胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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「僕は今日ほど、英国人の会話が複雑極まるものだってことを意識したことはありませんよ」

 仕事の合間に吉野と入れ違いで顔を見にきてくれた飛鳥を前にして、アレンは深いため息を漏らしている。
 飛鳥にしろ、とくに説明をせずとも米国でセドリックの身に起こったことや、ケネス・アボットの突然の来訪の意味を把握していたのだ。何も知らない自分はどこまでおめでたい人間なだろう、と思わずにはいられなかったのだ。

 ケネス・アボットはアレンの前で、一言もセドリック狙撃事件を語らなかった。けれどフィリップにだけ通じる言い方で彼を責め、これ以上の攻撃を加えることを止めるようにとほのめかしていたのだ。
 思い返してみれば、おそらくそこに自分が同席していることがフィリップにとっては意味があり、なおかつその内容が自分を不快にさせることのないようにとのケネスの配慮までが感じられる。会話の苦手なアレンにとっては、まるで魔法のような話術だ。それも吉野に教えられるまで、気づくことさえなかったなんて――。

「うん」とだけ応え、微苦笑する飛鳥の表情は素直にアレンの感想に同調している。彼にしても、二重三重の意味を含んだ会話をごく日常的にするヘンリーや、ウィリアムとは長い付き合いなのだ。アレンの言いたいことはとても合点がいく。むしろその暗に含んだ言い方が、フィリップに伝わっていたらしいことに驚いた。ヘンリーの皮肉を含んだ言い方は、ロレンツォには理解ができずに間にいる飛鳥をハラハラさせたり、逆に彼を怒らせ、真っ向から反撃される要因になっていたのだから。

 まだ外見は少年らしさを残すフィリップの底しれないどう猛さと、ヘンリーに通じる隙のない冷静さの権化のようなケネスの間に挟まれ、アレンは目に見えて憔悴している。飛鳥はせめて慰めようと、彼の髪をくしゃくしゃと撫でる。他に彼のためにできることを、なんとも思いつかなかったのだ。

「それにしても――」

 目まぐるしく動く情勢の変化に、飛鳥にしても追いつけないでいるのだ。

 フィリップがアレンを常軌を逸しているほど信奉しているのは、見ていて解る。彼を守ることに尽力するのも、一族の宗主であるロレンツォの命令以上の想いがあるということも。けれど、だからといって、彼がアレンに出会う前に起こった事件の報復に、加害者であるセドリックを抹殺にかかるなんて――。
 飛鳥には到底信じられない。
 ヘンリーがケネスをここに寄越した思惑も、他にあるのではないかと思いたい。例えば、サラのためにとか。

 ここに来る前に、飛鳥はくだんのケネス・アボットと、サラの三人でティー・テーブルを囲んでいた。彼女から話に聴いていた通り、数学に関する知的な会話に花が咲いた。あまり人慣れしていない彼女がまったく警戒心をみせないほど、彼はサラの心を掴んでいた。数度、逢っただけだというのに。それはつまり、彼は、彼女の相手ができるほどの数学的な頭脳の持ち主で、なおかつ彼女の特殊な育ちを理解して、彼女を不快にさせない術を心得ているということだ。
 ヘンリーが、これから自分の手許を離れることになる妹のことを案じて、話し相手、相談相手としてここに寄越した。そう考える方がしっくりくる。飛鳥にしろ、ケネスに一目で好感を持ったのだから。
 それになんとなく、彼はヘンリーと重なる空気を持っているのだ。冷静さ、一見冷ややかに見えて懐に入ると温かい人間味。敵に回したくはないけれど、味方となれば百人力、そんな人を安心させる度量の広さを感じさせる。吉野は彼のことを、「あいつは情に流される」と一言、釘を刺してはいたけれど。

 だが飛鳥にはとてもそんなふうには見えない。むしろアレンの言うように、厄介な問題を冷静に難なくこなす人物のようにしか思えなかった。


 途切れてしまっていた会話にふと意識が戻り、飛鳥は場を取り繕うようにぎこちなく微笑んだ。

「さっきまで一緒にお茶を飲んでたけどね、彼、そんな緊迫した空気なんて欠片もみせなかったよ。さすがだね」
「本当に――。あの後またお茶につき合ってるなんて、さすが英国人……。お腹、たぽたぽにならないのかなぁ」

 至って真面目に呟いたアレンに、飛鳥は思わず吹きだしてしまった。この国に来てからというもの、日に何度もお茶を飲んでいるのは自分も同じだ。

「うん。慣れだね、きっと」

 クスクスと笑っている飛鳥に、アレンも釣られて頬を緩める。


「なにクスクス笑い合ってんだよ!」

 あまりにもいつまで経っても戻ってこない飛鳥に、吉野が業を煮やして迎えにきたのだ。

「こら、飛鳥! いつまでも油売ってんじゃないぞ!」
 などと言いながら、吉野もニヤついている。自分の前ではずっと暗い顔をしていたアレンが笑っているのだ。内心では、さすが飛鳥だな、と胸をなでおろしていた。
 そんな吉野の心の内など飛鳥にはお見通しのようで、「はい、はい」と笑いながら返事している。だが彼は、ふっと寂しげな影の差したアレンの目許を見咎める。

「きみも手伝ってくれる?」考えるよりも先に口から突いてでていた。

「え? でも――」
 アレンの瞳は飛鳥ではなく吉野に問うている。
「かまわないだろ?」
 飛鳥も同じく吉野を見つめている。
「俺に訊くか?」
 確認するように見つめ返され、飛鳥は軽く肩をすくめた。
「僕は、手伝って欲しいな。行き詰まってるんだ。もともとの企画がぽしゃっちゃってさ」
 
 アレンはガタガタと椅子を引いて立ちあがった。これが初めてというわけではない。これまでだって、飛鳥に助言を求められたことは何度もあった。けれど、今回の取り組みにかける飛鳥たちの意気込みが今までとは違うことに、アレンは遠慮していたのだ。
 たった今まで胸を塞いでいたセドリックのこと、フィリップの思惑、そんな黒くて重たい霧のような面倒ごとが、一瞬で霧散している。

 自分にできることを求められたことで――。

 解らないこと、できないことではなく、飛鳥はいつもアレンにできることを探して提示してくれる。それを掴むために伸ばされる彼の手を取って、引っ張り立たせるために。

 こうしてさし伸ばされる手を取ることが、もう怖くはない。
 アレンは心の奥から湧きあがる熱に、ぶるりと身震いしていた。




 
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