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九章
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「はい、どうぞ」と言う声に応じて、デヴィッドはアレンの部屋のドアを開けた。片手には朝食のトレーをのせている。だが部屋の中に人の気配はない。ベッドの天蓋は閉じられたままだ。不審に思い、もう一度アレンの名を呼んだ。
「はい」
デヴィッドは勢いよく、声のした天蓋カーテンをはぐって開けた。
「起きたばかり? それとも起き上がれないの?」
ベッドヘッドに身を持たせ、熱を持ったように上気しているアレンの薄紅色の頬を一瞥するなり、デヴィッドはかすかに眉をよせる。
「はい?」
「砂漠じゃないんだ」
「ヨシノの部屋です」
天蓋の内側は、飛鳥に聴いたような砂漠ではなくなっていた。初めに設定した背景から吉野が変更したのだろう。白いシーツはアレンのベッドと変わりなく見えるが、白大理石の壁がある。凝った細工の窓。薄暗く静謐な空気の温度が違う。それにしても、この部屋と同じように個性を感じさせるものが何もない。
「ヨシノ、いるの?」
「いいえ、今は――」
「ああ、向こうは昼どきだね。そしてきみは朝食の時間だ」
ふわりと持ち上がる長い睫毛に縁どられた瞳が、やっとデヴィッドに向けられた。「あの――、」と言いかけるアレンの顔前に、デヴィッドは人差し指を立てる。
「ノーは受けつけないよ。あまり食べてないんだって? 皆、心配してるよ」
「ここで食べてもいいですか?」
「テーブルまで移動するのもおっくう?」
「ヨシノが戻ってくるかもしれないから――」
「来ないよ。あの子は今、アスカちゃんと話してるからね。そして僕は、ヨシノに頼まれたからここにこうしているわけ。解った?」
「ヨシノはもう――、僕に逢いにくるのは嫌だってこと……、ですか?」
「そうじゃないよ、ベッドから出て、ちゃんと食べろ、ってこと。あの子の口からそう言われたでしょ!」
あ――、と、アレンはきょとんと首を傾げ、継いでこくんと頷いた。「はい」と答えて緩慢にベッドから足を下ろす。
「紅茶が冷めちゃったかな?」
デヴィッドは、ポットから頼りない湯気を放つ紅茶を注ぎ入れながらぼやいている。
「温いくらいで――」
「ぬるま湯に浸かっているみたいで、気持ちよかった?」
「紅茶の話ですよね」
「ヨシノだよ」
「え――?」
「寝たんだろ、あの子と」
ぽかんと口を開けたまま凍りついたアレンをしかめ面で凝視したまま、デヴィッドは思い切り大袈裟にため息をつく。
「アスカちゃんも、ヨシノも、どこか抜けてるっていうか、根本的なことを解ってないっていうか――。ね! きみは、解ってるんだろうね?」
氷が解けるように、アレンはみるみる紅くなる。天蓋をめくってその顔を見つけたときと同じように。そんな彼を見つめたまま、デヴィッドはますます渋面になる。
寝た、といってもたかだか同じベッドで、ということにすぎないのにこの反応だ。どこまで初心なんだ、とため息をつきたくなる自分が逆に擦れているみたいだ。
吉野は当たり前にアレンを心配しているのだ。友人として。だからぽっかりと心に穴の空いてしまっているアレンをひとりにするのを憐れんで、一晩中そばにいた。通信回線をつないだまま、アレンと同じベッドで眠りこけた。その話を飛鳥とともに吉野から聴いたデヴィッドは、呆れ返って文句のひとつも言う気さえ失った。
自分に恋焦がれている相手の横で無防備に寝顔を晒すくせに、決して触れ合うことはできないなんて――。いったいどういう神経の持ち主が、こんな鬼畜なまねができるのか。そしてアレンは、そんな吉野に腹を立てるどころか、そのあまりの無邪気さに胸を高鳴らせ、恐らくは一晩中、その寝顔を見つめて夜を過ごしたに違いないのだ。どこまで深みにはまれば目が覚めるのか。そんなことを今さら言ってなんになる、と頭では解っているのに、黙って見ていられない自分自身に手を焼いているのは、デヴィッドも同じだった。
「それできみは、これからもそうやってなにかあるたびに、ヨシノに泣きついて、甘えてやりすごすの?」
デヴィッドの言葉は、的確にアレンの心を抉る。みるみるうちに蒼褪めていくその面から目を逸らすことなく、デヴィッドは唇を引き結んだ。
そうならないために、アレンはこれまで必要以上に気を張って、背伸びして、吉野に歩調を合わせようとひた走ってきたのだ。そんな彼の想いをデヴィッドだってもちろん知っている。切り裂かれる様な想いを抱えながら自分を殺してきた彼の努力を、ずっと傍で見てきたのだから。
「ベッドの上で待っていればあの子が来てくれるからって、ずっと天蓋の中に籠って暮らすの?」
アレンは俯いたまま、唇を噛んでいた。
「それも、本物のあの子に逢いにいくでもなく、通信映像にすぎないって解っているのに」
追い打ちをかける自分がまるで悪役にでもなったようで苦々しい。こんな損な役回りを進んでやっている自分は馬鹿なのではないか、とそんな想いを過らせながらも、デヴィッドの口調はますます冷えこんでいた。
「たとえ影でも、触れられなくても、逢いたいと思ってしまうんです」
とつとつと消え入りそうな声音で呟くアレンに、「解るよ」とそう言ってあげられれば、どれほど心安いことか。だがデヴィッドは、もう一度ぐっと歯を食い縛り、継いで大きく息を吸った。
「ヨシノの負い目につけ込むんじゃないよ。そんな甘えは、僕は許さないよ」
「――ヨシノの負い目?」
不思議そうにアレンは呟いた。吉野に助けてもらったり、迷惑をかけてしまったりしていたのは、常に自分の方なのだ。吉野が自分に負い目を感じることなどなにもない。答えを求め、素直に向けられたアレンの澄んだセレストブルーを、デヴィッドはあくまで毅然と見つめ返した。
「ヨシノは、エリオットできみを助けることができなかったことに、今でも負い目を感じてる。だから、きみを甘やかす。ヘンリーも、アスカちゃんもだ。きみは、今までどれほど彼らに支えられてきたのか、もうそろそろ知らなきゃいけない」
デヴィッドは、自分の言葉がもたらすアレンへの影響を、めまぐるしく吟味しながら、慎重に言葉を選んで話していた。
心の内側に籠ろうとするアレンを、もう一度、こちら側に取り戻すために。これは避けては通れない道なのだ、と。本当はすべて放りだして、優しい言葉でアレンを包んでしまいたいのに。そんな自分自身を叱咤しながら――。
「はい」
デヴィッドは勢いよく、声のした天蓋カーテンをはぐって開けた。
「起きたばかり? それとも起き上がれないの?」
ベッドヘッドに身を持たせ、熱を持ったように上気しているアレンの薄紅色の頬を一瞥するなり、デヴィッドはかすかに眉をよせる。
「はい?」
「砂漠じゃないんだ」
「ヨシノの部屋です」
天蓋の内側は、飛鳥に聴いたような砂漠ではなくなっていた。初めに設定した背景から吉野が変更したのだろう。白いシーツはアレンのベッドと変わりなく見えるが、白大理石の壁がある。凝った細工の窓。薄暗く静謐な空気の温度が違う。それにしても、この部屋と同じように個性を感じさせるものが何もない。
「ヨシノ、いるの?」
「いいえ、今は――」
「ああ、向こうは昼どきだね。そしてきみは朝食の時間だ」
ふわりと持ち上がる長い睫毛に縁どられた瞳が、やっとデヴィッドに向けられた。「あの――、」と言いかけるアレンの顔前に、デヴィッドは人差し指を立てる。
「ノーは受けつけないよ。あまり食べてないんだって? 皆、心配してるよ」
「ここで食べてもいいですか?」
「テーブルまで移動するのもおっくう?」
「ヨシノが戻ってくるかもしれないから――」
「来ないよ。あの子は今、アスカちゃんと話してるからね。そして僕は、ヨシノに頼まれたからここにこうしているわけ。解った?」
「ヨシノはもう――、僕に逢いにくるのは嫌だってこと……、ですか?」
「そうじゃないよ、ベッドから出て、ちゃんと食べろ、ってこと。あの子の口からそう言われたでしょ!」
あ――、と、アレンはきょとんと首を傾げ、継いでこくんと頷いた。「はい」と答えて緩慢にベッドから足を下ろす。
「紅茶が冷めちゃったかな?」
デヴィッドは、ポットから頼りない湯気を放つ紅茶を注ぎ入れながらぼやいている。
「温いくらいで――」
「ぬるま湯に浸かっているみたいで、気持ちよかった?」
「紅茶の話ですよね」
「ヨシノだよ」
「え――?」
「寝たんだろ、あの子と」
ぽかんと口を開けたまま凍りついたアレンをしかめ面で凝視したまま、デヴィッドは思い切り大袈裟にため息をつく。
「アスカちゃんも、ヨシノも、どこか抜けてるっていうか、根本的なことを解ってないっていうか――。ね! きみは、解ってるんだろうね?」
氷が解けるように、アレンはみるみる紅くなる。天蓋をめくってその顔を見つけたときと同じように。そんな彼を見つめたまま、デヴィッドはますます渋面になる。
寝た、といってもたかだか同じベッドで、ということにすぎないのにこの反応だ。どこまで初心なんだ、とため息をつきたくなる自分が逆に擦れているみたいだ。
吉野は当たり前にアレンを心配しているのだ。友人として。だからぽっかりと心に穴の空いてしまっているアレンをひとりにするのを憐れんで、一晩中そばにいた。通信回線をつないだまま、アレンと同じベッドで眠りこけた。その話を飛鳥とともに吉野から聴いたデヴィッドは、呆れ返って文句のひとつも言う気さえ失った。
自分に恋焦がれている相手の横で無防備に寝顔を晒すくせに、決して触れ合うことはできないなんて――。いったいどういう神経の持ち主が、こんな鬼畜なまねができるのか。そしてアレンは、そんな吉野に腹を立てるどころか、そのあまりの無邪気さに胸を高鳴らせ、恐らくは一晩中、その寝顔を見つめて夜を過ごしたに違いないのだ。どこまで深みにはまれば目が覚めるのか。そんなことを今さら言ってなんになる、と頭では解っているのに、黙って見ていられない自分自身に手を焼いているのは、デヴィッドも同じだった。
「それできみは、これからもそうやってなにかあるたびに、ヨシノに泣きついて、甘えてやりすごすの?」
デヴィッドの言葉は、的確にアレンの心を抉る。みるみるうちに蒼褪めていくその面から目を逸らすことなく、デヴィッドは唇を引き結んだ。
そうならないために、アレンはこれまで必要以上に気を張って、背伸びして、吉野に歩調を合わせようとひた走ってきたのだ。そんな彼の想いをデヴィッドだってもちろん知っている。切り裂かれる様な想いを抱えながら自分を殺してきた彼の努力を、ずっと傍で見てきたのだから。
「ベッドの上で待っていればあの子が来てくれるからって、ずっと天蓋の中に籠って暮らすの?」
アレンは俯いたまま、唇を噛んでいた。
「それも、本物のあの子に逢いにいくでもなく、通信映像にすぎないって解っているのに」
追い打ちをかける自分がまるで悪役にでもなったようで苦々しい。こんな損な役回りを進んでやっている自分は馬鹿なのではないか、とそんな想いを過らせながらも、デヴィッドの口調はますます冷えこんでいた。
「たとえ影でも、触れられなくても、逢いたいと思ってしまうんです」
とつとつと消え入りそうな声音で呟くアレンに、「解るよ」とそう言ってあげられれば、どれほど心安いことか。だがデヴィッドは、もう一度ぐっと歯を食い縛り、継いで大きく息を吸った。
「ヨシノの負い目につけ込むんじゃないよ。そんな甘えは、僕は許さないよ」
「――ヨシノの負い目?」
不思議そうにアレンは呟いた。吉野に助けてもらったり、迷惑をかけてしまったりしていたのは、常に自分の方なのだ。吉野が自分に負い目を感じることなどなにもない。答えを求め、素直に向けられたアレンの澄んだセレストブルーを、デヴィッドはあくまで毅然と見つめ返した。
「ヨシノは、エリオットできみを助けることができなかったことに、今でも負い目を感じてる。だから、きみを甘やかす。ヘンリーも、アスカちゃんもだ。きみは、今までどれほど彼らに支えられてきたのか、もうそろそろ知らなきゃいけない」
デヴィッドは、自分の言葉がもたらすアレンへの影響を、めまぐるしく吟味しながら、慎重に言葉を選んで話していた。
心の内側に籠ろうとするアレンを、もう一度、こちら側に取り戻すために。これは避けては通れない道なのだ、と。本当はすべて放りだして、優しい言葉でアレンを包んでしまいたいのに。そんな自分自身を叱咤しながら――。
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