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九章
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アレンを励ますために良かれと成した企ては失敗だった、と落ち込み、浮上できないままの飛鳥を研究所まで送り届けると、デヴィッドはその足でヘンリーの執務室を訪れた。
「アスカは?」
「ちゃんときみの秘書に渡してきたよ」
執務机に向かう、手にした書類から顔をあげることさえしないヘンリーが開口一番呟いた質問に、デヴィッドはつい苦笑を漏らしていた。彼の心を占めるのは、こんな最中でさえ彼だけなのか、と解ってはいても淋しさが過る。ヘンリーが少しでも、家族としてアレンと接してやっていれば、彼の吉野依存もここまで酷くなることもなかったのではないか。そんな疑念に絡めとられそうになる。
そうではないと、デヴィッドは、ドサリと応接セットに腰を下ろし、額にかかる巻き毛を軽やかに振った。自分はこの重苦しい想いを、誰かに引き取ってもらいたいだけなのだ。これまでそうしてきたように。ヘンリーに頼り、甘えて軽くなりたいだけ。本来、自分とてアレンに偉そうに説教できるような生き方なんてしてきていないのだ。
「それであの子は、少しは落ち着いたの?」
書類を通り越して自分を見つめる感情の読めないセレストブルーに、デヴィッドは重い、不快なわだかまりが溶けるような安堵感を覚えながら、微笑を返した。自分が言いだすまでヘンリーが何も訊かなかったら、本気で怒りだしそうな衝動を直前まで感じていたのだ。
「大丈夫だよ、アスカちゃんは考えすぎ! アレンは映像にすぎなくてもヨシノに逢えて舞いあがって、そっちの方に夢中だったよ。なんだか可愛くてねぇ、少し釘を刺してきたよ」
アレンの想いに引き摺られ、自分までもが泣きそうになっていた事などおくびにも出さずに、デヴィッドはあくまで朗らかにヘンリーに告げた。
「ルベリーニのこと? 僕の方にも連絡があったよ」
ヘンリーはパサリと書類を机に置き、息を継ぐ。どこか投げ遣りで、面倒くさそうな倦怠感が漂っている。
「フィリップから?」
「いや、本人から。僕の希望はあるかって」
「怖いねぇ――。銃殺と刺殺、どっちがいいか、って?」
デヴィッドはケタケタ笑いながら、大袈裟な身振りで反り返る。実際、笑いごとではないのに、と心の中で呟きながら。だからこそ、笑い飛ばしてしまいたい緊張を切に感じていたのだ。
「まさか! いくら彼でも、セディ相手にそこまで無茶はしないさ」
ヘンリーは軽く肩をすくめてみせた。
そう、ロレンツォなら。だが、フィリップは違う。
二人は同時に同じことを考えていた。
デヴィッドは、フランスでしばらく共に過ごした折の、彼の一風変わった性格とアレンへの異常なほどの崇拝ぶりを、ぞくりと背筋に寒いものを感じながら。
そしてヘンリーも。口では否定しながらも、デヴィッドが今この名を出した理由を反芻するように噛みしめている。
一見無邪気に見える吉野に通じる残酷さ。そんなものを、あの愛らしいけれど、どこか妖艶さすら漂わせるフランスの少年はもっているのだ。そして、ルベリーニ一族特有の忠誠心。だが、何をしでかすか見当もつかないところが、吉野とは違う。吉野は子どもっぽく無茶苦茶なように見せながら、内実計算高く理路整然と最大利得を掴みにいく。その目指す場所を予想できないわけではない。
「利益よりも何よりも、面子か――」
ヘンリーは苦笑を湛えて呟いた。
「血は流すな、とは伝えておいたよ。あの子もそんなことまでは望んでいないってね」
「きみは? どうするつもりなの?」
「何も」
平然と応えるヘンリーに、デヴィッドは瞬間険のある瞳を光らせた。
「ヨシノがもう動いているよ。SNSを見てないの? あの子の大衆の煽り方には、手慣れた周到さを感じるよ。見習うべきかな?」
冗談めかして笑うヘンリーに気を削がれ、デヴィッドは唇を皮肉げにゆがめてポケットのTSを起動した。
映しだされたページを自動でスクロールさせながら、ざっくりと目で追う。
「なるほどね」
元エリオットの同窓生が口を揃えて、この記事は酷い中傷だとアレンを弁護している。組織化されたアレンの親衛隊が彼の身辺を守っていたのだから、そんな事実は有りようがない、と。そしてそれに輪をかけるように、一般大衆のアレンのファンが口々に中傷記事に怒りを表明しているのだ。そしてそれは、清廉な貴公子であり、ラグビーの名選手でもあったセドリック・ブラッドリーを擁護するものでもあった。
「あの子はイメージダウンを気にしていたみたいだけど、とんでもないよ。ヨシノはこんなスキャンダルさえ逆手に取って、アレンを伝説的な存在へと祀りあげようとしている。逆にあの子が可哀想になるよ。人と交われない天使を今以上に神格化して、ヨシノはあの子をどうしたいのだろうね?」
どこともなく視線を漂わせて喋るヘンリーは、脳裏に誰を思い描いているのか。吉野ではなく、彼自身のことを言っているように思え、デヴィッドは思わず彼から視線を逸らしていた。
「それで、セディはどうしてるの?」
「米国。相変わらずキャルと一緒だよ。あの思慮のなさは、どうにも変わらないようだね」
デヴィッドはなんとも言えない面持ちで、唇を歪めていた。記憶の中のセドリックと、アレンに対してあんな事件を起こした彼、そして今、キャルと行動を共にしているという彼が繋がらないのだ。それぞれが、まるで別人のようで――。取り沙汰されている事件にしろ、彼が日本に留学中に起こったものだ。デヴィッドは帰国してから兄の口から聞かされ知った。時間が置かれた分だけ、そこに渦巻いていた彼らの心情など遠く想像も及ばない。
アレンの傷の深さも、眼前にいるヘンリーが、本当はどう考えているかも。
アレンには、「自分とて同じだ」と言いはしたが、同じでないことはデヴィッド自身が一番知っている。自分自身は無意識の中に埋めた記憶に留められないほどのつらい体験、そんなものとアレンはずっと闘ってきたのだから。
「今日の会議は欠席するよ! ほっとけないからねぇ、そろそろ帰るよ!」と、デヴィッドは気持ちを切り替えるように立ち上がった。
「ああ、それには及ばない。あの子の友人が訪ねて来ているはずだから。僕の方に直接連絡をもらったんだ」
むしろきみはいない方がいい、と笑うヘンリーに、デヴィッドも、それなら、と、むしろほっとしたような笑みを浮かべていた。
「アスカは?」
「ちゃんときみの秘書に渡してきたよ」
執務机に向かう、手にした書類から顔をあげることさえしないヘンリーが開口一番呟いた質問に、デヴィッドはつい苦笑を漏らしていた。彼の心を占めるのは、こんな最中でさえ彼だけなのか、と解ってはいても淋しさが過る。ヘンリーが少しでも、家族としてアレンと接してやっていれば、彼の吉野依存もここまで酷くなることもなかったのではないか。そんな疑念に絡めとられそうになる。
そうではないと、デヴィッドは、ドサリと応接セットに腰を下ろし、額にかかる巻き毛を軽やかに振った。自分はこの重苦しい想いを、誰かに引き取ってもらいたいだけなのだ。これまでそうしてきたように。ヘンリーに頼り、甘えて軽くなりたいだけ。本来、自分とてアレンに偉そうに説教できるような生き方なんてしてきていないのだ。
「それであの子は、少しは落ち着いたの?」
書類を通り越して自分を見つめる感情の読めないセレストブルーに、デヴィッドは重い、不快なわだかまりが溶けるような安堵感を覚えながら、微笑を返した。自分が言いだすまでヘンリーが何も訊かなかったら、本気で怒りだしそうな衝動を直前まで感じていたのだ。
「大丈夫だよ、アスカちゃんは考えすぎ! アレンは映像にすぎなくてもヨシノに逢えて舞いあがって、そっちの方に夢中だったよ。なんだか可愛くてねぇ、少し釘を刺してきたよ」
アレンの想いに引き摺られ、自分までもが泣きそうになっていた事などおくびにも出さずに、デヴィッドはあくまで朗らかにヘンリーに告げた。
「ルベリーニのこと? 僕の方にも連絡があったよ」
ヘンリーはパサリと書類を机に置き、息を継ぐ。どこか投げ遣りで、面倒くさそうな倦怠感が漂っている。
「フィリップから?」
「いや、本人から。僕の希望はあるかって」
「怖いねぇ――。銃殺と刺殺、どっちがいいか、って?」
デヴィッドはケタケタ笑いながら、大袈裟な身振りで反り返る。実際、笑いごとではないのに、と心の中で呟きながら。だからこそ、笑い飛ばしてしまいたい緊張を切に感じていたのだ。
「まさか! いくら彼でも、セディ相手にそこまで無茶はしないさ」
ヘンリーは軽く肩をすくめてみせた。
そう、ロレンツォなら。だが、フィリップは違う。
二人は同時に同じことを考えていた。
デヴィッドは、フランスでしばらく共に過ごした折の、彼の一風変わった性格とアレンへの異常なほどの崇拝ぶりを、ぞくりと背筋に寒いものを感じながら。
そしてヘンリーも。口では否定しながらも、デヴィッドが今この名を出した理由を反芻するように噛みしめている。
一見無邪気に見える吉野に通じる残酷さ。そんなものを、あの愛らしいけれど、どこか妖艶さすら漂わせるフランスの少年はもっているのだ。そして、ルベリーニ一族特有の忠誠心。だが、何をしでかすか見当もつかないところが、吉野とは違う。吉野は子どもっぽく無茶苦茶なように見せながら、内実計算高く理路整然と最大利得を掴みにいく。その目指す場所を予想できないわけではない。
「利益よりも何よりも、面子か――」
ヘンリーは苦笑を湛えて呟いた。
「血は流すな、とは伝えておいたよ。あの子もそんなことまでは望んでいないってね」
「きみは? どうするつもりなの?」
「何も」
平然と応えるヘンリーに、デヴィッドは瞬間険のある瞳を光らせた。
「ヨシノがもう動いているよ。SNSを見てないの? あの子の大衆の煽り方には、手慣れた周到さを感じるよ。見習うべきかな?」
冗談めかして笑うヘンリーに気を削がれ、デヴィッドは唇を皮肉げにゆがめてポケットのTSを起動した。
映しだされたページを自動でスクロールさせながら、ざっくりと目で追う。
「なるほどね」
元エリオットの同窓生が口を揃えて、この記事は酷い中傷だとアレンを弁護している。組織化されたアレンの親衛隊が彼の身辺を守っていたのだから、そんな事実は有りようがない、と。そしてそれに輪をかけるように、一般大衆のアレンのファンが口々に中傷記事に怒りを表明しているのだ。そしてそれは、清廉な貴公子であり、ラグビーの名選手でもあったセドリック・ブラッドリーを擁護するものでもあった。
「あの子はイメージダウンを気にしていたみたいだけど、とんでもないよ。ヨシノはこんなスキャンダルさえ逆手に取って、アレンを伝説的な存在へと祀りあげようとしている。逆にあの子が可哀想になるよ。人と交われない天使を今以上に神格化して、ヨシノはあの子をどうしたいのだろうね?」
どこともなく視線を漂わせて喋るヘンリーは、脳裏に誰を思い描いているのか。吉野ではなく、彼自身のことを言っているように思え、デヴィッドは思わず彼から視線を逸らしていた。
「それで、セディはどうしてるの?」
「米国。相変わらずキャルと一緒だよ。あの思慮のなさは、どうにも変わらないようだね」
デヴィッドはなんとも言えない面持ちで、唇を歪めていた。記憶の中のセドリックと、アレンに対してあんな事件を起こした彼、そして今、キャルと行動を共にしているという彼が繋がらないのだ。それぞれが、まるで別人のようで――。取り沙汰されている事件にしろ、彼が日本に留学中に起こったものだ。デヴィッドは帰国してから兄の口から聞かされ知った。時間が置かれた分だけ、そこに渦巻いていた彼らの心情など遠く想像も及ばない。
アレンの傷の深さも、眼前にいるヘンリーが、本当はどう考えているかも。
アレンには、「自分とて同じだ」と言いはしたが、同じでないことはデヴィッド自身が一番知っている。自分自身は無意識の中に埋めた記憶に留められないほどのつらい体験、そんなものとアレンはずっと闘ってきたのだから。
「今日の会議は欠席するよ! ほっとけないからねぇ、そろそろ帰るよ!」と、デヴィッドは気持ちを切り替えるように立ち上がった。
「ああ、それには及ばない。あの子の友人が訪ねて来ているはずだから。僕の方に直接連絡をもらったんだ」
むしろきみはいない方がいい、と笑うヘンリーに、デヴィッドも、それなら、と、むしろほっとしたような笑みを浮かべていた。
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