き返った――。でも、彼のことは置いておいて……。まずは、ヨシノの持ち込んだ例の裁判だよ。一番賠償金額の大きい案件が決着したんだ」
「そう――」
「つまらないなぁ! もっと反応しなよ、5億ドルだよ! あの子がもぎ取った賠償額は!」
「それはまた――」
「特許侵害を認識していたのに、何ら対応が取られなかった故意侵害が認められて懲罰的賠償3倍! あーあ、本当にこの案件は、僕がこの手で扱いたかった!」
「法廷には立たなかった、ってだけできみの仕事だってことに変わりないじゃないか。ありがとう、アーニー。彼に代って礼を言うよ」
「今頃、向こうでも湧いてるんじゃないかな? この情勢でこの裁判結果、クリーンヒットって言えるだろ?」
「そうだね、この機を逃さず――」
淡々と言葉少なに返したヘンリーだったが、ふっとそこで深く思考を探るために視線を自らの内に向ける。
吉野ならば、この機を逃すはずがない。次はどんな手を打ってくるのか。
「眼に光がもどってきたね」
アーネストはようやくほっとしたような、穏やかな笑みを浮かべている。
「ほら、ぼやぼやしてる暇なんてないだろ? 彼らが結婚して枷がなくなったら、あの子、これまで以上に何をしでかすか判らないよ! せめて見通しくらいは先手を取っておきたいね」
「アスカがヨシノの枷――。彼はこの機に飛びたつために、この婚約を望んだって言いたいの?」
飛鳥に繋がれ、囲い続けることが、彼の望みだったはずなのに。ヘンリーは軽く眉を寄せ、この話を切り出したときの吉野を想い返した。飛鳥と彼自身の間に入った亀裂を修復するため。より強固な絆を結ぶため。本当に、それだけだったのだろうか――。
「それから? きみの持つ手札は、この裁判の判決だけではないんだろ、アーニー?」
だらしなく身を投げだしていた背もたれからようやく背筋を伸ばし、ヘンリーは、いつもの彼らしい仕草でティーカップを口に運んだ。
*****
懲罰的賠償…… 他人の特許権または営業秘密を故意に侵害した場合、損害額の最大3倍まで賠償する制度。
ルベリーニの訪問のない日のヘンリーは、コンサバトリーで過ごすのが習慣になりつつある。その間、この秘書は立ち入ることを許されない。彼が何をしているのかも知らされない。この私的な時間がいきなり中断された今日のような日は初めてで、いつも毅然としているヘンリーがこんなにも憔悴して見えたのも、彼にとって初めてのことだった。
「ここへ、お茶を頼む」と、ヘンリーがコンッと傍らのティールームのドアを叩く。はっと我に返ったマクレガーは、言葉少なに告げられた指示に、「すぐにお持ちします」と急ぎ踵を返した。望まれることを今すぐして差し上げなければ――、とヘンリーの内面を垣間見てしまった焦燥が、職務以上に彼を突き動かしていた。
そんな彼を無言で見送り、アーネストは、はあ、とため息ともつかない息をついてヘンリーとともに部屋へと移った。背後でドアをパタンと閉じ、そこに背を預けて顎をしゃくる。
「まさかと思うけれど、彼を試してるの? 今のきみのそのザマをわざと見せつけて、ルベリーニを動かす気じゃないだろうね?」
「きみの考えすぎだよ」
自嘲的に息をつき、ヘンリーはドサリと椅子に身を投げだした。
確かに、夜も更けているというのに、居間ではなくこの密閉された狭い空間を選ぶなど、勘繰られても仕方ないのかもしれない。だが決してマクレガーを意識して避けているわけではないのだ。飛鳥の不在を感じずにいられる場所を無意識に選んでしまうだけなのだ、などと、彼には口が裂けても言うことはできない。
「どうだか! あのフランスの坊やは、ああ見えて駆け引きってものを心得ているからね。今回の件にしたって、セディを震え上がらせながら追い詰めることを楽しんでるよ。でも、ロレンツォは違うだろ? あの男、今のきみのこの顔を見たら、原因が何であろうと、こんなふうにケリをつけさせるんじゃないの」
ヘンリーの投げ遣りな姿態を睨めつけたまま、アーネストは、パチン、と指をはじいてみせる。
「まさか――、」ヘンリーは薄く笑い気怠げに髪をかきあげる。「セディの命は僕の顔色にかかっているって? やめてくれよ」
ノックの音に、二人揃って口を噤んだ。秘書が手慣れた様子で丁寧にお茶を淹れている間、特に口を開くこともなく、白々とした空気でやり過ごす。
だが、アーネストのこの勘繰りに乗るのも一興かもしれない、と沈黙を守るヘンリーの脳内では機械的な思考が動いていた。誰よりも自分を知る幼馴染を、心の奥底を覗きこまれることなく、やり過ごすにはどうすればいいのだろうか、と。心は凍りついているのに、頭脳だけはキシキシと働き続けていたのだ。そして、アーネストもまた――。
「ありがとう、美味しそうなキッシュだ」
頼まずとも軽食を添えてくれていた秘書の気遣いに、ぼんやりしているヘンリーに代わり、訪問者がにこやかに礼を言い労っている。
「それで、きみの持ち帰ってくれた吉報ってセディのことなの?」
マクレガーの退場とともに再開された会話の口火を切ったのは、意外にもヘンリーだった。だが気怠げな様子は変わらない。
アーネストは視線でヘンリーを制し、まずはその言葉通り、待ち焦がれていた紅茶の芳香を味わっている。
「ああ、生き返った――。でも、彼のことは置いておいて……。まずは、ヨシノの持ち込んだ例の裁判だよ。一番賠償金額の大きい案件が決着したんだ」
「そう――」
「つまらないなぁ! もっと反応しなよ、5億ドルだよ! あの子がもぎ取った賠償額は!」
「それはまた――」
「特許侵害を認識していたのに、何ら対応が取られなかった故意侵害が認められて懲罰的賠償3倍! あーあ、本当にこの案件は、僕がこの手で扱いたかった!」
「法廷には立たなかった、ってだけできみの仕事だってことに変わりないじゃないか。ありがとう、アーニー。彼に代って礼を言うよ」
「今頃、向こうでも湧いてるんじゃないかな? この情勢でこの裁判結果、クリーンヒットって言えるだろ?」
「そうだね、この機を逃さず――」
淡々と言葉少なに返したヘンリーだったが、ふっとそこで深く思考を探るために視線を自らの内に向ける。
吉野ならば、この機を逃すはずがない。次はどんな手を打ってくるのか。
「眼に光がもどってきたね」
アーネストはようやくほっとしたような、穏やかな笑みを浮かべている。
「ほら、ぼやぼやしてる暇なんてないだろ? 彼らが結婚して枷がなくなったら、あの子、これまで以上に何をしでかすか判らないよ! せめて見通しくらいは先手を取っておきたいね」
「アスカがヨシノの枷――。彼はこの機に飛びたつために、この婚約を望んだって言いたいの?」
飛鳥に繋がれ、囲い続けることが、彼の望みだったはずなのに。ヘンリーは軽く眉を寄せ、この話を切り出したときの吉野を想い返した。飛鳥と彼自身の間に入った亀裂を修復するため。より強固な絆を結ぶため。本当に、それだけだったのだろうか――。
「それから? きみの持つ手札は、この裁判の判決だけではないんだろ、アーニー?」
だらしなく身を投げだしていた背もたれからようやく背筋を伸ばし、ヘンリーは、いつもの彼らしい仕草でティーカップを口に運んだ。
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