胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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 たとえクリスやフレデリックであっても、今は逢いたくない。この部屋から出たくない――。

 そんな想いが、ベッドの上で膝を抱えて丸まっているアレンの身体を鉛のように重く感じさせ、その動作を子どもの操るマリオネットのように緩慢で、ぎこちないものにさせている。兄からの連絡とあれば、無視することも断ることもできない。それもメールではなく、わざわざ執事のマーカスから伝えられた伝言なのだ。

 友人たちが、わざわざ心配して来てくれるのに。その気持ちさえ疎ましく思う、今の自分の心情が恥ずかしい。逢いたくないのではないのだ。気持ちは嬉しい。ただ、ここにいたいだけで――。
 それなら、この部屋へ来てもらえばいいじゃないか、と無邪気な囁きが、すでに何度も彼の脳裏を過っている。その度にアレンは何度も首を強く振っていた。

 誰であれ、の部屋に入れるわけにはいかない、と。

 デヴィッド卿は仕方がない。彼は吉野の意志で来たのだから。飛鳥さんもかまわない。吉野ならそう望むから。でも……。

 白く澱む湿気を帯びた思考に、息が詰まる。

 それに、この部屋にはアーカシャーの最先端の企業秘密が置かれているのだから――。飛鳥さんが自分のために掛けてくれた空間をつなぐ魔法だ。兄と、彼の夢の結晶。吉野につなげてくれた――。

 誰にも、触れさせるわけにはいかない、決して。

 ようやく決心をつけてアレンはベッドからのろのろと降り、きっちりと天蓋カーテンを閉めた。まるで砂漠に張られたテントのような白。今のアレンにとって何よりも大切な魔法の繭玉だ。

 名残惜しそうにカーテンをくしゃりとひと握りして、隣接されたシャワー室へと向かう。




 アレンが居間へ続く扉を開けると、そこで待っていたのはフレデリックとクリス――、ではなくケネス・アボットだった。マーカスが言い違えたのではなく、自分が「ご友人」を勝手にクリスたちだと思いこんでいたのだと気づくまで、アレンはぼんやりとその場に佇んだままだった。

「アレン、今回は申し訳ないことになってしまって、すまなかったね。僕たちの手落ちだったと反省している」

 ケネスがおもむろにソファーから立ちあがる。アレンは、はっと我に返って「いいえ」と慌てて頭を振り、小走りで彼に駆け寄った。

「僕の謝罪を受け入れてもらえるかな?」

 控えめに出された右手を、アレンは両手で包むように握り返した。

 この人のせいではない。そのくらいのことはアレンにだって解っている。全ては自分の浅慮ゆえだ、とアレンは自分の方こそ申し訳なさで赤面する。セドリックとのセッティングをしてくれただけのこの人に、どんな責任があるというのだ。話し合い自体は、彼のおかげでとてもスムーズに進んだのだから、と今さらの感謝と、自責の波に呑まれそうに揺れる。

 そんな動揺のせいなのか、浮かんでくる感情の渦から遊離して、月光のように冷たい、と噂されていたかつての寮長の金色の瞳に、いつしかアレンはぼんやりと見入っていた。

 歴代の寮長の中でも最も規律に煩く、厳しく、恐れられていた彼のことが、アレンはなぜか怖くはなかった。
 彼の細い銀髪が揺れ、振り返って自分に笑いかけてくれる度に、淡く優しい月光を浴びているような気分になった。彼はベートーヴェンではなく、ドビュッシーの「月の光」だ、と。はにかみながら自然に微笑み返すことができていた。
 そんな印象とは裏腹に、規則破りを繰り返す吉野と彼の掛け合いを、コントでも聞いているように笑いを抑えながらいつも見ていた。吉野自身が、ぼやきながらも彼とのそんな関係を面白がっていたことを知っていたからかもしれない。
 そして、この長身の元寮長、生徒総監でもあった彼が、いつもわずかに足を引きずるように歩いていたことも、長時間立っているとゆるゆると蒼褪めていく面のことも、まったく隠そうとせず自然に晒していたことに、羨望をも覚えていたのだ。


「座らせてもらってもいいかな?」

 またふわふわと自分の思考に嵌り込んでしまっていたアレンに、柔らかな声がかかる。

「あ、すみません!」と、アレンは焦って握っていた手を離し、ぱたぱたと振る。


 マーカスがお茶を運んできたのを機に、アレンもケネスの向かいに腰を下ろした。優雅に微笑み、マーカスと談笑している彼のもつ空気は、やはり静かでしめやかで、アレンを圧迫したりしない。このケネス・アボットが、あのセドリックの友人だということが信じられないほどで。
 ふと、アレンは訝しんだ。まさか本当に自分の謝罪のためにだけ、わざわざオックスフォードから来てくれたわけではあるまい、と。
 しゃんと背筋に力を入れ、アレンは眼前のケネスを見据えた。

「それで、ご用件は?」

 
 ケネスが自分に謝る理由などないのだ。確かな理由をもつのはただ一人、あの男だけなのだから。そう、セドリックの名代として彼はここにいる、という当然の事実にアレンはようやく思い至ったのだった。



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