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九章
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自室の前の廊下で、マクレガーとアレンの知らぬ顔が談笑している。この館に名前も判らぬような誰かを迎えることはこれまでなかったのに。アレンは緊張からつい身を強張らせ、すっと視線を伏せていた。
ヘンリーの秘書である彼と一緒にいるということは、会社の人間なのだろう。こんなふうに無視していい相手ではないはずだ、と心の内では思うのだが、身体も声も思う様に操れないまま、焦燥から拳を握りしめている。
「こうしてお目にかかるのは初めてですね。あなたのTS映像には毎日のようにお逢いしてるんですがね。――初めまして、開発部のトーマス・ボブソンです」
朗らかな笑顔と明るく気安い調子でさし伸ばされた手を、アレンはぎくしゃくと握り返した。温かな手だ。握りしめるその強さと、ふわりと離れていく潔さから、言葉に出さずとも気遣ってくれている、そんな彼の実直な内面が感じられる。
「動作は問題ありませんでしたよ。何かありましたら呼んで下さい。下で待機してますから」
「メアリーがヴィクトリアンケーキを焼いてくれてるよ。あなたが来られる、と話しておいたからね」
「トム、お茶にしましょう!」
ヘンリーの声に被さって、駆け寄ったサラが無造作に彼の腕を掴み急き立てている。彼女のあまりの警戒心のない親しげな素振りに、アレンは初めてその男にまじまじと目を向ける。
歳の頃は三十代半ばくらいだろうか――。取り立てて特徴のない、栗色の髪に同じ色の瞳の朴訥そうな男。薄青色のつなぎの胸元には、アーカシャーのロゴマークが入っている。その彼の横で、飛鳥とヘンリーはマクレガーも交えて、アレンには解らない専門用語や数値の真面目な話をしている。
ぽつりと取り残されたような気分に陥りそうになった時、飛鳥が彼の名を呼んだ。
「さぁ、アレン」
「ごゆっくり――、っていうのも変ですが、後で感想を聴かせてください」
トーマスは人懐っこい笑みを浮かべて軽く会釈する。
これだけの人数を自室に招くのか、と嫌悪感にも似た感情がアレンの胸には湧きあがっていたのだが、実際、部屋に足を踏みいれたのは飛鳥ひとりだった。
ぐるりと見渡した彼の部屋自体、手を入れた、というわりに何も変わった様子はない。家具の位置も、何も。もともと物の少ない部屋だ。何かを加えればすぐに判るはずなのに。
「アレン、横になった方がいいよ。顔色が悪い。無理しないで」
確かにそんな自覚のあったアレンは、飛鳥の忠告に素直に頷いてベッドに腰かけた。
「なんだ、思ったより平気そうじゃん」
懐かしい声に息が止まった。
一瞬視界がぼやけたかと思うと、地平線が広がっていた。その大地にかかる夕陽が大きすぎて、逆光で吉野の顔がよく見えない。
一面が赤く、赤く染まるこんな砂漠の中では――。
アレンは手に触れていたシーツを、くしゃりと掴んでいた。これが自分の都合よく作りだした白昼夢ではないことだけは解っていた。ここに、飛鳥がいるのだから。
「本物――?」
「本物の俺だよ。録画じゃない」
ふわりと手を伸ばすと、沈む膝小僧がここは自分のベッドの上だと教えてくれる。当然のように、アレンの手は吉野の身体を突き抜けている。
「ほら、落ち着け。少し下がれよ。お前の顔が見えない」
兄の立体映像に触れた時のようにピリピリと痺れがくるわけでもなく、吉野の映像が揺れるわけでもない。眼前にいるのに触れることのできない相手を、アレンは大きな目をさらに見開いて凝視した。何も考えられないまま、滲みでた涙は下瞼に溜まったままだ。
「おい飛鳥、これどうなってるんだ? どこなんだ? コンサバトリーじゃないのか?」
いつの間にか閉じられていた天蓋カーテンから、飛鳥の顔がひょっこり覗く。
「アレンの部屋だよ。お前からはどう見える? こっちで選んだ背景は綺麗に映ってるのかな?」
「部屋? 部屋のどこ?」
「ベッドの上だよ。天蓋のあるアレンのベッド」
「あ、なるほど。で、どういう仕組み?」
「お前でも判らないんだ?」
揶揄うように飛鳥の声が弾んでいる。アレンは何度もその長い金色の睫毛を瞬かせ、やっと零れ落ちた涙を手のひらで拭いとった。
「アスカさん――」
縋るような覇気のないアレンの声に振り返り、飛鳥はきらきらと自信に満ちた瞳を向けた。
「ゆっくり吉野と話したいかと思ってさ。仕事で使うコンサバトリーじゃ、きみは遠慮するだろ? ネクストの空中画面じゃ現実味がないし、まだこれくらいの狭い空間じゃないと無理なんだけどさ――」
これは恋なのだ――。
飛鳥の説明をどこか意識の遠くで捉えながら、落雷が落ちたように啓示された想いにアレンは支配されていた。もうとっくに終わったと思っていた想いが、堰を切って溢れだしていた。
触れられないということで。目の前にいる吉野に触れることができないという、この一点だけで。誤魔化しようのない焦燥に全身をかきむしられている。
家族のように、兄弟のようにあることができればそれでいい、と。そう信じてきたはずなのに。ここにいる飛鳥が弟を思うように、自分もそうあろうと決めたはずなのに――。
だから、つけ込まれる――。この想いにつけ込まれるのだ。だから上手くいかない。いつもしくじってしまう。吉野の想いに届かない。恋慕の情に目が霞んで――。
吉野、どうすればいい? 僕はどうすればいいんだ?
止めようもなく、ほろほろと涙を流しだしたアレンに、飛鳥は驚いてその背を擦った。だが吉野は、現実は遥かに遠く隔たった砂漠の国にいる吉野には、困り果てた様子で、「おい、泣くなよ。あんなゴシップくらい、どうにでもしてやるよ。気にするんじゃない」とありきたりの、皆が口にしていたのと同じことを、繰り返すことしかできなかった。
ヘンリーの秘書である彼と一緒にいるということは、会社の人間なのだろう。こんなふうに無視していい相手ではないはずだ、と心の内では思うのだが、身体も声も思う様に操れないまま、焦燥から拳を握りしめている。
「こうしてお目にかかるのは初めてですね。あなたのTS映像には毎日のようにお逢いしてるんですがね。――初めまして、開発部のトーマス・ボブソンです」
朗らかな笑顔と明るく気安い調子でさし伸ばされた手を、アレンはぎくしゃくと握り返した。温かな手だ。握りしめるその強さと、ふわりと離れていく潔さから、言葉に出さずとも気遣ってくれている、そんな彼の実直な内面が感じられる。
「動作は問題ありませんでしたよ。何かありましたら呼んで下さい。下で待機してますから」
「メアリーがヴィクトリアンケーキを焼いてくれてるよ。あなたが来られる、と話しておいたからね」
「トム、お茶にしましょう!」
ヘンリーの声に被さって、駆け寄ったサラが無造作に彼の腕を掴み急き立てている。彼女のあまりの警戒心のない親しげな素振りに、アレンは初めてその男にまじまじと目を向ける。
歳の頃は三十代半ばくらいだろうか――。取り立てて特徴のない、栗色の髪に同じ色の瞳の朴訥そうな男。薄青色のつなぎの胸元には、アーカシャーのロゴマークが入っている。その彼の横で、飛鳥とヘンリーはマクレガーも交えて、アレンには解らない専門用語や数値の真面目な話をしている。
ぽつりと取り残されたような気分に陥りそうになった時、飛鳥が彼の名を呼んだ。
「さぁ、アレン」
「ごゆっくり――、っていうのも変ですが、後で感想を聴かせてください」
トーマスは人懐っこい笑みを浮かべて軽く会釈する。
これだけの人数を自室に招くのか、と嫌悪感にも似た感情がアレンの胸には湧きあがっていたのだが、実際、部屋に足を踏みいれたのは飛鳥ひとりだった。
ぐるりと見渡した彼の部屋自体、手を入れた、というわりに何も変わった様子はない。家具の位置も、何も。もともと物の少ない部屋だ。何かを加えればすぐに判るはずなのに。
「アレン、横になった方がいいよ。顔色が悪い。無理しないで」
確かにそんな自覚のあったアレンは、飛鳥の忠告に素直に頷いてベッドに腰かけた。
「なんだ、思ったより平気そうじゃん」
懐かしい声に息が止まった。
一瞬視界がぼやけたかと思うと、地平線が広がっていた。その大地にかかる夕陽が大きすぎて、逆光で吉野の顔がよく見えない。
一面が赤く、赤く染まるこんな砂漠の中では――。
アレンは手に触れていたシーツを、くしゃりと掴んでいた。これが自分の都合よく作りだした白昼夢ではないことだけは解っていた。ここに、飛鳥がいるのだから。
「本物――?」
「本物の俺だよ。録画じゃない」
ふわりと手を伸ばすと、沈む膝小僧がここは自分のベッドの上だと教えてくれる。当然のように、アレンの手は吉野の身体を突き抜けている。
「ほら、落ち着け。少し下がれよ。お前の顔が見えない」
兄の立体映像に触れた時のようにピリピリと痺れがくるわけでもなく、吉野の映像が揺れるわけでもない。眼前にいるのに触れることのできない相手を、アレンは大きな目をさらに見開いて凝視した。何も考えられないまま、滲みでた涙は下瞼に溜まったままだ。
「おい飛鳥、これどうなってるんだ? どこなんだ? コンサバトリーじゃないのか?」
いつの間にか閉じられていた天蓋カーテンから、飛鳥の顔がひょっこり覗く。
「アレンの部屋だよ。お前からはどう見える? こっちで選んだ背景は綺麗に映ってるのかな?」
「部屋? 部屋のどこ?」
「ベッドの上だよ。天蓋のあるアレンのベッド」
「あ、なるほど。で、どういう仕組み?」
「お前でも判らないんだ?」
揶揄うように飛鳥の声が弾んでいる。アレンは何度もその長い金色の睫毛を瞬かせ、やっと零れ落ちた涙を手のひらで拭いとった。
「アスカさん――」
縋るような覇気のないアレンの声に振り返り、飛鳥はきらきらと自信に満ちた瞳を向けた。
「ゆっくり吉野と話したいかと思ってさ。仕事で使うコンサバトリーじゃ、きみは遠慮するだろ? ネクストの空中画面じゃ現実味がないし、まだこれくらいの狭い空間じゃないと無理なんだけどさ――」
これは恋なのだ――。
飛鳥の説明をどこか意識の遠くで捉えながら、落雷が落ちたように啓示された想いにアレンは支配されていた。もうとっくに終わったと思っていた想いが、堰を切って溢れだしていた。
触れられないということで。目の前にいる吉野に触れることができないという、この一点だけで。誤魔化しようのない焦燥に全身をかきむしられている。
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だから、つけ込まれる――。この想いにつけ込まれるのだ。だから上手くいかない。いつもしくじってしまう。吉野の想いに届かない。恋慕の情に目が霞んで――。
吉野、どうすればいい? 僕はどうすればいいんだ?
止めようもなく、ほろほろと涙を流しだしたアレンに、飛鳥は驚いてその背を擦った。だが吉野は、現実は遥かに遠く隔たった砂漠の国にいる吉野には、困り果てた様子で、「おい、泣くなよ。あんなゴシップくらい、どうにでもしてやるよ。気にするんじゃない」とありきたりの、皆が口にしていたのと同じことを、繰り返すことしかできなかった。
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