胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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九章

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「おはよう! こんなに近くにいるっていうのに、ここまで来るのは至難の業だったよ!」
 朝っぱらからけたたましい。跳ねるように喋る甲高くて懐かしい声音を、吉野は寝起きの不機嫌な頭で半分上の空に聞いていた。時間が撒き戻されたみたいだ。夢なのか、うつつなのか判断がつかないような――。

「チェリー、コーヒーだよ!」

 不意に鼻孔をくすぐったその芳香に、やっと目を眇めて開けた。

「ジム、どうやってここに入ったんだ?」
「もちろん、そこのドアからだよ! 窓を蹴破ってきたんじゃないから心配いらない! ちょっときみの近衛に、陛下から直接電話を入れて頂いただけだからね、ハニー!」
「俺の近衛? アリーのことか?」
「さぁ? その上官かな、よくは知らない」


 アリーが逆らえない相手――。

 その誰かを特定しようと、脳内で目まぐるしく記憶を漁りながら、吉野はようやくベッドから半身を起こし、サイドボードのコーヒーに手を伸ばす。

「そろそろ決心はついたかい?」
「何が?」
「考えてはくれているんだろう?」
「まったく、ない」

 ベッドの端に腰かける痩せた男。白髪に白い顎鬚をたくわえたジム、ことジェームズ・テーラーを一瞥することもなく、吉野は物思いに耽ったままコーヒーを啜る。ジムはさも嘆かわしそうに大袈裟に肩をすくめ、あの独特の甲高い声で堰を切ったように早口で何やら懇願している。だがそのかなり耳につくお喋りは、吉野の耳には入っていないかのようだ。

「もう諦めろよ。俺の気が変わる頃にはさ、ジムは天国に行ってるよ。いい年齢としだろ? 自覚しろって。ほかの奴を探せよな」

 吉野はどうでもいいように応え、カップをジムについと差しだすと、ベッドから下りて伸びをする。

「やれやれ、着の身着のままだな! 着替えもせずに寝ていたのかい?」
 咎めるような声音に、吉野はひょいと肩をすくめる。パーティーの後のドレスシャツのままだということさえ忘れていたのだ。

「ジム、お願いがあるんだ」
「何だい、ハニー!」
 とたんに彼の声がもう一段跳ね上がる。
「腹減った。ルームサービスを頼んで。英国式イングリッシュ、でも紅茶じゃなくコーヒーで。卵はスクランブル。三人前。じゃ、俺、シャワー浴びてくる」

 部屋をでる吉野の背後で、ルームサービスに電話をするジムの声音がきんきんと響いている。



 
「それで、本当は何しに来たの?」

 朝食を食べながら、吉野は先ほどよりはよほどすっきりした面で、ジムを凝視する。昔と変わらないくしゃくしゃのジャケット。その下はこれまた色褪せたポロシャツで、身なりに構わない男だ。これが世界有数の個人資産の持ち主だ、などと誰も思わないだろう――。いや、このホテルのペントハウスに当然のように入りこめるあたり、知っている奴は知っている、ということだろうか。このジムが、すでに伝説と化しているヘッジファンド、リグレッション・テクノロジーズCEOだということを。
 つらつら考えながら、吉野はふっと郷愁に駆られていた。眼前の彼に、画面越しでしか知らなかったかつての姿を重ねていた。幼い頃、彼に教わった金融工学のノウハウが、きらきらと閃光のように脳裏を走る。あれから十年――。ジムは年を取った。そう思わずにはいられなかった。

「可愛いきみの顔を見にきたんだよ、私の息子マイ・ボーイよ」
 ジムは相変わらずにこにこと笑顔を崩さない。
「俺はあんたの養子にはならない。解ってるだろ?」
「私の知識は全てきみにあげた。それなのにどうして財産は受け取ってくれないんだい、チェリー? 同じことじゃないか!」

 吉野は小さく息をつき、かすかな笑みを唇にのせたまま同情するような、そんな視線をジムに向けた。

「俺はあんたのこと、好きだし感謝してるよ。だけど、同じくらい憎んでる。あんたたちが俺にこうまでかまってこなけりゃ、祖父ちゃんは死なずにすんだんだ。その憎い相手のものをもらうわけにはいかないよ。俺はあんたの知識を受け継いだ。それで満足しろよ。すべてを望むなよ」

 もう幾度となく交わしてきた会話を、吉野はここでも繰り返した。解っている。この男はこの言葉を聴くために、わざわざ自分に逢いにくるのだ――。許されたいがために問いかけるのか、それとも自らの罪を忘れないために問い続けるのか――。それは、吉野には判らなかったが。

「――それなら、贖罪しょくざいとして受け取ってくれないか?」
「いらない」

 にべもない返事に、ジムは喉を鳴らして笑った。

「そんな淋しいなら、逢いにこいよ。どこにでもさ。もう飛鳥も親父も、あんたのことを怨んじゃいないよ。ケンブリッジに逢いにくればいい」
「きみは英国に腰を据えるつもりなのかい?」
「ケンブリッジで教授になるんだ、最年少でさ」

 にっと笑った吉野に、ジムもまた笑い返す。唇を尖らせ、肩をすくめて。

「やれやれ、富も権威には敵わないのか――」
「そうじゃない。夢だったんだよ。祖父ちゃんの夢を俺が継ぐんだ」

 飛鳥の代わりに。飛鳥を自由にしてやるために――。

「でもまぁ、その前に落とし前だけは、きっちりつけなきゃいけないけどさ」

 独り言ちると、吉野は止まっていた手をまた動かし、テーブルの食事を再開した。

 


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