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九章
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やがて二人が順繰りに席をたってからも、アレンは一人この場に残っていた。それまで眼前で繰り広げられていた自分ごとではとても耐えられないような険しい応酬からようやく解放されたことに、茫然自失していたのだ。
消耗した心を立て直さなければと、意識してゆっくりと呼吸し、柔らかな雨音に耳を澄ませる。ケネスとフィリップの一発触発の緊張感を孕んだ腹の探り合いに、神経が疲れ切ってしまっている。ケネスをここへよこしたという兄の気持ちが、アレンには到底測りきれなかった。問題の発端は、自分の不甲斐なさにあることだけは重々承知しているのに、それを責める者は誰もいない。自分とはかけ離れたところで問題ばかりが大仰に広がっていくのだ。まるで自分という異物を含んだがために堅固な壁に亀裂が入り、ポロポロと腐食し崩れ落ちていくように。
そんな息苦しいイメージも、パラパラとビーズを撒いているような雨音に包まれることで、湿気に紛れ朧に薄らいでいく。不規則なリズムは、彼のなかで心地良く優しい調べに変換される。緑色に染まる空気が全身を包むこの温かなガラスドームの中で、アレンはいつしか微睡みに落ちている。
やがて香ばしい匂いに鼻孔をくすぐられて彼が目覚めた時、ローテーブルを挟んだ向かいでは、吉野が音も立てずにコーヒーを飲んでいた。ガラス天井から透ける空は暗い灰色で、長く眠ってしまっていたのか、もう暮れ時なのか判断がつかない。
「おはよう、お前、ホントによく寝る奴だな」
いつもの憎まれ口に、ああ、これは本物の吉野なのだと手前勝手に納得したものの、それともこれは都合のいい夢の続きなのか、と真逆の不安も彼のなかで生まれている。
「お前も飲む?」
返事も待たずに、とぽとぽと銀のポットから注がれる音。芳香がいっそう強くなる。
「アボット寮長にもうお逢いした?」
アレンはようやく半身を起こして、顔にかかる柔らかな金髪を無造作にかきあげ訊ねた。
「ああ」
また吉野は勝手に砂糖を2つ、ミルクをたっぷりと入れる。僕は最近はもう何も入れないのに――。
ぼんやりとそんなことを思ってはいても、アレンは口に出して言うことはない。「ありがとう」と、ついと寄せられたカップのハンドルを優雅に摘まみあげるだけだ。吉野に相応しい自分でありたい想いと、吉野の考える自分のままでいたい想いが常に彼の心の中でせめぎ合っている。吉野の持つ自分のイメージから外れることが怖かった。どんな些細なことであっても。吉野は変化を怖れるような人間ではない、と解ってはいても――。
「きみは、どう思っているの?」
だから、甘いコーヒーを一口飲みこんだその息で発せられた自分の言葉が、アレンには自分でも意外だった。
「どうって、あいつがここに来た理由か?」
吉野に何を尋ねたかったのか、自分でも判らなかったのだ。だが吉野の方からアレンの心を慮って、考える素振りを見せている。
「そうだな――」
遠くを見るように、吉野は目を細めていた。
「まぁ、ヘンリーの気持ちも解らないでもないよ。フィリップはまだまだガキだからな」
そんな曖昧な言い方では理解できない。と、アレンは無意識に首を傾げていた。吉野にこんなことを尋ねてはいけない、といつも自分に言い聞かせていることが口から滑りでてしまったのに、彼はとくに気にする様子も見せないことに、驚かされていた。兄と吉野の連携する思惑からは隔てられ、自分はいつも蚊帳の外に置かれている。そんなふうに思っていたのに。
吉野はそんな彼に皮肉な笑みを見せ、すっと一瞥をくれてから言を継いだ。
「要するに感情で動くな、ってことだよ。まだまだセドリックに死なれちゃ困るんだよ。フィリップみたいなガキがさ、人一人の運命をどうとでもできる権力を握ってるってのが問題なんだよ。そして肝心の、あいつを制御できる立場のロニーは、セドリック程度の人間には関心がない。ヘンリーが何と言おうと、あいつも面子を優先するだろうしな。だからヘンリーはロニーを通さずに、別方向からフィリップの説得に乗りだしたってことだよ」
アレンの持つロレンツォのイメージと、吉野の持つそれには大西洋ほどの隔たりがあるらしい。アレンは、イタリア人らしく朗らかで紳士的な彼しか知らないのだ。
吉野の言わんとすることが掴みきれず、もどかしげに考え込んでいるアレンを訝しそうに眺め、はたと膝を打って吉野はいくばくか声を高めて告げた。
「ああ、もしかしてお前、知らないの? セドリックの奴、ロスで狙撃されたんだよ! まぁ、ぴんぴんしてるけどさ。お前なぁ、ニュースくらい見ろよ! いつまでも引きこもってないでさぁ!」
消耗した心を立て直さなければと、意識してゆっくりと呼吸し、柔らかな雨音に耳を澄ませる。ケネスとフィリップの一発触発の緊張感を孕んだ腹の探り合いに、神経が疲れ切ってしまっている。ケネスをここへよこしたという兄の気持ちが、アレンには到底測りきれなかった。問題の発端は、自分の不甲斐なさにあることだけは重々承知しているのに、それを責める者は誰もいない。自分とはかけ離れたところで問題ばかりが大仰に広がっていくのだ。まるで自分という異物を含んだがために堅固な壁に亀裂が入り、ポロポロと腐食し崩れ落ちていくように。
そんな息苦しいイメージも、パラパラとビーズを撒いているような雨音に包まれることで、湿気に紛れ朧に薄らいでいく。不規則なリズムは、彼のなかで心地良く優しい調べに変換される。緑色に染まる空気が全身を包むこの温かなガラスドームの中で、アレンはいつしか微睡みに落ちている。
やがて香ばしい匂いに鼻孔をくすぐられて彼が目覚めた時、ローテーブルを挟んだ向かいでは、吉野が音も立てずにコーヒーを飲んでいた。ガラス天井から透ける空は暗い灰色で、長く眠ってしまっていたのか、もう暮れ時なのか判断がつかない。
「おはよう、お前、ホントによく寝る奴だな」
いつもの憎まれ口に、ああ、これは本物の吉野なのだと手前勝手に納得したものの、それともこれは都合のいい夢の続きなのか、と真逆の不安も彼のなかで生まれている。
「お前も飲む?」
返事も待たずに、とぽとぽと銀のポットから注がれる音。芳香がいっそう強くなる。
「アボット寮長にもうお逢いした?」
アレンはようやく半身を起こして、顔にかかる柔らかな金髪を無造作にかきあげ訊ねた。
「ああ」
また吉野は勝手に砂糖を2つ、ミルクをたっぷりと入れる。僕は最近はもう何も入れないのに――。
ぼんやりとそんなことを思ってはいても、アレンは口に出して言うことはない。「ありがとう」と、ついと寄せられたカップのハンドルを優雅に摘まみあげるだけだ。吉野に相応しい自分でありたい想いと、吉野の考える自分のままでいたい想いが常に彼の心の中でせめぎ合っている。吉野の持つ自分のイメージから外れることが怖かった。どんな些細なことであっても。吉野は変化を怖れるような人間ではない、と解ってはいても――。
「きみは、どう思っているの?」
だから、甘いコーヒーを一口飲みこんだその息で発せられた自分の言葉が、アレンには自分でも意外だった。
「どうって、あいつがここに来た理由か?」
吉野に何を尋ねたかったのか、自分でも判らなかったのだ。だが吉野の方からアレンの心を慮って、考える素振りを見せている。
「そうだな――」
遠くを見るように、吉野は目を細めていた。
「まぁ、ヘンリーの気持ちも解らないでもないよ。フィリップはまだまだガキだからな」
そんな曖昧な言い方では理解できない。と、アレンは無意識に首を傾げていた。吉野にこんなことを尋ねてはいけない、といつも自分に言い聞かせていることが口から滑りでてしまったのに、彼はとくに気にする様子も見せないことに、驚かされていた。兄と吉野の連携する思惑からは隔てられ、自分はいつも蚊帳の外に置かれている。そんなふうに思っていたのに。
吉野はそんな彼に皮肉な笑みを見せ、すっと一瞥をくれてから言を継いだ。
「要するに感情で動くな、ってことだよ。まだまだセドリックに死なれちゃ困るんだよ。フィリップみたいなガキがさ、人一人の運命をどうとでもできる権力を握ってるってのが問題なんだよ。そして肝心の、あいつを制御できる立場のロニーは、セドリック程度の人間には関心がない。ヘンリーが何と言おうと、あいつも面子を優先するだろうしな。だからヘンリーはロニーを通さずに、別方向からフィリップの説得に乗りだしたってことだよ」
アレンの持つロレンツォのイメージと、吉野の持つそれには大西洋ほどの隔たりがあるらしい。アレンは、イタリア人らしく朗らかで紳士的な彼しか知らないのだ。
吉野の言わんとすることが掴みきれず、もどかしげに考え込んでいるアレンを訝しそうに眺め、はたと膝を打って吉野はいくばくか声を高めて告げた。
「ああ、もしかしてお前、知らないの? セドリックの奴、ロスで狙撃されたんだよ! まぁ、ぴんぴんしてるけどさ。お前なぁ、ニュースくらい見ろよ! いつまでも引きこもってないでさぁ!」
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