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九章
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キャロライン・フェイラーとセドリック・ブラッドリーの婚約が正式に発表されてから、すでに数日が経つ。
ここ、マーシュコートでも当初の動揺はすでに収まり、各々のすべきことに取り組む忙しない日常が始まっていた。
そんななかでアレンは大学の課題に取り組む傍ら、冬の寒さもゆるゆると緩み温かな日の射す時間帯をテラスで過ごす日が多くなった。とはいえ、まだ外気は冷たい。しっかりとセーターの上に厚手のジャケットを着こみ、庭を見下ろすガーデンテーブルで湯気の立つ紅茶で暖を取る。
その静かなセレストブルーの瞳の見渡す常緑の灌木で区切られたガーデンルームでは、サンゴミズキの赤が天に向かって鮮やかな細枝を伸ばし所々で色を添える。
「不思議な庭――」
何気ないアレンの呟きに、フィリップは反射的に「何がです?」と尋ねていた。不満があるならすぐにでも解消して差し上げなければ、とでも言いたげに濃紺の瞳に意志が宿る。
「この時期に水仙を植えていない庭があるんだなって」
そこが父の凡庸でないところなのだろうか――。
アレンは言いながら、ふふっと目を細め口許を緩ませる。フィリップは軽く眉を寄せ、唇を尖らせた。
「彼と同じことをおっしゃるのですね。――ここに水仙を植えないのは、その花がご当主にとって特別な花だからだそうですよ」
彼、というのは吉野のことだ。フィリップはなぜか吉野のことを常に代名詞で語る。彼とか、あの人とか。初めのうちは不快だったアレンも、もう目くじらも立てなくなった。好意をもっていない相手では、どんな呼び方をしようとも自分の気にいるはずはない、と諦めにも似た思いで感情的な反応を自動的に閉め出したのだ。むしろ気安く吉野の名を呼ばれるよりもいいではないか、と。
「ヨシノがそう言っていたの?」
あとでもっと詳しく話を聴こう。そんなつもりでの問いだったが、フィリップの「ええ。ここのお嬢さんがそう仰っていたって」との付け足しに、アレンはがっかりしたように小首を傾いだ。
それは、サラならば知っているだろう。
だがそうなると、アレンには気安く尋ねることはできなくなる。自分にそんな資格はない。浮き立っていた気分までが、いきなり水を差されて萎んでしまったような気になった。こうなると慌ててしまうのがフィリップだ。アレンの意に添うようにと会話の糸口を探すのに、なぜか毎回しくじってしまうのだ。苛立たせたり、落ち込ませたり、ますます嫌われてしまう原因となる。彼の意志に反して。相性が悪いとしかいいようがないのだが、もちろん、彼はそんな理由を認めるわけにはいかない。
どうやって取り繕うか思案していると、意図せぬきっかけが向こうからやってきた。はたして喜べることなのかどうかはまだ判断できなかったが、今のこの居た堪れない状況は克服できる。フィリップは艶やかな笑みを湛えて、優雅に椅子から立ちあがった。
「お久しぶりです、先輩」
その声に庭に視線を戻していたアレンも振り返る。突然の来訪者に「あ、」と小さく息を呑む。立ちあがろうとしたアレンを、「そのままで」と軽く手ぶりで制して、客人は「僕もお邪魔させてもらってもかまわないかな?」と彼の肩に手を置いた。
「もちろんですとも!」
アレンの喜色に満ちた声に、予告もなく現れた客人、ケネス・アボットよりもフィリップの方がほっと胸を撫で下ろしていた。
「ところできみ、携帯はどうしたの? いくら連絡しても繋がらなくて心配していたんだよ」
「え! それでわざわざこんな田舎まで訪ねてきてくださったのですか!」
驚きのあまりか彼にしては声を高めている。恐縮しきっているアレンの向かいに腰を下ろし、ケネスはクスクス笑って首を振った。
「それもあるけど、本題は別。きみのお兄さんに頼まれてね。本題は――」と、ケネスはすっとフィリップのうえに視線を移す。アレンと二人きりでいたときとは打って変わって、フィリップは表情の読めない冷淡な微笑を湛えて、その鋭い金色の眼光を受けとめる。
「まぁ、追々とね。しばらく滞在させていただくことになるから」
ケネスの発言に、アレンはまた嬉しそうに顔をほころばせた。
「ヨシノにはもうお逢いになられましたか?」
「まだ。彼、仕事中らしいから。だからこうして、先にきみたちのお邪魔をさせてもらっているわけさ」
その返答はアレンにとって予想外で、意外感からじっとケネスの面を凝視する。てっきり彼はセドリックの件で自分を訪ねてきたものとばかり思っていたのだ。だが彼の言う本題とは、吉野に逢うことらしい。でも、なぜ――。
「きみって、相変わらず思っていることがそのまま顔にでるんだねぇ」
ケネスはまた眦をさげてくすくすと笑った。一見すると冷たげに見える、輝く銀髪の全体的に色素の薄いこの男は、笑うと一気に雰囲気が変わる。その鋼の鎧を脱いだように優しげで人間臭く映るのだ。そのギャップがアレンにはとても好ましかった。どこか兄に通じるものがあるように思えるのだ。
アレンは彼に、はにかんだように軽く肩をすくめてみせた。吉野からも同じ指摘をされたことがある。自分は吉野や兄のようには、交渉ごとには向いていないのだとつくづく思う。
「それにきみもね」
急に矛先を向けられたフィリップは、怜悧な瞳を猫のように細めて微笑で応じていた。
ここ、マーシュコートでも当初の動揺はすでに収まり、各々のすべきことに取り組む忙しない日常が始まっていた。
そんななかでアレンは大学の課題に取り組む傍ら、冬の寒さもゆるゆると緩み温かな日の射す時間帯をテラスで過ごす日が多くなった。とはいえ、まだ外気は冷たい。しっかりとセーターの上に厚手のジャケットを着こみ、庭を見下ろすガーデンテーブルで湯気の立つ紅茶で暖を取る。
その静かなセレストブルーの瞳の見渡す常緑の灌木で区切られたガーデンルームでは、サンゴミズキの赤が天に向かって鮮やかな細枝を伸ばし所々で色を添える。
「不思議な庭――」
何気ないアレンの呟きに、フィリップは反射的に「何がです?」と尋ねていた。不満があるならすぐにでも解消して差し上げなければ、とでも言いたげに濃紺の瞳に意志が宿る。
「この時期に水仙を植えていない庭があるんだなって」
そこが父の凡庸でないところなのだろうか――。
アレンは言いながら、ふふっと目を細め口許を緩ませる。フィリップは軽く眉を寄せ、唇を尖らせた。
「彼と同じことをおっしゃるのですね。――ここに水仙を植えないのは、その花がご当主にとって特別な花だからだそうですよ」
彼、というのは吉野のことだ。フィリップはなぜか吉野のことを常に代名詞で語る。彼とか、あの人とか。初めのうちは不快だったアレンも、もう目くじらも立てなくなった。好意をもっていない相手では、どんな呼び方をしようとも自分の気にいるはずはない、と諦めにも似た思いで感情的な反応を自動的に閉め出したのだ。むしろ気安く吉野の名を呼ばれるよりもいいではないか、と。
「ヨシノがそう言っていたの?」
あとでもっと詳しく話を聴こう。そんなつもりでの問いだったが、フィリップの「ええ。ここのお嬢さんがそう仰っていたって」との付け足しに、アレンはがっかりしたように小首を傾いだ。
それは、サラならば知っているだろう。
だがそうなると、アレンには気安く尋ねることはできなくなる。自分にそんな資格はない。浮き立っていた気分までが、いきなり水を差されて萎んでしまったような気になった。こうなると慌ててしまうのがフィリップだ。アレンの意に添うようにと会話の糸口を探すのに、なぜか毎回しくじってしまうのだ。苛立たせたり、落ち込ませたり、ますます嫌われてしまう原因となる。彼の意志に反して。相性が悪いとしかいいようがないのだが、もちろん、彼はそんな理由を認めるわけにはいかない。
どうやって取り繕うか思案していると、意図せぬきっかけが向こうからやってきた。はたして喜べることなのかどうかはまだ判断できなかったが、今のこの居た堪れない状況は克服できる。フィリップは艶やかな笑みを湛えて、優雅に椅子から立ちあがった。
「お久しぶりです、先輩」
その声に庭に視線を戻していたアレンも振り返る。突然の来訪者に「あ、」と小さく息を呑む。立ちあがろうとしたアレンを、「そのままで」と軽く手ぶりで制して、客人は「僕もお邪魔させてもらってもかまわないかな?」と彼の肩に手を置いた。
「もちろんですとも!」
アレンの喜色に満ちた声に、予告もなく現れた客人、ケネス・アボットよりもフィリップの方がほっと胸を撫で下ろしていた。
「ところできみ、携帯はどうしたの? いくら連絡しても繋がらなくて心配していたんだよ」
「え! それでわざわざこんな田舎まで訪ねてきてくださったのですか!」
驚きのあまりか彼にしては声を高めている。恐縮しきっているアレンの向かいに腰を下ろし、ケネスはクスクス笑って首を振った。
「それもあるけど、本題は別。きみのお兄さんに頼まれてね。本題は――」と、ケネスはすっとフィリップのうえに視線を移す。アレンと二人きりでいたときとは打って変わって、フィリップは表情の読めない冷淡な微笑を湛えて、その鋭い金色の眼光を受けとめる。
「まぁ、追々とね。しばらく滞在させていただくことになるから」
ケネスの発言に、アレンはまた嬉しそうに顔をほころばせた。
「ヨシノにはもうお逢いになられましたか?」
「まだ。彼、仕事中らしいから。だからこうして、先にきみたちのお邪魔をさせてもらっているわけさ」
その返答はアレンにとって予想外で、意外感からじっとケネスの面を凝視する。てっきり彼はセドリックの件で自分を訪ねてきたものとばかり思っていたのだ。だが彼の言う本題とは、吉野に逢うことらしい。でも、なぜ――。
「きみって、相変わらず思っていることがそのまま顔にでるんだねぇ」
ケネスはまた眦をさげてくすくすと笑った。一見すると冷たげに見える、輝く銀髪の全体的に色素の薄いこの男は、笑うと一気に雰囲気が変わる。その鋼の鎧を脱いだように優しげで人間臭く映るのだ。そのギャップがアレンにはとても好ましかった。どこか兄に通じるものがあるように思えるのだ。
アレンは彼に、はにかんだように軽く肩をすくめてみせた。吉野からも同じ指摘をされたことがある。自分は吉野や兄のようには、交渉ごとには向いていないのだとつくづく思う。
「それにきみもね」
急に矛先を向けられたフィリップは、怜悧な瞳を猫のように細めて微笑で応じていた。
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