660 / 758
九章
8
しおりを挟む
「ヨシノは、殿下共々ロンドンに戻ったそうだよ」
今朝マクレガーから聞いたばかりの伝言をふと思いだして、ヘンリーは傍らのアーネストに告げた。連日の商談やミーティングでさすがの彼も辟易としており、その整った顔は若干疲労の色が浮かんでいる。
「みたいだね。あの子から電話をもらったよ」
アーネストは、眼前に浮かぶTS画面に視線を据えたまま相槌を打つ。
「そろそろ判決も下りるのだったね?」
「ああ、そのことじゃなくて。うちの発表がカールトンに漏れていたルートのことだよ。スパイは殿下経由だったって」
「殿下? サウード殿下が?」
「の側近。アレンたちの会話をさ、小耳にでも挟んでいたんじゃないかって」
サウード殿下の、というよりも、精鋭揃いの殿下の身辺警護者ですら、いまだアブド元大臣の息のかかった者がいるということだ。
ヘンリーは息をつき、車窓に視線を向ける。ラスベガスの乾いた空気は彼の国を思わせる。事なきを得たというアブドルアジーズと吉野の交渉にせよ、パーティー会場で小耳に挟んだジェームズ・テイラーの突然の訪問にせよ、吉野の周りは気がかりが絶えない。飛鳥にしてもさぞ気を揉んでいることだろう、とヘンリーの杞憂の種も尽きることがない。早くつまらない商談など終わらせて英国に帰りたい。そんな想いばかりに心を持っていかれている。
だが傍らのアーネストは彼とは異なるようで、今日も淡々と雑務をこなしている。ヘンリーは申し訳なさに若干の揶揄も混ぜてそんな彼に笑みを向けた。
「きみはいつも平常心だな」
「おたおたしても仕方がないからね」ヘンリーに一瞥くれるとアーネストは眼鏡をはずし目頭を揉んだ。
「僕はあの子自らジュニアにでも吹きこんだのかと疑っていたからねぇ。殿下の近衛の再編成を兼ねての帰国だそうだよ」
「帰国? ロンドンに戻るのではないの?」
「いったんロンドン、それからすぐに砂漠行きだってさ。アッシャムスの後始末もあるんだろうね。きみはロレンツォからは何も聞いていないの?」
「ああ、確かに」
そんな話はしていた。吉野の名は出ていなかっただけで。迂闊だった。破綻させたアッシャムスの後継はルベリーニ一族に任せて、このまま手を引くのだとばかり思っていたのだ。破綻の発表からまだひと月も経っていないとはいえ、公表された時点ではすでにその後の道成は仕上がっていたのだから。
不満げにセレストブルーを曇らせるヘンリーに、アーネストは宥めるように言葉を継いだ。
「ジム・テイラーが来たそうじゃないか。プラントに投資させるんじゃないの? あの子のことだからさ」
「彼に逢ったの?」
「あの子に逢いにきていた、って話だよ。本人からの情報ではないけどねぇ」
「米国を介入させるかな――」
「英国に偏りすぎないようにバランスを取るんじゃないかな、金でさ」
英国からは労働人口を、ジム率いる米国の投資家からは巨額投資を――。
いかにも吉野の考えそうなことだ、とヘンリーはため息をついた。ここにきてジム・テイラーの名が出でてくるなどと、飛鳥が知ったら気が気ではないだろうに。吉野を彼に奪われることをあれほどに恐れているのに。兄の想いを解っているようで、何も解っていないのだ、あの未熟な子は――。
そんなヘンリーの想いを察するかのように、アーネストは目を細めてどこか投げやりな微笑を湛えた。彼にとって杜月兄弟のことは、いつからか考えても仕方ない、自身の思惑の枠内では動かせない存在となっている。裏切らないのであればそれでいい。どのような道筋を通ろうと、目指す場所さえ違わなければそれでいいのだ。整わない道を整え、決して美しいとはいえないその道を、後から見る者には魅力的に見えるように舗装するのが自分の役割だと彼は心得ている。そうでなければ、心臓がいくつあってもたりはしない。このヘンリーにしても吉野にしても、その背中を追っていくのは――。
「突き抜けるような青空ってものも、かえって何もないようで、淋しいねぇ。ロンドンの灰色の重さが恋しいよ」
どこに続いているのか判らないこの空の透明な行き先に、そんな覚束なさを感じて――。
アーネストは至極真面目な顔をして傍らの友人を振り返った。
「ビジネスランチが済んだらカジノにでも行こうか? 憂さ晴らしにさ。あーあ、あの子がいれば良かった!」
「入れないよ。21歳からだ」
「知ってるって! ご教授願えればってことだよ」
「通信で尋ねればいい」
「それも何だかだねぇ……」
おどけて唇を突きだし、肩をすくめてみせるアーネストに、ヘンリーはクスクスと笑みを零した。これから会う相手との、砂を噛むような時間を思えば、彼の気持ちも解らないではなかったのだ。
まったく、吉野はカールトン・Jr.などという、とんだお荷物を押しつけていってくれたのだから――。
今朝マクレガーから聞いたばかりの伝言をふと思いだして、ヘンリーは傍らのアーネストに告げた。連日の商談やミーティングでさすがの彼も辟易としており、その整った顔は若干疲労の色が浮かんでいる。
「みたいだね。あの子から電話をもらったよ」
アーネストは、眼前に浮かぶTS画面に視線を据えたまま相槌を打つ。
「そろそろ判決も下りるのだったね?」
「ああ、そのことじゃなくて。うちの発表がカールトンに漏れていたルートのことだよ。スパイは殿下経由だったって」
「殿下? サウード殿下が?」
「の側近。アレンたちの会話をさ、小耳にでも挟んでいたんじゃないかって」
サウード殿下の、というよりも、精鋭揃いの殿下の身辺警護者ですら、いまだアブド元大臣の息のかかった者がいるということだ。
ヘンリーは息をつき、車窓に視線を向ける。ラスベガスの乾いた空気は彼の国を思わせる。事なきを得たというアブドルアジーズと吉野の交渉にせよ、パーティー会場で小耳に挟んだジェームズ・テイラーの突然の訪問にせよ、吉野の周りは気がかりが絶えない。飛鳥にしてもさぞ気を揉んでいることだろう、とヘンリーの杞憂の種も尽きることがない。早くつまらない商談など終わらせて英国に帰りたい。そんな想いばかりに心を持っていかれている。
だが傍らのアーネストは彼とは異なるようで、今日も淡々と雑務をこなしている。ヘンリーは申し訳なさに若干の揶揄も混ぜてそんな彼に笑みを向けた。
「きみはいつも平常心だな」
「おたおたしても仕方がないからね」ヘンリーに一瞥くれるとアーネストは眼鏡をはずし目頭を揉んだ。
「僕はあの子自らジュニアにでも吹きこんだのかと疑っていたからねぇ。殿下の近衛の再編成を兼ねての帰国だそうだよ」
「帰国? ロンドンに戻るのではないの?」
「いったんロンドン、それからすぐに砂漠行きだってさ。アッシャムスの後始末もあるんだろうね。きみはロレンツォからは何も聞いていないの?」
「ああ、確かに」
そんな話はしていた。吉野の名は出ていなかっただけで。迂闊だった。破綻させたアッシャムスの後継はルベリーニ一族に任せて、このまま手を引くのだとばかり思っていたのだ。破綻の発表からまだひと月も経っていないとはいえ、公表された時点ではすでにその後の道成は仕上がっていたのだから。
不満げにセレストブルーを曇らせるヘンリーに、アーネストは宥めるように言葉を継いだ。
「ジム・テイラーが来たそうじゃないか。プラントに投資させるんじゃないの? あの子のことだからさ」
「彼に逢ったの?」
「あの子に逢いにきていた、って話だよ。本人からの情報ではないけどねぇ」
「米国を介入させるかな――」
「英国に偏りすぎないようにバランスを取るんじゃないかな、金でさ」
英国からは労働人口を、ジム率いる米国の投資家からは巨額投資を――。
いかにも吉野の考えそうなことだ、とヘンリーはため息をついた。ここにきてジム・テイラーの名が出でてくるなどと、飛鳥が知ったら気が気ではないだろうに。吉野を彼に奪われることをあれほどに恐れているのに。兄の想いを解っているようで、何も解っていないのだ、あの未熟な子は――。
そんなヘンリーの想いを察するかのように、アーネストは目を細めてどこか投げやりな微笑を湛えた。彼にとって杜月兄弟のことは、いつからか考えても仕方ない、自身の思惑の枠内では動かせない存在となっている。裏切らないのであればそれでいい。どのような道筋を通ろうと、目指す場所さえ違わなければそれでいいのだ。整わない道を整え、決して美しいとはいえないその道を、後から見る者には魅力的に見えるように舗装するのが自分の役割だと彼は心得ている。そうでなければ、心臓がいくつあってもたりはしない。このヘンリーにしても吉野にしても、その背中を追っていくのは――。
「突き抜けるような青空ってものも、かえって何もないようで、淋しいねぇ。ロンドンの灰色の重さが恋しいよ」
どこに続いているのか判らないこの空の透明な行き先に、そんな覚束なさを感じて――。
アーネストは至極真面目な顔をして傍らの友人を振り返った。
「ビジネスランチが済んだらカジノにでも行こうか? 憂さ晴らしにさ。あーあ、あの子がいれば良かった!」
「入れないよ。21歳からだ」
「知ってるって! ご教授願えればってことだよ」
「通信で尋ねればいい」
「それも何だかだねぇ……」
おどけて唇を突きだし、肩をすくめてみせるアーネストに、ヘンリーはクスクスと笑みを零した。これから会う相手との、砂を噛むような時間を思えば、彼の気持ちも解らないではなかったのだ。
まったく、吉野はカールトン・Jr.などという、とんだお荷物を押しつけていってくれたのだから――。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
伊藤とサトウ
海野 次朗
歴史・時代
幕末に来日したイギリス人外交官アーネスト・サトウと、後に初代総理大臣となる伊藤博文こと伊藤俊輔の活動を描いた物語です。終盤には坂本龍馬も登場します。概ね史実をもとに描いておりますが、小説ですからもちろんフィクションも含まれます。モットーは「目指せ、司馬遼太郎」です(笑)。
基本参考文献は萩原延壽先生の『遠い崖』(朝日新聞社)です。
もちろんサトウが書いた『A Diplomat in Japan』を坂田精一氏が日本語訳した『一外交官の見た明治維新』(岩波書店)も参考にしてますが、こちらは戦前に翻訳された『維新日本外交秘録』も同時に参考にしてます。さらに『図説アーネスト・サトウ』(有隣堂、横浜開港資料館編)も参考にしています。
他にもいくつかの史料をもとにしておりますが、明記するのは難しいので必要に応じて明記するようにします。そのまま引用する場合はもちろん本文の中に出典を書いておきます。最終回の巻末にまとめて百冊ほど参考資料を載せておきました。
(※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)
夏の嵐
萩尾雅縁
キャラ文芸
垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。
全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。


サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる