胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
604 / 758
九章

しおりを挟む
「それでいいの?」
 ケンブリッジの自宅でヘンリーを待っていたのは、眉間に皺を寄せた仏頂面のデヴィッドだった。寒空の下、車の到着を待ちかまえるかのように玄関のドアにもたれかかっていた彼を前にして、ヘンリーは軽く肩をすくめた。
「マーカスはまだ戻っていないのかい? 入れない、ってわけではないんだろう?」

 デヴィッドの腹立たしげな視線をかわし、ヘンリーは玄関を通りぬける。その背中に、デヴィッドは畳みかけるように繰り返す。
「ヘンリー、僕には理解できない。きみはどこまで嘘を通すつもりなの? サラまで巻きこんで」
「心外だな、巻きこんだなんて。きみはあの二人を祝福してくれないの? 似合いのカップルなのに」
「ヘンリー!」
 カツンと靴音を立て、ヘンリーは振り返った。
「デイヴ、誤解しないで。これは政略結婚なんかじゃない。アスカは心からサラを愛しているし、サラもそうだよ。僕は二人を祝福している。本心からね」
「嘘つき!」

 顔を紅潮させ、掴みかかろうと伸ばされたその腕を避け、ヘンリーはデヴィッドを抱きしめた。息を呑み硬直する彼の中に、ヘンリーの強く力の籠った腕や指の先から、やるせなさが、じんわりと染み入るように流れこんでくる。

「愛の形はひとつではないだろう? これでいいんだよ。きみが知っていてくれる。それだけで僕は救われる」
「そんなに苦しいのに……?」
「きみが僕の代わりに泣いてくれた。覚えているだろ?」

 あの日に終わっているのだ。こんな想いは。あの、すべてを暴きたてる夏の日差しの下、崩れ落ちた石塀の陰に捨てたのだ。甘やかな思い出はすべて。

「終わっていないから苦しいんじゃないか」

 自分に縋りつくヘンリーを抱きしめ返すことも、宥めることもできないまま、デヴィッドは両脇にだらりとおろしている掌を、ぐっと握りこむ。

「それでも」

 ふわりと腕を緩めて身体を離したヘンリーは、静かな微笑を湛えてデヴィッドを見つめた。唇を厳しくへの字に結んだまま、今度はデヴィッドの方が、そんな彼から視線を逸らす。
 
 ヘンリーは変わらない。どこまでも、ヘンリー・ソールスベリーなのだ。それでも彼は、そんな自分を誰にも晒すことなく歩み続けるのだ。これまでそうであったように、これからも――。

 その事実が今ほど悔しく、哀しかったことはない。

「ありがとう」
 デヴィッドは顔を背けたまま、呟いた。
「初めて僕に甘えてくれたね」
「そうかな? 僕はこれまでだって、ずいぶんきみを頼ってきたつもりだけど」

 ヘンリーの穏やかな微笑を、デヴィッドは拗ねた子どものように唇を尖らせてちらりと見やる。

「僕はきみの横を歩けている?」
「気づかなかった?」
「――お茶を淹れてあげるよ。段取りを聞かなきゃ。ああ、もう、アスカちゃんはまだ向こうに残っているの? あれこれやらなきゃいけないことが立てこんでいるってのに!」


 文句の矛先を飛鳥に変え、デヴィッドは毅然と背筋を伸ばした。

 その決意が正しいものかどうかは判らない。きっと、ヘンリーにだって判らないのだろう。だがもう翻ることはない。それだけは確かだと納得したのだ。
 ヘンリーがそれでいいと決めたのであれば。それに従い滞りなく進行させるのが自分の務めであると、デヴィッドは心得ているのだ。それ以外に自分にできることはない、ということも。




「こうして、変わっていくんだねぇ、きみも、アレンも――」
「アレン?」

 自分との引き合いに出された弟の名に、ヘンリーは訝しげにちらりとデヴィッドに目をやった。淹れたばかりの香しい紅茶を堪能しながら話すデヴィッドは、さきほどまでの感情の高まりをすでに抑え、のんびりしたいつものペースに戻っている。

「ヨシノやきみが米国に行ったのは、フェイラー家の後継者問題に絡んでのことだろう、って訊かれたよ。ラザフォード家は、自分とキャルのどちらを望むか、って。最初はお人形みたいに可愛いだけの子だと思っていたのにねぇ。そんなことに気が回るようになっていたなんてね。きみの教育の賜物かな?」

 手にしていたティーカップをソーサーに戻し、ヘンリーは思案げに瞼を伏せた。

「きみはどう応えたの?」
「知らないし、知っていても、ラザフォードの意向は僕の口からは語れない、それしか言えないだろ?」
「あの子、知っているのかな――」
「キャルの実父?」

 表情を引き締めたヘンリーに、デヴィッドは当然のことのように尋ね返す。

「以前のあの子は、自分の優位を微塵も疑っていなかった」
 
 記憶を探るように、ヘンリーはその目を細める。

「ヨシノ?」

 ではないだろう。彼は障害を覆い隠し、取り除きこそすれ、わざわざアレンにショックを与えるような真似はしない。となると、

「キングスリーか……」

 デヴィッドはこくりとお茶を飲んだ。

「さすがにあのフランクの弟だけのことはあるねぇ。情報収集能力が半端じゃないよ。いや、それ以上に知り得た情報を分析して、推理する才能かなぁ」

 くすくすと、ヘンリーの口からも笑い声が零れ落ちる。

「まいったな。彼の優秀さは買っていたつもりだったけれど、これほどとはね……。それで?」

 それを知ってアレンはどうしようと言うのだ?

「本人に訊いてみなよ。あの子が本当に知りたいのは、ラザフォードではなくて、きみの腹の内だろ?」

 ヘンリーの問いかけるような瞳に、デヴィッドはにっと笑って、大袈裟に肩をすくめてみせた。





しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。 そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ナースコール

wawabubu
青春
腹膜炎で緊急手術になったおれ。若い看護師さんに剃毛されるが…

アイドルグループの裏の顔 新人アイドルの洗礼

甲乙夫
恋愛
清純な新人アイドルが、先輩アイドルから、強引に性的な責めを受ける話です。

処理中です...