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九章
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冗談だと軽く受け流したつもりが、サラは飛鳥を巻き込んで、本当にヘンリーの立体映像を作り始めてしまった。
飛鳥も飛鳥で、すっかりその気になってその作業に夢中になっている。そんな二人を見ているのが居た堪れなくて、ヘンリーは、「きみたちが僕に夢中になってくれるのは嬉しいのだけどね、」と前置きを入れ、「どうやら本人はお邪魔なようなので、今の間に休ませてもらうよ」と苦笑を浮かべて、サウードの用意した別室へと移るために立ち上がった。
「ゆっくり休んで。パーティーで、きみ以上に魅力的なきみに引き合わせてあげるよ!」
その背中を見送る飛鳥の楽しそうな声が響いている。
部屋で待機していたマクレガーに上着を渡すと、ヘンリーは窓からの景色を見渡せるソファーに腰を下ろして紅茶を頼んだ。
休息が欲しいのではなかった。あの場にいたくなかっただけなのだ。二人の好意は嬉しいが、このパーティーを欠席するわけにはいかない。時間内に映像が間にあうようなら、――もちろん彼らなら間にあわせるだろうが――、それは余興として使わせてもらえばいい。インテリア部門に付加されていくであろう、次の戦略のデモンストレーションとして。
「解らないものだね。何が変わったのでもないのに」
控えている自分に話しかけているのか、ただの独り言なのか判断がつかないまま、アルバートはそれに応じる。
「何か不満に思われることでもありましたか?」
「いや、そういうわけではないんだ」
飛鳥も、サラも変わらない。いや変わらないどころか、飛鳥は直近まで抱えていた蟠りが解け、ずっと溌剌としている。かつてのように、信頼に溢れる瞳を自分に向けてくれている。喜ばしいことではないか。
それなのに、重苦しく沈んだ心は浮上できないままなのだ。
「この空のせいなのかな」
鈍色に覆われた空を眺め、ため息を漏らした。いつもと変わらぬ英国の空だ。冬の間、こうしてすべての英国民の頭上を灰色に塗り潰す。何も自分だけが特別なのではない。むしろ自分は幸福な部類ではないか。望むがままの道を歩んでいる。想いに沿った結果の、いったい何が気にいらないのか。
「ああ、やはり雪になりましたね」
「温度かな……、TSに足りないのは」
「本体の発熱問題でしょうか?」
「そうじゃなくて。肌の感じる温度。色彩で人間の体感温度は変わるだろう? 熱を感じさせる温度が、無機質なTSの映像には足りない。どう思う? そう感じるのは僕だけなのかな?」
中途半端に晒してしまった心を誤魔化すように、ヘンリーは話を擦り返た。TSの映像に温度が足りないのではなく、自分の心が寒々しいのだと解っているのに。TS映像に限らず、何を見ても冷え込むばかりなのだ、と。
今、飛鳥はサラの婚約者で、家族に準じる位置にいる。結婚すれば義弟になる。友人であり、仕事の上でのパートナーでもある立ち位置よりも絆はずっと強固になる。そう思った。確かにそうに違いない。だがしばらくして気づいたのだ。彼は自分の家族になるのではなく、サラと二人、新しい家族を築きあげるのだ、と。そこに自分の居場所はない、ということに。
ヘンリーは円から弾きだされていたのだ。飛鳥にどう接すれば良いのか判らない、自分自身を持てあましている自分が、ただ一人鈍色の中に立ち竦んでいた。
そんな彼の内面は想像もつかないアルバートは、真剣に彼の戯言を受けとめ考えている。実物と見分けがつかない立体映像に、脳は充分に騙され、温度すら感じているのではないか、と思いはすれど、正直、彼はそんなことを考えたことはなかったのだ。自分が日本にいた間に制作された過去のイベント作品も会社の研究室で視聴したが、ただただ圧倒されるばかりだった。温度がどうだとか、そんな事まで及びもつかなかった。
それぞれが互いに、あれこれと思い巡らしている間に届いたルームサービスの紅茶を、アルバートは気持ちを切り替えて丁寧に淹れた。
「虚構ではこの紅茶一杯の温もりすら、与えられないのかな」
どこか淋しげに見えるヘンリーの憂いを秘めた瞳に、アルバートは努めて明るく応じた。
「たとえ飲むことのできない映像であっても、人間の脳はその湯気や温かな色に温度や香りまでも想像するものだと思います。写真や動画ですらそうなのですから、我が社のTS映像ならなおさらです」
「手に触れられなくても、癒される?」
「ええ」
「脳を騙す……。確かにそうだね」
蜃気楼を追いかけて砂漠に踏みこみ、辿り着けないオアシスに永遠の渇望を抱えたまま彷徨い続けるのか――。
いつかは、と夢を追い続けることこそが、幸福なのか? 手に入らずとも、乾いたままでも、見続けることが……。
「僕たちは夢と同じ材料でできている。
僕たちのささやかな一生は
眠りによって包まれている、だね?」
「『テンペスト』でしょうか?」
ヘンリーはにこやかに微笑んで、優雅にティーカップを持ちあげ、ゆっくりと口をつける。
「より美しい夢を供給すること。それが僕の夢で、僕たちの夢だ」
――穏やかな眠りで彼を包み、外界の嵐から守り抜く。そのために僕はいる。
そう決意したではないか。
「ヨシノはもうこのホテルに来ているのかな? 話せる時間があるか訊ねてくれる?」
向けられた瞳のなかに一瞬で変わった厳しい色を見いだし、アルバートは表情を引きしめ速やかに動いていた。
*******
We are such stuff
As dreams are made on; and our little life
Is rounded with a sleep.
シェイクスピア 『あらし(テンペスト)』より
飛鳥も飛鳥で、すっかりその気になってその作業に夢中になっている。そんな二人を見ているのが居た堪れなくて、ヘンリーは、「きみたちが僕に夢中になってくれるのは嬉しいのだけどね、」と前置きを入れ、「どうやら本人はお邪魔なようなので、今の間に休ませてもらうよ」と苦笑を浮かべて、サウードの用意した別室へと移るために立ち上がった。
「ゆっくり休んで。パーティーで、きみ以上に魅力的なきみに引き合わせてあげるよ!」
その背中を見送る飛鳥の楽しそうな声が響いている。
部屋で待機していたマクレガーに上着を渡すと、ヘンリーは窓からの景色を見渡せるソファーに腰を下ろして紅茶を頼んだ。
休息が欲しいのではなかった。あの場にいたくなかっただけなのだ。二人の好意は嬉しいが、このパーティーを欠席するわけにはいかない。時間内に映像が間にあうようなら、――もちろん彼らなら間にあわせるだろうが――、それは余興として使わせてもらえばいい。インテリア部門に付加されていくであろう、次の戦略のデモンストレーションとして。
「解らないものだね。何が変わったのでもないのに」
控えている自分に話しかけているのか、ただの独り言なのか判断がつかないまま、アルバートはそれに応じる。
「何か不満に思われることでもありましたか?」
「いや、そういうわけではないんだ」
飛鳥も、サラも変わらない。いや変わらないどころか、飛鳥は直近まで抱えていた蟠りが解け、ずっと溌剌としている。かつてのように、信頼に溢れる瞳を自分に向けてくれている。喜ばしいことではないか。
それなのに、重苦しく沈んだ心は浮上できないままなのだ。
「この空のせいなのかな」
鈍色に覆われた空を眺め、ため息を漏らした。いつもと変わらぬ英国の空だ。冬の間、こうしてすべての英国民の頭上を灰色に塗り潰す。何も自分だけが特別なのではない。むしろ自分は幸福な部類ではないか。望むがままの道を歩んでいる。想いに沿った結果の、いったい何が気にいらないのか。
「ああ、やはり雪になりましたね」
「温度かな……、TSに足りないのは」
「本体の発熱問題でしょうか?」
「そうじゃなくて。肌の感じる温度。色彩で人間の体感温度は変わるだろう? 熱を感じさせる温度が、無機質なTSの映像には足りない。どう思う? そう感じるのは僕だけなのかな?」
中途半端に晒してしまった心を誤魔化すように、ヘンリーは話を擦り返た。TSの映像に温度が足りないのではなく、自分の心が寒々しいのだと解っているのに。TS映像に限らず、何を見ても冷え込むばかりなのだ、と。
今、飛鳥はサラの婚約者で、家族に準じる位置にいる。結婚すれば義弟になる。友人であり、仕事の上でのパートナーでもある立ち位置よりも絆はずっと強固になる。そう思った。確かにそうに違いない。だがしばらくして気づいたのだ。彼は自分の家族になるのではなく、サラと二人、新しい家族を築きあげるのだ、と。そこに自分の居場所はない、ということに。
ヘンリーは円から弾きだされていたのだ。飛鳥にどう接すれば良いのか判らない、自分自身を持てあましている自分が、ただ一人鈍色の中に立ち竦んでいた。
そんな彼の内面は想像もつかないアルバートは、真剣に彼の戯言を受けとめ考えている。実物と見分けがつかない立体映像に、脳は充分に騙され、温度すら感じているのではないか、と思いはすれど、正直、彼はそんなことを考えたことはなかったのだ。自分が日本にいた間に制作された過去のイベント作品も会社の研究室で視聴したが、ただただ圧倒されるばかりだった。温度がどうだとか、そんな事まで及びもつかなかった。
それぞれが互いに、あれこれと思い巡らしている間に届いたルームサービスの紅茶を、アルバートは気持ちを切り替えて丁寧に淹れた。
「虚構ではこの紅茶一杯の温もりすら、与えられないのかな」
どこか淋しげに見えるヘンリーの憂いを秘めた瞳に、アルバートは努めて明るく応じた。
「たとえ飲むことのできない映像であっても、人間の脳はその湯気や温かな色に温度や香りまでも想像するものだと思います。写真や動画ですらそうなのですから、我が社のTS映像ならなおさらです」
「手に触れられなくても、癒される?」
「ええ」
「脳を騙す……。確かにそうだね」
蜃気楼を追いかけて砂漠に踏みこみ、辿り着けないオアシスに永遠の渇望を抱えたまま彷徨い続けるのか――。
いつかは、と夢を追い続けることこそが、幸福なのか? 手に入らずとも、乾いたままでも、見続けることが……。
「僕たちは夢と同じ材料でできている。
僕たちのささやかな一生は
眠りによって包まれている、だね?」
「『テンペスト』でしょうか?」
ヘンリーはにこやかに微笑んで、優雅にティーカップを持ちあげ、ゆっくりと口をつける。
「より美しい夢を供給すること。それが僕の夢で、僕たちの夢だ」
――穏やかな眠りで彼を包み、外界の嵐から守り抜く。そのために僕はいる。
そう決意したではないか。
「ヨシノはもうこのホテルに来ているのかな? 話せる時間があるか訊ねてくれる?」
向けられた瞳のなかに一瞬で変わった厳しい色を見いだし、アルバートは表情を引きしめ速やかに動いていた。
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We are such stuff
As dreams are made on; and our little life
Is rounded with a sleep.
シェイクスピア 『あらし(テンペスト)』より
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