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九章
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「予定をね、変更するかも知れない。調整してもらえるかな?」
お茶を運んできたアルバートに、ヘンリーは思いだしたように告げる。
「はい。どのようにいたしましょう?」
アルバートは取り立てて驚いた様子も見せず、にこやかに返事する。六年に渡る日本駐在を経て、念願のヘンリーの秘書に昇格できたのだ。どのような無理難題がこようと受けてたつつもりでここにいるのだ。
一月は、ラスベガスで恒例の国際見本市がある。その出席のためにヘンリーはクリスマスを終えると渡米し、新年は米国支社ニューヨーク支店のパーティーで迎えることが通年となりつつある。
だが、今年はぎりぎりまでそのニューイヤーパーティーへの出席を保留にして欲しいとのことだった。新年は英国で迎えることになりそうだから、と。
「どちらのパーティーへご出席ですか?」
「それもまだ未定なんだ。出なくて済むならその方が気が楽だからね」
なるほど。秘書といえども、公私ともに知りえて関われるわけではないらしい。これまでも社内での雑務をこなす秘書はいるが、一歩会社を出た後の会食、アポイントメント、パーティーへの出席等、ヘンリーの身辺時間管理は人口知能がしているという話も、あながち冗談でもないのかもしれない。
ということは、今、自分に期待されているのは、秘書としての役割ではなく執事としての能力なのだろうか。
アルバートは納得したのか、笑みを湛えたまま了解を示した。必要なことは本人ではなく、前任者のマーカスに訊くべきだと理解したのだ。
「ほかに御用はございますか?」と訊ねた後、彼はヘンリーの書斎を後にした。要するに知る必要のあることは、自分自身で先手先手に着手しておけ、ということだ。
久々に英国に戻り、学生時代を過ごした街ケンブリッジに居を据え、グループ本社CEOの第一秘書という地位に就けたとはいえ、ほっと息をつく暇もないようだ。
長年勤める執事に代る信頼をあの彼から勝ちえるには、なみな事をしているだけでは追いつかないのだろう。
前日の飛鳥の婚約披露パーティーの面々を思い返し、アルバートは表情をさらに引き締める。そして、それ以上に招待されることのなかった面々に対しても。
あの中にヘンリー自身の友人はいったいどれだけいるのだろうか? 数少ない親戚であり、幼馴染でもあるアーネストやデヴィッドはともかくとして。どこまでも、飛鳥と吉野を基準とした招待客だった。ルベリーニ公にしても、自分の客としてではなく、あくまで飛鳥の友人としての招待なのだろう。
ルベリーニ一族の宗主と、そのパートナーともいえるヘンリーの並び立つ姿を目の当たりにして、彼の胸は躍った。だがそれ以上に、歴然とした主従の立ち位置に慄然とする想いだった。
幼い頃の姿そのままにその手に接吻を受けるのは、凛々しい王ともいえる貴人で、かつての愛らしい姫君の面影などもうどこにも見られない。だが正にあの時、今に繋がるこの関係性が築かれたのだ。
あの日の誓いは破られることなく尊守されている。
宗主の選んだ、生涯ただ一人の仕えるべき主君。その彼を傍近くで守るべく回りくどい方法を使い、まずはラザフォード家から接触し、やっと彼の面前に立つまで来ることができたのだ。回り道としか思えなかった杜月家への赴任が、信頼を得るにあたっての結局は一番の近道だった。
杜月家での役割を部下に引き継ぎ英国本社へ戻る話がでる度に、一社員に戻る以上の価値を『杜月』に見いだし、長引かせて正解だったのだ。誰よりも『杜月』を良く知る自分だからこそ、この両家の婚約を機に、さらなる協力体制を敷くための転属となったのだ。だが――。
まるで杜月のための婚約。それとも彼の溺愛する世間並みの生活を営むことのできないという、病弱な妹のためなのか?
コンサバトリーを埋め尽くしていたあの数式。飛鳥の話していた、あの意味は――。
わずかひと夏を同じ屋根で過ごしたあの時の少年は、今ではとんでもない怪物に育っている、と噂されている。著しく成長して大人びたといっても、屈託のない笑顔も、気さくな様子もあの頃のままなのに。そしてその兄の方は、時間が止まったかのような外見に、自分に向ける柔らかな笑顔もそのままで――。
望みが叶いここにいるのだ。宗主を魅了し跪かせた主君の膝元に。
その彼の築き上げた城の内側は、不可解で謎に満ちている。冷ややかなセレストブルーの選び抜いた駒は、一見しただけではその価値すら見極め切れない。決して触れることも、近づくことさえ許されないヘンリーの孤高の姿に、自分もまた宗主と同じように魅了され、ルベリーニの一員として膝を屈してはばからない自覚だけは確かなのだ。
アルバートは、一筋縄ではいかなさそうなこの館の張り詰めたような均衡と、どこかしっくりとしない空気に首を捻りながら、自分自身の位置づけを確立するための思考を巡らせていた。
お茶を運んできたアルバートに、ヘンリーは思いだしたように告げる。
「はい。どのようにいたしましょう?」
アルバートは取り立てて驚いた様子も見せず、にこやかに返事する。六年に渡る日本駐在を経て、念願のヘンリーの秘書に昇格できたのだ。どのような無理難題がこようと受けてたつつもりでここにいるのだ。
一月は、ラスベガスで恒例の国際見本市がある。その出席のためにヘンリーはクリスマスを終えると渡米し、新年は米国支社ニューヨーク支店のパーティーで迎えることが通年となりつつある。
だが、今年はぎりぎりまでそのニューイヤーパーティーへの出席を保留にして欲しいとのことだった。新年は英国で迎えることになりそうだから、と。
「どちらのパーティーへご出席ですか?」
「それもまだ未定なんだ。出なくて済むならその方が気が楽だからね」
なるほど。秘書といえども、公私ともに知りえて関われるわけではないらしい。これまでも社内での雑務をこなす秘書はいるが、一歩会社を出た後の会食、アポイントメント、パーティーへの出席等、ヘンリーの身辺時間管理は人口知能がしているという話も、あながち冗談でもないのかもしれない。
ということは、今、自分に期待されているのは、秘書としての役割ではなく執事としての能力なのだろうか。
アルバートは納得したのか、笑みを湛えたまま了解を示した。必要なことは本人ではなく、前任者のマーカスに訊くべきだと理解したのだ。
「ほかに御用はございますか?」と訊ねた後、彼はヘンリーの書斎を後にした。要するに知る必要のあることは、自分自身で先手先手に着手しておけ、ということだ。
久々に英国に戻り、学生時代を過ごした街ケンブリッジに居を据え、グループ本社CEOの第一秘書という地位に就けたとはいえ、ほっと息をつく暇もないようだ。
長年勤める執事に代る信頼をあの彼から勝ちえるには、なみな事をしているだけでは追いつかないのだろう。
前日の飛鳥の婚約披露パーティーの面々を思い返し、アルバートは表情をさらに引き締める。そして、それ以上に招待されることのなかった面々に対しても。
あの中にヘンリー自身の友人はいったいどれだけいるのだろうか? 数少ない親戚であり、幼馴染でもあるアーネストやデヴィッドはともかくとして。どこまでも、飛鳥と吉野を基準とした招待客だった。ルベリーニ公にしても、自分の客としてではなく、あくまで飛鳥の友人としての招待なのだろう。
ルベリーニ一族の宗主と、そのパートナーともいえるヘンリーの並び立つ姿を目の当たりにして、彼の胸は躍った。だがそれ以上に、歴然とした主従の立ち位置に慄然とする想いだった。
幼い頃の姿そのままにその手に接吻を受けるのは、凛々しい王ともいえる貴人で、かつての愛らしい姫君の面影などもうどこにも見られない。だが正にあの時、今に繋がるこの関係性が築かれたのだ。
あの日の誓いは破られることなく尊守されている。
宗主の選んだ、生涯ただ一人の仕えるべき主君。その彼を傍近くで守るべく回りくどい方法を使い、まずはラザフォード家から接触し、やっと彼の面前に立つまで来ることができたのだ。回り道としか思えなかった杜月家への赴任が、信頼を得るにあたっての結局は一番の近道だった。
杜月家での役割を部下に引き継ぎ英国本社へ戻る話がでる度に、一社員に戻る以上の価値を『杜月』に見いだし、長引かせて正解だったのだ。誰よりも『杜月』を良く知る自分だからこそ、この両家の婚約を機に、さらなる協力体制を敷くための転属となったのだ。だが――。
まるで杜月のための婚約。それとも彼の溺愛する世間並みの生活を営むことのできないという、病弱な妹のためなのか?
コンサバトリーを埋め尽くしていたあの数式。飛鳥の話していた、あの意味は――。
わずかひと夏を同じ屋根で過ごしたあの時の少年は、今ではとんでもない怪物に育っている、と噂されている。著しく成長して大人びたといっても、屈託のない笑顔も、気さくな様子もあの頃のままなのに。そしてその兄の方は、時間が止まったかのような外見に、自分に向ける柔らかな笑顔もそのままで――。
望みが叶いここにいるのだ。宗主を魅了し跪かせた主君の膝元に。
その彼の築き上げた城の内側は、不可解で謎に満ちている。冷ややかなセレストブルーの選び抜いた駒は、一見しただけではその価値すら見極め切れない。決して触れることも、近づくことさえ許されないヘンリーの孤高の姿に、自分もまた宗主と同じように魅了され、ルベリーニの一員として膝を屈してはばからない自覚だけは確かなのだ。
アルバートは、一筋縄ではいかなさそうなこの館の張り詰めたような均衡と、どこかしっくりとしない空気に首を捻りながら、自分自身の位置づけを確立するための思考を巡らせていた。
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