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九章
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二か月半ぶりに英国へ帰国したアーネストは、自宅へもよらずに真っ直ぐケンブリッジのヘンリー邸を訪ねていた。出迎えたマクレガーとまずはにこやかな挨拶を交わし、近況を聞く。
「それで彼は?」
快活に喋りながらも、どこに自分を通すべきか迷っているようなマクレガーの曖昧な態度に業を煮やし、アーネストの方から訊ねた。ヘンリーの在宅は承知している。自分のもたらす朗報を首を長くして待っているはずだ。それなのにこの館を満たす重苦しい空気は何なのだ、と彼は気心知れた仲であるはずのマクレガーに、厳しい視線を投げかける。
「どなたも取り次ぐな、と承っております」と、彼は困惑したような曖昧な笑みで応じる。アーネストはくしゃりと笑って、そんな彼の肩をぽんと叩いた。
「やれやれ、また我がままヘンリーに逆戻りか――。困ったCEOだねぇ。覚えておいて、マクレガー、ヘンリーが何を言おうと、僕はその範疇には入らない。まぁ、あまり気にしないでやって。あなたの手に負えないこともある」
「しかし、」
「案内はいらない。僕もここの住人だってこと、忘れたわけじゃないだろ?」
このまだ日の浅い秘書兼執事の脇を通りぬけ、アーネストはすたすたと廊下を進んでいった。勝手知ったるこの館で、幼馴染がこんな時どういう行動を取るのか、彼は自分のことのように把握しているのだ。
コンサバトリーのドアを静かに開ける。とそこには、はてしない闇が広がっていた。そのなかを小さなオレンジ色の光が、いくつも、いくつも飛び交っている。まるで星々が散歩でもしているかのように、緩やかに――。
その光にではなく広がる闇に、アーネストは無表情のまま目を凝らす。まずはぼやりと浮かんで見えるソファーに。それから覗き込むと眩暈をおこしそうな淵にも似た、足下から続いているはずの床のあるべき空間へと視線を流して。
いた。闇に溶け込むように横たわっている。
「ただいま」
その傍らまでそろそろと足を滑らせ、アーネストは宙に浮かんでいるように見えるヘンリーを覗き下ろした。底知れぬ闇に引き込まれそうな感覚に顔をしかめ、足裏の感触に集中して唇を引き結ぶ。
「おかえり、アーニー」
ヘンリーは寝転がったまま応えている。
「限界なのは体力、それともまさかの気力? 動けないならしかたないけれど、そうじゃないなら、きみのために吉報を持って帰ってきた僕をお茶で労ってもらえないかな」
「お茶でいいの?」
「へぇ――。ここでお酒を飲むようになったの? 彼らがいないからって……」
クスクスと喉を振るわせて笑いながら、アーネストは肩をすくめた。「腑抜けてるねぇ!」と盛大にため息をつき、そろそろとヘンリーの傍らに腰をおろす。これ以上立ったまま会話を継続させるのは、限界だったのだ。目を瞑り、深く息をつく。ぐらぐらに揺れている平衡感覚を、床に触れる感触でなんとか平常に戻そうと深呼吸を繰り返す。脈が落ち着いてくると、傍らに寝転がったままのヘンリーの頭をくしゃりと撫でた。
「だから言わんこっちゃない」、と呆れたふうに呟いたところで、ヘンリーは何も応えない。アーネストにしても、返事を期待しての言葉ではなかった。彼と並び、はてのない濃紺のなかで生き生きと瞬いている光を、同じようにしばらくの間ぼんやりと眺めていた。
「ホタル、だっけ? こうして見るのは初めてだな」
「音楽みたいだろ?」少し弾んだ声音に吐息が続く。「光の動きが旋律みたいなんだ」
「サラみたいなことを言うねぇ」
アーネストにしても、ヘンリーの今の心境を想像できなかったわけではないのだ。サラと飛鳥の婚約を聞かされた時、漠然とした不安を感じていた。幼いころから良く知るこの親友は、あまりにも自分の心の強靭さを過信していた。だがその強さは、偏に不憫な幼少期をすごしてきた義妹のためだけに培われてきたものだ。病床の父に代わる保護者として、ソールスベリー家の当主として――。
そして、そんな罪悪感に根差した過度の愛着から彼を自立させ、自ら望む道へと導いてくれたのが飛鳥だといえるだろう。だがその飛鳥にも、彼はまたもや依存し過ぎたのだ。
アーネストはヘンリーの傍らで、ずっと彼を見守ってきたと自負している。彼がサラや飛鳥に本当に求めてきたものが何だったのか、解っているつもりだ。
「そんなに大事なのなら、しっかり掴んでいなよ。ヘンリー、きみは昔から、変に物分かりが良すぎるからねぇ」
「掴んでいる――、つもりだったんだけどね」
「そんな軟な握力じゃないだろ、本気ならさ」
自分の手を宙に伸ばして見つめながら、ヘンリーはククッと笑った。
「どうなんだろうね。本気じゃなかったってことなのかな」
その虚ろな声音に応えるように、アーネストは彼の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「僕に言わせるなら、まだまだだね」
「もっと早くにきみに教えを請えばよかった」
唇に笑みをのせ、ヘンリーは自分の瞼をその腕で覆った。この場に自分一人ではないことに安堵しているのか、逆に不満を覚えているのか、彼自身にも判らなかった。ただ、この闇のなかで、自分の顔をこの幼馴染に見られずにすむことを願っていた。たとえ彼にであっても、触れられたくない想いなのだ。どれほどアーネストが彼を理解し、沿うべき助言を与えてくれるのであっても。これだけは――。
「教えたところできみは従わないだろ? きみ自身の望みはそっと宝箱にしまい込んで愛でるだけ。そして、」
「望まれるものを提供するのが僕の役割だろ。きみはそのための材料を持ち帰ってきてくれた、ってことだね。何? 聴くよ。こんな感傷に浸っている暇はなさそうだ」
ようやく半身を起こしたヘンリーの肩を、アーネストはコンッと軽く小突く。
「たまにならいいんじゃない? こういうのも。きみの音に深みが出そうだしねぇ」
「ああ、最近弾いてなかったな」
「酒を飲んでぐだ巻いて――。かまわないさ、それくらい」
「怖いなアーニー、僕に何を喋らせるつもりだい?」
クスクス笑いだしたヘンリーは、もういつものヘンリーだ。こうして瞬時に自分を立て直す。これは彼の長所ではなく欠点なのではないか――、とそんな憂いに眉をひそませながら、アーネストはヘンリーの腕を取って引っ張り立たせた。
「温かいお茶でぐだを巻くのなら、いくらでも聴くよ。とにかく僕はね、ここの水で淹れた懐かしくも美味しいお茶に飢えてるんだ。水が合わない、ってほんと、よく言ったものだよ。お茶、お茶、お茶! 向こうじゃそればかり考えていたんだ!」
ナイフで切り取ったような隙間から光の漏れているドアに、ヘンリーの腕をとったまま強引なほどの勢いで向かいながら、アーネストは言い聞かすように呟いている。
「さぁ、まずは一杯のお茶。それからだよ、考えるのは!」
「それで彼は?」
快活に喋りながらも、どこに自分を通すべきか迷っているようなマクレガーの曖昧な態度に業を煮やし、アーネストの方から訊ねた。ヘンリーの在宅は承知している。自分のもたらす朗報を首を長くして待っているはずだ。それなのにこの館を満たす重苦しい空気は何なのだ、と彼は気心知れた仲であるはずのマクレガーに、厳しい視線を投げかける。
「どなたも取り次ぐな、と承っております」と、彼は困惑したような曖昧な笑みで応じる。アーネストはくしゃりと笑って、そんな彼の肩をぽんと叩いた。
「やれやれ、また我がままヘンリーに逆戻りか――。困ったCEOだねぇ。覚えておいて、マクレガー、ヘンリーが何を言おうと、僕はその範疇には入らない。まぁ、あまり気にしないでやって。あなたの手に負えないこともある」
「しかし、」
「案内はいらない。僕もここの住人だってこと、忘れたわけじゃないだろ?」
このまだ日の浅い秘書兼執事の脇を通りぬけ、アーネストはすたすたと廊下を進んでいった。勝手知ったるこの館で、幼馴染がこんな時どういう行動を取るのか、彼は自分のことのように把握しているのだ。
コンサバトリーのドアを静かに開ける。とそこには、はてしない闇が広がっていた。そのなかを小さなオレンジ色の光が、いくつも、いくつも飛び交っている。まるで星々が散歩でもしているかのように、緩やかに――。
その光にではなく広がる闇に、アーネストは無表情のまま目を凝らす。まずはぼやりと浮かんで見えるソファーに。それから覗き込むと眩暈をおこしそうな淵にも似た、足下から続いているはずの床のあるべき空間へと視線を流して。
いた。闇に溶け込むように横たわっている。
「ただいま」
その傍らまでそろそろと足を滑らせ、アーネストは宙に浮かんでいるように見えるヘンリーを覗き下ろした。底知れぬ闇に引き込まれそうな感覚に顔をしかめ、足裏の感触に集中して唇を引き結ぶ。
「おかえり、アーニー」
ヘンリーは寝転がったまま応えている。
「限界なのは体力、それともまさかの気力? 動けないならしかたないけれど、そうじゃないなら、きみのために吉報を持って帰ってきた僕をお茶で労ってもらえないかな」
「お茶でいいの?」
「へぇ――。ここでお酒を飲むようになったの? 彼らがいないからって……」
クスクスと喉を振るわせて笑いながら、アーネストは肩をすくめた。「腑抜けてるねぇ!」と盛大にため息をつき、そろそろとヘンリーの傍らに腰をおろす。これ以上立ったまま会話を継続させるのは、限界だったのだ。目を瞑り、深く息をつく。ぐらぐらに揺れている平衡感覚を、床に触れる感触でなんとか平常に戻そうと深呼吸を繰り返す。脈が落ち着いてくると、傍らに寝転がったままのヘンリーの頭をくしゃりと撫でた。
「だから言わんこっちゃない」、と呆れたふうに呟いたところで、ヘンリーは何も応えない。アーネストにしても、返事を期待しての言葉ではなかった。彼と並び、はてのない濃紺のなかで生き生きと瞬いている光を、同じようにしばらくの間ぼんやりと眺めていた。
「ホタル、だっけ? こうして見るのは初めてだな」
「音楽みたいだろ?」少し弾んだ声音に吐息が続く。「光の動きが旋律みたいなんだ」
「サラみたいなことを言うねぇ」
アーネストにしても、ヘンリーの今の心境を想像できなかったわけではないのだ。サラと飛鳥の婚約を聞かされた時、漠然とした不安を感じていた。幼いころから良く知るこの親友は、あまりにも自分の心の強靭さを過信していた。だがその強さは、偏に不憫な幼少期をすごしてきた義妹のためだけに培われてきたものだ。病床の父に代わる保護者として、ソールスベリー家の当主として――。
そして、そんな罪悪感に根差した過度の愛着から彼を自立させ、自ら望む道へと導いてくれたのが飛鳥だといえるだろう。だがその飛鳥にも、彼はまたもや依存し過ぎたのだ。
アーネストはヘンリーの傍らで、ずっと彼を見守ってきたと自負している。彼がサラや飛鳥に本当に求めてきたものが何だったのか、解っているつもりだ。
「そんなに大事なのなら、しっかり掴んでいなよ。ヘンリー、きみは昔から、変に物分かりが良すぎるからねぇ」
「掴んでいる――、つもりだったんだけどね」
「そんな軟な握力じゃないだろ、本気ならさ」
自分の手を宙に伸ばして見つめながら、ヘンリーはククッと笑った。
「どうなんだろうね。本気じゃなかったってことなのかな」
その虚ろな声音に応えるように、アーネストは彼の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「僕に言わせるなら、まだまだだね」
「もっと早くにきみに教えを請えばよかった」
唇に笑みをのせ、ヘンリーは自分の瞼をその腕で覆った。この場に自分一人ではないことに安堵しているのか、逆に不満を覚えているのか、彼自身にも判らなかった。ただ、この闇のなかで、自分の顔をこの幼馴染に見られずにすむことを願っていた。たとえ彼にであっても、触れられたくない想いなのだ。どれほどアーネストが彼を理解し、沿うべき助言を与えてくれるのであっても。これだけは――。
「教えたところできみは従わないだろ? きみ自身の望みはそっと宝箱にしまい込んで愛でるだけ。そして、」
「望まれるものを提供するのが僕の役割だろ。きみはそのための材料を持ち帰ってきてくれた、ってことだね。何? 聴くよ。こんな感傷に浸っている暇はなさそうだ」
ようやく半身を起こしたヘンリーの肩を、アーネストはコンッと軽く小突く。
「たまにならいいんじゃない? こういうのも。きみの音に深みが出そうだしねぇ」
「ああ、最近弾いてなかったな」
「酒を飲んでぐだ巻いて――。かまわないさ、それくらい」
「怖いなアーニー、僕に何を喋らせるつもりだい?」
クスクス笑いだしたヘンリーは、もういつものヘンリーだ。こうして瞬時に自分を立て直す。これは彼の長所ではなく欠点なのではないか――、とそんな憂いに眉をひそませながら、アーネストはヘンリーの腕を取って引っ張り立たせた。
「温かいお茶でぐだを巻くのなら、いくらでも聴くよ。とにかく僕はね、ここの水で淹れた懐かしくも美味しいお茶に飢えてるんだ。水が合わない、ってほんと、よく言ったものだよ。お茶、お茶、お茶! 向こうじゃそればかり考えていたんだ!」
ナイフで切り取ったような隙間から光の漏れているドアに、ヘンリーの腕をとったまま強引なほどの勢いで向かいながら、アーネストは言い聞かすように呟いている。
「さぁ、まずは一杯のお茶。それからだよ、考えるのは!」
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