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九章
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ドアを開けたとたん広がる空間に、せめぎ合うような数字の群れ――。圧倒されて息を呑み、アレンもまた兄と同じようにその場に立ち尽くしていた。
だがすぐにぎゅっと拳を握りこむと、数字の隙間に眼を凝らしながら、コンサバトリーの隅々までゆっくりと見回す。やがて失望の色を露わにすると、彼はソファーの傍らでトレイに食器類を片づけているアルバート・マクレガーに視線をとめた。
「ヨシノがどこにいるかご存知ありませんか?」
「彼なら、ロンドンに向かいましたよ」
アルバートの明るいよく通る声がガラスに囲まれた室内に反響する。アレンは眉根をよせて唇を結んだ。キャルのところへ行ったのか、と、ズキリと胸が痛んでいた。
「朝の内にサウード殿下から迎えの車がきていましたから。朝食は途中なうえに着替える間もなくて、ずいぶんぼやいていましたよ」
サウード……。
アレンの口許からほっと吐息が漏れていた。だがクスクスと笑いながら話すアルバートに、彼は意外そうにその長い睫毛を瞬かせた。
日本にいる吉野たちの父親である杜月社長の第一秘書兼杜月家執事をしていたと聞いているのに、彼の口調は吉野と個人的に近しい間柄のように聞こえる。訊いていないことまで答えるのも、マーカスや寡黙なウィリアムと異なり、軽率すぎるのでは、と思ったのだ。
「あなたに訊ねられたら伝えておいてくれ、との本人からの伝言です。晩餐にはもどるそうですよ」
彼に対する懐疑的な印象を見透かされたように付け加えられた一言に、アレンは顔を赤らめて俯いた。
「ヨシノに逢うのは六年ぶりなんですよ。彼の留学前の夏をともに過ごしたので。彼がエリオットに入学してからもメールのやり取りはずっと続けていましたよ。あなたのお話もよく聞いていました。チャールズからも。チャールズ・フレミング、覚えておられますか? あなた方が一学年生の時の、」
「カレッジ寮長だった?」
ぱっと面を輝かせて口許をほころばせたアレンに、アルバートは嬉しそうに目を細めて頷いた。
「僕の従弟なんです」
一気に警戒心の解けたアレンにほがらかに喋りかけながら、アルバートはてきぱきと散らかった部屋を片づけていく。
「さて、この数字はこのままにしておいた方がいいのでしょうね? まぁ、消せと言われても、消し方も判りませんが」
「あ、保存して消せます。でも、どうだろう? 勝手に触っていいのか判らないので」
「消しちゃってかまわないよ。どうせ全部、吉野の頭の中に入ってるから」
開け放されたままのドアから聞こえた声に、アレンは嬉しそうに振り返る。
「おはよう、アレン。って、もうお昼か」
「アスカ、食事は済まされましたか?」
「まだ。ここで食べてもいいかな? アレン、きみは?」
「あ、はい。じゃあ、ご一緒させて下さい」
「アル、ヘンリーは?」
「お食事は済まされて、書斎に」
「食べ終わったら行く、って伝えてくれる?」
「承知致しました」と部屋を後にするアルバートを見送って、飛鳥は大あくびをしながら覚束ない足取りでドサリとソファーに身を投げだした。気怠げにもたれかかっているのに、その口許はいつになく幸せそうにほころばせている。
「昨夜は楽しかったな。教授と、サラと、吉野がいて。仕事抜きで何も考えずに遊んでたんだ」
恍惚として室内を眺める飛鳥の向かいに、アレンも腰をおろす。
「遊んでいたのですか? 数字で?」
「きみのペン、吉野と教授が気に入っていたよ。空間を埋めていくのが楽しくてさ、こんな風になってしまった。教授のだす問題をね、吉野とサラとで競って解きあっていたんだ」
「それで途中から姿が見えなかったのですね」
「ごめん」
いいえ、とアレンは笑みを湛えたまま首を振る。どのみち知っていたとしても自分には加われなかっただろう。吉野や飛鳥が楽しかったと言うのならそれでいい。日常の延長線上に仕事があるのか、仕事の合間に日常があるのか判らないような二人に、「仕事抜き」と言えるような時間が持てたのならそれで良かった。
自分には入りこめない彼らの楽しみの残影を眺め、アレンはいくばくかの淋しさを覚えつつも、笑みを絶やさず飛鳥の話に耳を傾けていた。アレンにも解るように、飛鳥は簡単な概要と吉野やサラ、ハワード教授のそれぞれの反応だけを面白おかしく語ってくれた。
「僕たちの婚約披露のために集まってもらっているっていうのに、つい趣旨を忘れてたよ」
苦笑しながら飛鳥は肩をすくめる。
「皆、楽しんでいました。久しぶりにお逢いできた方もいましたし、僕も嬉しかった」
アレンはスイスとドイツのルベリーニ一族の結婚式以来、何年かぶりに逢うロレンツォや飛鳥の父を思い、目を細めた。それにこんな機会でなければ吉野やサウードの顔を見ることすらなかなかないのだ。初めてお会いした吉野の師事するハワード教授にしろ……。昨夜のパーティーは、アレンの知らない吉野の一面を垣間見る機会でもあったのだ。
「あいつは殿下のところへ行ったんだって? 忙しいな、あいつも」
ため息交じりの飛鳥に、アレンは顔に笑みを張りつかせたまま頷く。
「晩餐には戻るそうですよ」
「本当に帰ってくるかどうか、怪しいもんだよ。吉野だもの」
満足気な表情から一変して、くっと口許を歪めた飛鳥の面に浮かんだのは、諦めか、焦燥か――。その明らかな不信の色合いに、アレンは驚いたように目を瞠って彼を見つめていた。
だがすぐにぎゅっと拳を握りこむと、数字の隙間に眼を凝らしながら、コンサバトリーの隅々までゆっくりと見回す。やがて失望の色を露わにすると、彼はソファーの傍らでトレイに食器類を片づけているアルバート・マクレガーに視線をとめた。
「ヨシノがどこにいるかご存知ありませんか?」
「彼なら、ロンドンに向かいましたよ」
アルバートの明るいよく通る声がガラスに囲まれた室内に反響する。アレンは眉根をよせて唇を結んだ。キャルのところへ行ったのか、と、ズキリと胸が痛んでいた。
「朝の内にサウード殿下から迎えの車がきていましたから。朝食は途中なうえに着替える間もなくて、ずいぶんぼやいていましたよ」
サウード……。
アレンの口許からほっと吐息が漏れていた。だがクスクスと笑いながら話すアルバートに、彼は意外そうにその長い睫毛を瞬かせた。
日本にいる吉野たちの父親である杜月社長の第一秘書兼杜月家執事をしていたと聞いているのに、彼の口調は吉野と個人的に近しい間柄のように聞こえる。訊いていないことまで答えるのも、マーカスや寡黙なウィリアムと異なり、軽率すぎるのでは、と思ったのだ。
「あなたに訊ねられたら伝えておいてくれ、との本人からの伝言です。晩餐にはもどるそうですよ」
彼に対する懐疑的な印象を見透かされたように付け加えられた一言に、アレンは顔を赤らめて俯いた。
「ヨシノに逢うのは六年ぶりなんですよ。彼の留学前の夏をともに過ごしたので。彼がエリオットに入学してからもメールのやり取りはずっと続けていましたよ。あなたのお話もよく聞いていました。チャールズからも。チャールズ・フレミング、覚えておられますか? あなた方が一学年生の時の、」
「カレッジ寮長だった?」
ぱっと面を輝かせて口許をほころばせたアレンに、アルバートは嬉しそうに目を細めて頷いた。
「僕の従弟なんです」
一気に警戒心の解けたアレンにほがらかに喋りかけながら、アルバートはてきぱきと散らかった部屋を片づけていく。
「さて、この数字はこのままにしておいた方がいいのでしょうね? まぁ、消せと言われても、消し方も判りませんが」
「あ、保存して消せます。でも、どうだろう? 勝手に触っていいのか判らないので」
「消しちゃってかまわないよ。どうせ全部、吉野の頭の中に入ってるから」
開け放されたままのドアから聞こえた声に、アレンは嬉しそうに振り返る。
「おはよう、アレン。って、もうお昼か」
「アスカ、食事は済まされましたか?」
「まだ。ここで食べてもいいかな? アレン、きみは?」
「あ、はい。じゃあ、ご一緒させて下さい」
「アル、ヘンリーは?」
「お食事は済まされて、書斎に」
「食べ終わったら行く、って伝えてくれる?」
「承知致しました」と部屋を後にするアルバートを見送って、飛鳥は大あくびをしながら覚束ない足取りでドサリとソファーに身を投げだした。気怠げにもたれかかっているのに、その口許はいつになく幸せそうにほころばせている。
「昨夜は楽しかったな。教授と、サラと、吉野がいて。仕事抜きで何も考えずに遊んでたんだ」
恍惚として室内を眺める飛鳥の向かいに、アレンも腰をおろす。
「遊んでいたのですか? 数字で?」
「きみのペン、吉野と教授が気に入っていたよ。空間を埋めていくのが楽しくてさ、こんな風になってしまった。教授のだす問題をね、吉野とサラとで競って解きあっていたんだ」
「それで途中から姿が見えなかったのですね」
「ごめん」
いいえ、とアレンは笑みを湛えたまま首を振る。どのみち知っていたとしても自分には加われなかっただろう。吉野や飛鳥が楽しかったと言うのならそれでいい。日常の延長線上に仕事があるのか、仕事の合間に日常があるのか判らないような二人に、「仕事抜き」と言えるような時間が持てたのならそれで良かった。
自分には入りこめない彼らの楽しみの残影を眺め、アレンはいくばくかの淋しさを覚えつつも、笑みを絶やさず飛鳥の話に耳を傾けていた。アレンにも解るように、飛鳥は簡単な概要と吉野やサラ、ハワード教授のそれぞれの反応だけを面白おかしく語ってくれた。
「僕たちの婚約披露のために集まってもらっているっていうのに、つい趣旨を忘れてたよ」
苦笑しながら飛鳥は肩をすくめる。
「皆、楽しんでいました。久しぶりにお逢いできた方もいましたし、僕も嬉しかった」
アレンはスイスとドイツのルベリーニ一族の結婚式以来、何年かぶりに逢うロレンツォや飛鳥の父を思い、目を細めた。それにこんな機会でなければ吉野やサウードの顔を見ることすらなかなかないのだ。初めてお会いした吉野の師事するハワード教授にしろ……。昨夜のパーティーは、アレンの知らない吉野の一面を垣間見る機会でもあったのだ。
「あいつは殿下のところへ行ったんだって? 忙しいな、あいつも」
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「晩餐には戻るそうですよ」
「本当に帰ってくるかどうか、怪しいもんだよ。吉野だもの」
満足気な表情から一変して、くっと口許を歪めた飛鳥の面に浮かんだのは、諦めか、焦燥か――。その明らかな不信の色合いに、アレンは驚いたように目を瞠って彼を見つめていた。
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