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九章
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「おい、起きろよ! そんな寝てばかりいると脳みそが腐るぞ!」
そんないかにも吉野らしい不機嫌な声に、軽く目を瞑っていたアレンは瞼をもちあげる。ベッドに横たわってはいたが、眠っていたのではない。至近距離で覗きこんでいる鳶色の瞳に、ふわりと頬笑み返した。
「きみを見ていたんだよ、よく眠っていたから」
「ほら、寝ぼけてないで起きろって。朝までには、ここを発ちたいんだ。時間がないからさ。で、お前、ちゃんと食ってんの? 顔色悪いじゃん」
日に焼けた吉野の手が、透き通るようなアレンの頬を擦りあげる。
あんな気候の厳しい国にいるから――。こんなに乾いた、荒れた手になってしまって。
アレンはぼんやりと、その手を労わるように自分の手を重ねる。
「お前、痩せたな。映像じゃそう見えなかったのに。やっぱこの新型、ちょっと膨張気味に映るんだな。色味も赤がかってるのか」
ちっと舌打ちする吉野の手が、逆にアレンの手首を掴んでいる。まるで検分するかのように。
「――ヨシノ?」
「なに?」
ほんもの?
映像じゃない、温かい――。
「ヨシノ」
「ほら、起きろって。下に待たせてるんだ。フィリップが煩いんだよ。顔見せてやれよ。俺はあいつのこと面倒臭くて嫌いなんだ、って知ってるだろ」
本物の吉野だ。早く、早くしなければ――。
アレンは慌てて飛び起きた。ぼんやりした頭に少しでも血を巡らそうと顔を擦る。急がなければ、この吉野もまたすぐに消えてしまいそうで、気が気じゃない。まずすることは? 誰が来ているんだっけ――。そうか、着替えなきゃ――。
焦り過ぎたのか、アレンはベッドから下りるなりつんのめる。吉野がすかさず腕を掴んで支えてくれた。
「お前、相変わらずどんくせぇの。それとも眩暈? それなら無理しなくていいぞ。あいつらにはそう言っとくからさ」
「……大丈夫」
しっかりしろ!
自分自身を叱咤しながら、アレンはにっこりと頬笑んでみせる。吉野がわざわざ出向くほどの用事を、自分の体調ごときで反故にするわけにはいかない。だが、ふいに気にかかってベッドを振り返った。
「あれは――、兄みたいな、人工知能のきみなの?」
そこで猫のように丸くなって寝ている、白いアラブ服の吉野に目をやる。
「うん。人工知能つっても、ほとんど自分で動かしてるけどな。だから、俺が触れないときは寝てばっか。ヘンリーのスペアみたいには優秀じゃないんだ。まだまだ実験段階だよ」
吉野は自嘲的な笑みを浮かべて寝転がる自分を見ている。この二人の吉野を、アレンは不思議な気分で眺めていた。
この部屋から一歩離れることさえ疎ましく思うほど執着していた吉野は、アレンの知らぬ間に彼自身の映像から、人工的にプログラムされた映像にすり替わっていたのだ。そのことに、自分はなんとなく気がついていたような気がする。
あの吉野は優しかったから――。
本当の吉野は口煩い。何度言っても、アレンの髪をくしゃくしゃ撫でるのを止めない。こんなふうに、いつも傍にはいてくれない。けれど――、それが吉野なのだ。
本物の吉野を目にした今、もう、あんな影などいらない、とアレンは深く納得していた。もう影では満足できない。この差を目の当たりにしてしまっては。たとえ、いつも傍にいてくれることはなくても、瞬間、瞬間に、本物の吉野はアレンを生命で満たしてくれる。こんこんと湧きでる活力をアレンは内側に感じている。
生きている自分を。これまで、そうであったように――。
吉野を前にする度に、アレンは生を実感する。その度に生き返るのだ。
「おい、ほら、ぼーとすんなよ! 行くの、それとも寝とくの?」
「え? あ、うん。行く。すぐ着替えるから」
幸せなのだ、と初めてアレンは実感していた。これが幸せというものなのだ、と。
吉野が生きて、呼吸して、こうして存在してくれていることが――。
もう、それだけでいい、とアレンは確信したのだった。
それで充分だ、と。
ドレッシング・ルームから出てきたアレンは、見違えるほどすっきりした顔をしていた。
「なんだ、やっぱ低血圧なだけなんだな、お前」
「そうだね。マーカスさんにお茶をもらうよ。しっかり目が覚めるように」
映像越しに見ていたこの数日間はなんだったのか、というほどに、アレンは艶やかに微笑んでいる。誰をも魅了してきた天使の微笑で。
吉野はほっとしたように笑って、アレンの髪をくしゃりと撫でた。
「ほら、行くぞ。お前、あのガキをうまいこと宥めてくれよ。あの武闘派にはまいってるんだ。戦争でもおっ始めかねない勢いでさ、いきり立ってるんだ!」
「武闘派って、ド・パルデュのこと?」
「あいつ以外に誰がいるってんだよ」
「久しぶりだな。卒業セレモニー以来だ」
「あいつの方はちっとも久しぶりじゃなさそうだけどな。ストーカーだしな」
「身も蓋もない言い方だね。警護してくれてるのに――」
吉野と肩を並べ軽口を交わしながら、アレンは廊下を渡り居間へ向かった。脳内で目まぐるしく思考しながら。重く立ち込めていた霧は晴れ、個々の状況を思い描くことができていたのだ。なによりも、朧だった自分の地面を踏みしめて歩いているのだと、彼は全身で感じていた。
吉野の隣を、こうして歩くことが自分にだってできるのだ、と――。
そんないかにも吉野らしい不機嫌な声に、軽く目を瞑っていたアレンは瞼をもちあげる。ベッドに横たわってはいたが、眠っていたのではない。至近距離で覗きこんでいる鳶色の瞳に、ふわりと頬笑み返した。
「きみを見ていたんだよ、よく眠っていたから」
「ほら、寝ぼけてないで起きろって。朝までには、ここを発ちたいんだ。時間がないからさ。で、お前、ちゃんと食ってんの? 顔色悪いじゃん」
日に焼けた吉野の手が、透き通るようなアレンの頬を擦りあげる。
あんな気候の厳しい国にいるから――。こんなに乾いた、荒れた手になってしまって。
アレンはぼんやりと、その手を労わるように自分の手を重ねる。
「お前、痩せたな。映像じゃそう見えなかったのに。やっぱこの新型、ちょっと膨張気味に映るんだな。色味も赤がかってるのか」
ちっと舌打ちする吉野の手が、逆にアレンの手首を掴んでいる。まるで検分するかのように。
「――ヨシノ?」
「なに?」
ほんもの?
映像じゃない、温かい――。
「ヨシノ」
「ほら、起きろって。下に待たせてるんだ。フィリップが煩いんだよ。顔見せてやれよ。俺はあいつのこと面倒臭くて嫌いなんだ、って知ってるだろ」
本物の吉野だ。早く、早くしなければ――。
アレンは慌てて飛び起きた。ぼんやりした頭に少しでも血を巡らそうと顔を擦る。急がなければ、この吉野もまたすぐに消えてしまいそうで、気が気じゃない。まずすることは? 誰が来ているんだっけ――。そうか、着替えなきゃ――。
焦り過ぎたのか、アレンはベッドから下りるなりつんのめる。吉野がすかさず腕を掴んで支えてくれた。
「お前、相変わらずどんくせぇの。それとも眩暈? それなら無理しなくていいぞ。あいつらにはそう言っとくからさ」
「……大丈夫」
しっかりしろ!
自分自身を叱咤しながら、アレンはにっこりと頬笑んでみせる。吉野がわざわざ出向くほどの用事を、自分の体調ごときで反故にするわけにはいかない。だが、ふいに気にかかってベッドを振り返った。
「あれは――、兄みたいな、人工知能のきみなの?」
そこで猫のように丸くなって寝ている、白いアラブ服の吉野に目をやる。
「うん。人工知能つっても、ほとんど自分で動かしてるけどな。だから、俺が触れないときは寝てばっか。ヘンリーのスペアみたいには優秀じゃないんだ。まだまだ実験段階だよ」
吉野は自嘲的な笑みを浮かべて寝転がる自分を見ている。この二人の吉野を、アレンは不思議な気分で眺めていた。
この部屋から一歩離れることさえ疎ましく思うほど執着していた吉野は、アレンの知らぬ間に彼自身の映像から、人工的にプログラムされた映像にすり替わっていたのだ。そのことに、自分はなんとなく気がついていたような気がする。
あの吉野は優しかったから――。
本当の吉野は口煩い。何度言っても、アレンの髪をくしゃくしゃ撫でるのを止めない。こんなふうに、いつも傍にはいてくれない。けれど――、それが吉野なのだ。
本物の吉野を目にした今、もう、あんな影などいらない、とアレンは深く納得していた。もう影では満足できない。この差を目の当たりにしてしまっては。たとえ、いつも傍にいてくれることはなくても、瞬間、瞬間に、本物の吉野はアレンを生命で満たしてくれる。こんこんと湧きでる活力をアレンは内側に感じている。
生きている自分を。これまで、そうであったように――。
吉野を前にする度に、アレンは生を実感する。その度に生き返るのだ。
「おい、ほら、ぼーとすんなよ! 行くの、それとも寝とくの?」
「え? あ、うん。行く。すぐ着替えるから」
幸せなのだ、と初めてアレンは実感していた。これが幸せというものなのだ、と。
吉野が生きて、呼吸して、こうして存在してくれていることが――。
もう、それだけでいい、とアレンは確信したのだった。
それで充分だ、と。
ドレッシング・ルームから出てきたアレンは、見違えるほどすっきりした顔をしていた。
「なんだ、やっぱ低血圧なだけなんだな、お前」
「そうだね。マーカスさんにお茶をもらうよ。しっかり目が覚めるように」
映像越しに見ていたこの数日間はなんだったのか、というほどに、アレンは艶やかに微笑んでいる。誰をも魅了してきた天使の微笑で。
吉野はほっとしたように笑って、アレンの髪をくしゃりと撫でた。
「ほら、行くぞ。お前、あのガキをうまいこと宥めてくれよ。あの武闘派にはまいってるんだ。戦争でもおっ始めかねない勢いでさ、いきり立ってるんだ!」
「武闘派って、ド・パルデュのこと?」
「あいつ以外に誰がいるってんだよ」
「久しぶりだな。卒業セレモニー以来だ」
「あいつの方はちっとも久しぶりじゃなさそうだけどな。ストーカーだしな」
「身も蓋もない言い方だね。警護してくれてるのに――」
吉野と肩を並べ軽口を交わしながら、アレンは廊下を渡り居間へ向かった。脳内で目まぐるしく思考しながら。重く立ち込めていた霧は晴れ、個々の状況を思い描くことができていたのだ。なによりも、朧だった自分の地面を踏みしめて歩いているのだと、彼は全身で感じていた。
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