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九章
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マシュリク・ショックと呼ばれたほどの為替暴落は、わずか一両日中に落ち着いた。正式発表はなかったが、破綻した国有企業アッシャムスは民間に払いさげられ、外資系企業の資本注入と管理の許、迅速に再生されるとの噂が急速に広まったからだ。
英国とフランス企業の利権争いが、すでに水面下で始まっている。
そんな憶測ばかりが飛び交うネットニュースに辟易し、飛鳥は眼前に浮かぶ画面をピンッと指で弾いて消した。
「なんだか口煩い映像がいないと物足りないね、サラ」
このところ入り浸っていたコンサバトリーではなく、久しぶりに居間でお茶を飲みながら、飛鳥は向かいに座るサラに微笑みかける。
「そう? 私はほっとしてる。しばらくは見たくもないわ。あれだけ時間をかけたのに、全然ヘンリーらしくならないんだもの! 会議では問題ないのに、普段の彼らしさを出すのって、難しい」
愛らしい眉を眉間に寄せ、サラはぷっと頬を膨らませている。まだまだ納得がいかないまま時間切れになってしまったことが口惜しいのだ。
映像のヘンリーは、デヴィッドとともにすでに飛行機で英国をたっている。もっとも小さなチップに収まっている彼には、座席の必要もない。
ヘンリーらしさ、という点ではまだまだかも知れないが、明日のラスベガスでの見本市では、あの爽やかな笑顔とはおよそかけ離れた、おそらく米国人には判りづらい彼らしいシニカルさをきかせた弁舌で、訪れたバイヤーたちを大いに魅了してくれるだろう。きっと、本人が苦笑せずにはいられないほどに。
「僕はなんだか学生時代の彼といるみたいで、妙な郷愁を感じていたけどな」
飛鳥は映像のヘンリーと、現在のヘンリーを想い比べながら首を捻る。人工知能は、最近のヘンリーの使用頻度の高い語彙、思考パターンから割りだした性格で構成されているはずなのに、なぜかウイスタン校にいた頃の彼を思い起こさせるのだ。
何がどう変わった、と説明できるものでもないのだが……。
「パブリックスクールにいた頃のヘンリーはどんなふうだった?」
ふと見返したサラは、真剣な瞳で飛鳥を見つめている。その見慣れたペリドットの瞳の内に、並々ならぬ好奇心が見てとれた。
「そうだな、今とそう変わりはないんだけどね」
飛鳥自身が疑問に感じていることなのだ。
あの映像のヘンリーは、ヘンリーではない。けれど、かつての彼を思い起こさせる。この差は何なのだろう、と。映像の受け答えは、ヘンリーその人ならいかにも言いそうな、そつのないものだ。だけど彼ではない、そう感じてしまうのだ。
「ウイスタンでの彼は、優しくて、紳士的で、気高くて――、そして辛辣」
「今だってそうでしょ?」
「うん。だからそう言っただろ」
顔を見合わせて、二人して噴きだしてしまった。
サラのプログラムした人工知能は、見事なヘンリーを作り出している。けれど生身の彼には敵わない。どこか思い出の中のような、彼の影でしかない。そういう事なのだろうか?
そういえば、いつも画面の中でしかヘンリーの仕事ぶりを見たことはなかったな、と飛鳥は紅茶のカップを持ちあげながら思い返していた。
煩わしい交渉事や取り決め、苦手な表舞台での発表は全て彼任せ。飛鳥自身は会議に出ることもない。顔見知りの、気心しれた技術者たちと意見を交わす程度しか、会社との関わりを持つこともないのだ。
そしてそれは、サラも同じ。だが彼女は、発言はしないまでも会議の様子は見ている。時に、ヘンリーの代わりに人工知能を操って参加している。自分よりもずっと深く彼と関わってきている。
けれど――。やはり自分も、サラも、本物の彼が大衆を魅了する、その空気に直に触れることがあまりにも少ない。
彼の醸しだす空気が、映像と本物の違いなのではないか、とそんな想いがふわりと香る紅茶の芳香とともに飛鳥の胸に去来していた。
こんな不確かなもの、形にできるわけがない。
他を威圧する空気。元気づける空気。彼が言うことは何でも実現されるのではないか、とすら信じさせる空気。そんな空気をまとっている男。それがヘンリーだ。
人々が彼に魅了されるのは、その整った容姿のせいだけではない。
今さらながら、出逢った頃からこれまでのヘンリーを思い返し、飛鳥は堪らず、手にしたカップに残っていた紅茶を一息に飲み干した。
「サラ、今、何を考えている?」
ヘンリーのこと? 彼がいないと淋しい? 僕がいても……。
続けて問いたい言葉は喉につかえたまま、発することはできなかった。サラは躊躇なく頷く、と飛鳥は知っていたから。
「ヨシノのこと」
けれど、サラの口から零れた名前は、飛鳥の想定とは違っていた。
英国とフランス企業の利権争いが、すでに水面下で始まっている。
そんな憶測ばかりが飛び交うネットニュースに辟易し、飛鳥は眼前に浮かぶ画面をピンッと指で弾いて消した。
「なんだか口煩い映像がいないと物足りないね、サラ」
このところ入り浸っていたコンサバトリーではなく、久しぶりに居間でお茶を飲みながら、飛鳥は向かいに座るサラに微笑みかける。
「そう? 私はほっとしてる。しばらくは見たくもないわ。あれだけ時間をかけたのに、全然ヘンリーらしくならないんだもの! 会議では問題ないのに、普段の彼らしさを出すのって、難しい」
愛らしい眉を眉間に寄せ、サラはぷっと頬を膨らませている。まだまだ納得がいかないまま時間切れになってしまったことが口惜しいのだ。
映像のヘンリーは、デヴィッドとともにすでに飛行機で英国をたっている。もっとも小さなチップに収まっている彼には、座席の必要もない。
ヘンリーらしさ、という点ではまだまだかも知れないが、明日のラスベガスでの見本市では、あの爽やかな笑顔とはおよそかけ離れた、おそらく米国人には判りづらい彼らしいシニカルさをきかせた弁舌で、訪れたバイヤーたちを大いに魅了してくれるだろう。きっと、本人が苦笑せずにはいられないほどに。
「僕はなんだか学生時代の彼といるみたいで、妙な郷愁を感じていたけどな」
飛鳥は映像のヘンリーと、現在のヘンリーを想い比べながら首を捻る。人工知能は、最近のヘンリーの使用頻度の高い語彙、思考パターンから割りだした性格で構成されているはずなのに、なぜかウイスタン校にいた頃の彼を思い起こさせるのだ。
何がどう変わった、と説明できるものでもないのだが……。
「パブリックスクールにいた頃のヘンリーはどんなふうだった?」
ふと見返したサラは、真剣な瞳で飛鳥を見つめている。その見慣れたペリドットの瞳の内に、並々ならぬ好奇心が見てとれた。
「そうだな、今とそう変わりはないんだけどね」
飛鳥自身が疑問に感じていることなのだ。
あの映像のヘンリーは、ヘンリーではない。けれど、かつての彼を思い起こさせる。この差は何なのだろう、と。映像の受け答えは、ヘンリーその人ならいかにも言いそうな、そつのないものだ。だけど彼ではない、そう感じてしまうのだ。
「ウイスタンでの彼は、優しくて、紳士的で、気高くて――、そして辛辣」
「今だってそうでしょ?」
「うん。だからそう言っただろ」
顔を見合わせて、二人して噴きだしてしまった。
サラのプログラムした人工知能は、見事なヘンリーを作り出している。けれど生身の彼には敵わない。どこか思い出の中のような、彼の影でしかない。そういう事なのだろうか?
そういえば、いつも画面の中でしかヘンリーの仕事ぶりを見たことはなかったな、と飛鳥は紅茶のカップを持ちあげながら思い返していた。
煩わしい交渉事や取り決め、苦手な表舞台での発表は全て彼任せ。飛鳥自身は会議に出ることもない。顔見知りの、気心しれた技術者たちと意見を交わす程度しか、会社との関わりを持つこともないのだ。
そしてそれは、サラも同じ。だが彼女は、発言はしないまでも会議の様子は見ている。時に、ヘンリーの代わりに人工知能を操って参加している。自分よりもずっと深く彼と関わってきている。
けれど――。やはり自分も、サラも、本物の彼が大衆を魅了する、その空気に直に触れることがあまりにも少ない。
彼の醸しだす空気が、映像と本物の違いなのではないか、とそんな想いがふわりと香る紅茶の芳香とともに飛鳥の胸に去来していた。
こんな不確かなもの、形にできるわけがない。
他を威圧する空気。元気づける空気。彼が言うことは何でも実現されるのではないか、とすら信じさせる空気。そんな空気をまとっている男。それがヘンリーだ。
人々が彼に魅了されるのは、その整った容姿のせいだけではない。
今さらながら、出逢った頃からこれまでのヘンリーを思い返し、飛鳥は堪らず、手にしたカップに残っていた紅茶を一息に飲み干した。
「サラ、今、何を考えている?」
ヘンリーのこと? 彼がいないと淋しい? 僕がいても……。
続けて問いたい言葉は喉につかえたまま、発することはできなかった。サラは躊躇なく頷く、と飛鳥は知っていたから。
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