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九章
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アレンと分かれ、講義を終えて真っすぐにフラットに戻ったフレデリックは、同じく先に戻っていたクリスに声をかけられ、ぱっと顔を輝かせた。
「早いね。今日のサークルは?」
「行かなかった。さっきまで、またヨシノを捉まえてたんだ」
吉野に逢いたがっているのは、自分たちやハワード教授だけではない。クリスの友人は、先輩方も含めてエリオット出身者が多いのだ。その誰もがめったに大学に顔を見せない彼を捉まえ話をしたがっている。教授の研究室前で待ちかまえ、サウードからの迎えの車を待たせたまま、今まで話しこんでいたのだという。
居間のソファーにくたびれた様子でもたれかかり、けれど頬を紅潮させて勢いよく喋り始めたクリスに、フレデリックは口を挟む間もなく、ただただ相槌を打つばかりだ。
ひと通り吉野との会話の内容を話しつくした彼が、ほっともどかしげな息を継いだ時、「そう、そのことできみに訊ねたいことがあるんだ」とフレデリックは、ようやく自身の方へと水を向けた。
「ハロルド寮長のこと。最近お逢いしたって言ってなかったっけ?」
「ああ、うん。オックスフォードでね。演奏会にいらしていた」
懐かしそうに瞳を輝かせ、また堰切って話し始めたクリスの声を右から左へと流しながら、フレデリックは、彼にどこまで話すべきか、あるいは先輩方はどこまでこのスキャンダルについて知っているのか、と思いを巡らせる。
「フレッド?」
半ば上の空で聞いている彼を訝しく思ったクリスが、確かめるように彼を呼んだ。
「何?」
「それで、ハロルド寮長がどうかされたの?」
「ああ、うん。ほら、ニューイヤーパーティーでアボット寮長にお逢いしたからさ、ハロルド寮長はどうされているかな、って思ってさ」
お逢いした――、と言っても、束の間の挨拶を交わした程度だ。ゆっくりと互いの近況を語りあえた訳でもない。
アレンの話では、ベンジャミン・ハロルド、ケネス・アボットの二人の寮長、そしてパトリック・ウェザー監督生代表が幼い頃からセドリック・ブラッドリーとは家ぐるみのつきあいなのだそうだ。フレデリックは学年代表として、他の寮生よりは多少上級生である彼らとかかわりが深かったといえる。吉野ほどではないにしろ――。そう、思い返してみても、それは決して吉野の様な個人的な関係とはいえない。彼ならばきっと、もっとたやすくこのうちの誰かを通じて速やかに問題の解決を図るに違いないのに――。
無意識に友人の吐いた深いため息に、クリスは不思議そうに小首を傾げる。
「先輩方に何か相談ごとでもあるの? ヨシノに何か頼まれたんだろ。彼がそう言ってたよ。きみが困っているようなら手助けしてやってくれって」
「え? きみも彼から話を聴いたの?」
だがクリスは首を振る。フレデリックも苦笑を湛えて同じように首を振った。
「ヨシノからじゃない。アレンだよ。僕が話を聴いたのは。やれやれ、彼には全てお見通しなんだな」
社交界に関することは、自分よりもクリスの方が詳しいかもしれない――。フレデリックは簡潔に、セドリックと姉の噂をアレンが憂いているのだ、とだけ彼に説明した。クリスは、アレンとセドリックの間にあった不幸な出来事については知らないのだ。そして吉野にしろ、自分にしろ、そのことをたとえクリスにであっても話す気はない。クリスには、ヘンリーの弟としてのアレンが、逆恨みやとばっちりと言い換えることのできる筋違いな嫌がらせを、セドリックのグループから受けていたという認識があるにすぎないのだ。彼からしてみれば、セドリック・ブラッドリーに対して好意的な感情は持てない理由として、それで充分ではあったのだが。
「ああ、アレンの気持ちは解るよ! お姉さんがあんな酷い奴とつき合ってるかもしれないなんて、そりゃ心配でならないよね! 僕だって、あのころの彼のアレンに対する態度には、腸が煮えくり返る想いだったもの!」
当時の感情が蘇ってきたのか、クリスは睨みつけるように大きく眼を見開いて、その声を荒げた。
「アボット寮長にはお逢いしたところだけど――、そうだね……。そういう話なら、ハロルド先輩にお願いしてブラッドリー先輩を諫めてもらうのがいいんじゃないかな。アボット寮長はあまり社交界の事情には通じてらっしゃらないからね。ヨシノは先輩方の中ではウェザー先輩を一番信頼してたんだけどね、アレンは彼のことが好きじゃないんだ。だから、もし直接彼自身で助力を頼みたいなら、ハロルド先輩が適任だよ!」
クリスの口からスラスラと流れる工程を、フレデリックは唖然しながら聴き入っていた。いつも何も考えていないような、考えるよりも先に行動するタイプだと思っていた彼の方が、自分よりもよほど多方面での人間関係や力関係を把握していることが意外だったのだ。
連絡を取り、許可を貰えるようなら、一緒に先輩に逢いに行こう、アレン本人だけではなく、社交界で眉をひそめられるような度の過ぎた噂になっていると自分が言った方が、説得力が増すから――。というクリスの提案に、フレデリックは、反論することもなく頷き、お礼を言った。
「この貸しはヨシノにつけておくよ。一応、ガールフレンドなんだろ? アレンのお姉さん――。彼女にはちょっと同情してるんだ。ヨシノを好きになるのは当然だけど、彼に歩調を合わせるのは不可能だものね。遊んで憂さ晴らししたくなる気持ちも解るんだ。それに――」
声音を落とし、クリスは露骨に眉をひそめて大袈裟なため息をつく。
「それに、ヨシノも変わったよね! 以前は絶対にアレンのことを、『天使』だなんて形容したりしなかった。そんな突き放した言い方をすることなんてなかったのに! お姉さんとつき合っているからなのかな。なんだか、前よりもアレンに対して冷たくなった気がするんだ」
「天使――、て彼がそう言ったの、アレンのことを?」
「以前は誰がそう言っても、こいつは同じ人間だ、特別扱いするな、って言ってたのにさ! 絶対変だよ。ヨシノらしくないよ!」
憮然として唇を尖らせているクリスに、フレデリックは何と答えるべきか判らなかった。
吉野はアレンに、そして自分に何をさせたいのか――、彼の思い描く未来は自分には見えず、おそらくアレンにもまた見通せない。
彼らには、ただ目の前に置かれた課題を一つ一つこなしていくだけで精一杯だったのだ。
「早いね。今日のサークルは?」
「行かなかった。さっきまで、またヨシノを捉まえてたんだ」
吉野に逢いたがっているのは、自分たちやハワード教授だけではない。クリスの友人は、先輩方も含めてエリオット出身者が多いのだ。その誰もがめったに大学に顔を見せない彼を捉まえ話をしたがっている。教授の研究室前で待ちかまえ、サウードからの迎えの車を待たせたまま、今まで話しこんでいたのだという。
居間のソファーにくたびれた様子でもたれかかり、けれど頬を紅潮させて勢いよく喋り始めたクリスに、フレデリックは口を挟む間もなく、ただただ相槌を打つばかりだ。
ひと通り吉野との会話の内容を話しつくした彼が、ほっともどかしげな息を継いだ時、「そう、そのことできみに訊ねたいことがあるんだ」とフレデリックは、ようやく自身の方へと水を向けた。
「ハロルド寮長のこと。最近お逢いしたって言ってなかったっけ?」
「ああ、うん。オックスフォードでね。演奏会にいらしていた」
懐かしそうに瞳を輝かせ、また堰切って話し始めたクリスの声を右から左へと流しながら、フレデリックは、彼にどこまで話すべきか、あるいは先輩方はどこまでこのスキャンダルについて知っているのか、と思いを巡らせる。
「フレッド?」
半ば上の空で聞いている彼を訝しく思ったクリスが、確かめるように彼を呼んだ。
「何?」
「それで、ハロルド寮長がどうかされたの?」
「ああ、うん。ほら、ニューイヤーパーティーでアボット寮長にお逢いしたからさ、ハロルド寮長はどうされているかな、って思ってさ」
お逢いした――、と言っても、束の間の挨拶を交わした程度だ。ゆっくりと互いの近況を語りあえた訳でもない。
アレンの話では、ベンジャミン・ハロルド、ケネス・アボットの二人の寮長、そしてパトリック・ウェザー監督生代表が幼い頃からセドリック・ブラッドリーとは家ぐるみのつきあいなのだそうだ。フレデリックは学年代表として、他の寮生よりは多少上級生である彼らとかかわりが深かったといえる。吉野ほどではないにしろ――。そう、思い返してみても、それは決して吉野の様な個人的な関係とはいえない。彼ならばきっと、もっとたやすくこのうちの誰かを通じて速やかに問題の解決を図るに違いないのに――。
無意識に友人の吐いた深いため息に、クリスは不思議そうに小首を傾げる。
「先輩方に何か相談ごとでもあるの? ヨシノに何か頼まれたんだろ。彼がそう言ってたよ。きみが困っているようなら手助けしてやってくれって」
「え? きみも彼から話を聴いたの?」
だがクリスは首を振る。フレデリックも苦笑を湛えて同じように首を振った。
「ヨシノからじゃない。アレンだよ。僕が話を聴いたのは。やれやれ、彼には全てお見通しなんだな」
社交界に関することは、自分よりもクリスの方が詳しいかもしれない――。フレデリックは簡潔に、セドリックと姉の噂をアレンが憂いているのだ、とだけ彼に説明した。クリスは、アレンとセドリックの間にあった不幸な出来事については知らないのだ。そして吉野にしろ、自分にしろ、そのことをたとえクリスにであっても話す気はない。クリスには、ヘンリーの弟としてのアレンが、逆恨みやとばっちりと言い換えることのできる筋違いな嫌がらせを、セドリックのグループから受けていたという認識があるにすぎないのだ。彼からしてみれば、セドリック・ブラッドリーに対して好意的な感情は持てない理由として、それで充分ではあったのだが。
「ああ、アレンの気持ちは解るよ! お姉さんがあんな酷い奴とつき合ってるかもしれないなんて、そりゃ心配でならないよね! 僕だって、あのころの彼のアレンに対する態度には、腸が煮えくり返る想いだったもの!」
当時の感情が蘇ってきたのか、クリスは睨みつけるように大きく眼を見開いて、その声を荒げた。
「アボット寮長にはお逢いしたところだけど――、そうだね……。そういう話なら、ハロルド先輩にお願いしてブラッドリー先輩を諫めてもらうのがいいんじゃないかな。アボット寮長はあまり社交界の事情には通じてらっしゃらないからね。ヨシノは先輩方の中ではウェザー先輩を一番信頼してたんだけどね、アレンは彼のことが好きじゃないんだ。だから、もし直接彼自身で助力を頼みたいなら、ハロルド先輩が適任だよ!」
クリスの口からスラスラと流れる工程を、フレデリックは唖然しながら聴き入っていた。いつも何も考えていないような、考えるよりも先に行動するタイプだと思っていた彼の方が、自分よりもよほど多方面での人間関係や力関係を把握していることが意外だったのだ。
連絡を取り、許可を貰えるようなら、一緒に先輩に逢いに行こう、アレン本人だけではなく、社交界で眉をひそめられるような度の過ぎた噂になっていると自分が言った方が、説得力が増すから――。というクリスの提案に、フレデリックは、反論することもなく頷き、お礼を言った。
「この貸しはヨシノにつけておくよ。一応、ガールフレンドなんだろ? アレンのお姉さん――。彼女にはちょっと同情してるんだ。ヨシノを好きになるのは当然だけど、彼に歩調を合わせるのは不可能だものね。遊んで憂さ晴らししたくなる気持ちも解るんだ。それに――」
声音を落とし、クリスは露骨に眉をひそめて大袈裟なため息をつく。
「それに、ヨシノも変わったよね! 以前は絶対にアレンのことを、『天使』だなんて形容したりしなかった。そんな突き放した言い方をすることなんてなかったのに! お姉さんとつき合っているからなのかな。なんだか、前よりもアレンに対して冷たくなった気がするんだ」
「天使――、て彼がそう言ったの、アレンのことを?」
「以前は誰がそう言っても、こいつは同じ人間だ、特別扱いするな、って言ってたのにさ! 絶対変だよ。ヨシノらしくないよ!」
憮然として唇を尖らせているクリスに、フレデリックは何と答えるべきか判らなかった。
吉野はアレンに、そして自分に何をさせたいのか――、彼の思い描く未来は自分には見えず、おそらくアレンにもまた見通せない。
彼らには、ただ目の前に置かれた課題を一つ一つこなしていくだけで精一杯だったのだ。
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