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九章
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「それでいいの?」
ケンブリッジの自宅でヘンリーを待っていたのは、眉間に皺を寄せた仏頂面のデヴィッドだった。寒空の下、車の到着を待ちかまえるかのように玄関のドアにもたれかかっていた彼を前にして、ヘンリーは軽く肩をすくめた。
「マーカスはまだ戻っていないのかい? 入れない、ってわけではないんだろう?」
デヴィッドの腹立たしげな視線をかわし、ヘンリーは玄関を通りぬける。その背中に、デヴィッドは畳みかけるように繰り返す。
「ヘンリー、僕には理解できない。きみはどこまで嘘を通すつもりなの? サラまで巻きこんで」
「心外だな、巻きこんだなんて。きみはあの二人を祝福してくれないの? 似合いのカップルなのに」
「ヘンリー!」
カツンと靴音を立て、ヘンリーは振り返った。
「デイヴ、誤解しないで。これは政略結婚なんかじゃない。アスカは心からサラを愛しているし、サラもそうだよ。僕は二人を祝福している。本心からね」
「嘘つき!」
顔を紅潮させ、掴みかかろうと伸ばされたその腕を避け、ヘンリーはデヴィッドを抱きしめた。息を呑み硬直する彼の中に、ヘンリーの強く力の籠った腕や指の先から、やるせなさが、じんわりと染み入るように流れこんでくる。
「愛の形はひとつではないだろう? これでいいんだよ。きみが知っていてくれる。それだけで僕は救われる」
「そんなに苦しいのに……?」
「きみが僕の代わりに泣いてくれた。覚えているだろ?」
あの日に終わっているのだ。こんな想いは。あの、すべてを暴きたてる夏の日差しの下、崩れ落ちた石塀の陰に捨てたのだ。甘やかな思い出はすべて。
「終わっていないから苦しいんじゃないか」
自分に縋りつくヘンリーを抱きしめ返すことも、宥めることもできないまま、デヴィッドは両脇にだらりとおろしている掌を、ぐっと握りこむ。
「それでも」
ふわりと腕を緩めて身体を離したヘンリーは、静かな微笑を湛えてデヴィッドを見つめた。唇を厳しくへの字に結んだまま、今度はデヴィッドの方が、そんな彼から視線を逸らす。
ヘンリーは変わらない。どこまでも、ヘンリー・ソールスベリーなのだ。それでも彼は、そんな自分を誰にも晒すことなく歩み続けるのだ。これまでそうであったように、これからも――。
その事実が今ほど悔しく、哀しかったことはない。
「ありがとう」
デヴィッドは顔を背けたまま、呟いた。
「初めて僕に甘えてくれたね」
「そうかな? 僕はこれまでだって、ずいぶんきみを頼ってきたつもりだけど」
ヘンリーの穏やかな微笑を、デヴィッドは拗ねた子どものように唇を尖らせてちらりと見やる。
「僕はきみの横を歩けている?」
「気づかなかった?」
「――お茶を淹れてあげるよ。段取りを聞かなきゃ。ああ、もう、アスカちゃんはまだ向こうに残っているの? あれこれやらなきゃいけないことが立てこんでいるってのに!」
文句の矛先を飛鳥に変え、デヴィッドは毅然と背筋を伸ばした。
その決意が正しいものかどうかは判らない。きっと、ヘンリーにだって判らないのだろう。だがもう翻ることはない。それだけは確かだと納得したのだ。
ヘンリーがそれでいいと決めたのであれば。それに従い滞りなく進行させるのが自分の務めであると、デヴィッドは心得ているのだ。それ以外に自分にできることはない、ということも。
「こうして、変わっていくんだねぇ、きみも、アレンも――」
「アレン?」
自分との引き合いに出された弟の名に、ヘンリーは訝しげにちらりとデヴィッドに目をやった。淹れたばかりの香しい紅茶を堪能しながら話すデヴィッドは、さきほどまでの感情の高まりをすでに抑え、のんびりしたいつものペースに戻っている。
「ヨシノやきみが米国に行ったのは、フェイラー家の後継者問題に絡んでのことだろう、って訊かれたよ。ラザフォード家は、自分とキャルのどちらを望むか、って。最初はお人形みたいに可愛いだけの子だと思っていたのにねぇ。そんなことに気が回るようになっていたなんてね。きみの教育の賜物かな?」
手にしていたティーカップをソーサーに戻し、ヘンリーは思案げに瞼を伏せた。
「きみはどう応えたの?」
「知らないし、知っていても、ラザフォードの意向は僕の口からは語れない、それしか言えないだろ?」
「あの子、知っているのかな――」
「キャルの実父?」
表情を引き締めたヘンリーに、デヴィッドは当然のことのように尋ね返す。
「以前のあの子は、自分の優位を微塵も疑っていなかった」
記憶を探るように、ヘンリーはその目を細める。
「ヨシノ?」
ではないだろう。彼は障害を覆い隠し、取り除きこそすれ、わざわざアレンにショックを与えるような真似はしない。となると、
「キングスリーか……」
デヴィッドはこくりとお茶を飲んだ。
「さすがにあのフランクの弟だけのことはあるねぇ。情報収集能力が半端じゃないよ。いや、それ以上に知り得た情報を分析して、推理する才能かなぁ」
くすくすと、ヘンリーの口からも笑い声が零れ落ちる。
「まいったな。彼の優秀さは買っていたつもりだったけれど、これほどとはね……。それで?」
それを知ってアレンはどうしようと言うのだ?
「本人に訊いてみなよ。あの子が本当に知りたいのは、ラザフォードではなくて、きみの腹の内だろ?」
ヘンリーの問いかけるような瞳に、デヴィッドはにっと笑って、大袈裟に肩をすくめてみせた。
ケンブリッジの自宅でヘンリーを待っていたのは、眉間に皺を寄せた仏頂面のデヴィッドだった。寒空の下、車の到着を待ちかまえるかのように玄関のドアにもたれかかっていた彼を前にして、ヘンリーは軽く肩をすくめた。
「マーカスはまだ戻っていないのかい? 入れない、ってわけではないんだろう?」
デヴィッドの腹立たしげな視線をかわし、ヘンリーは玄関を通りぬける。その背中に、デヴィッドは畳みかけるように繰り返す。
「ヘンリー、僕には理解できない。きみはどこまで嘘を通すつもりなの? サラまで巻きこんで」
「心外だな、巻きこんだなんて。きみはあの二人を祝福してくれないの? 似合いのカップルなのに」
「ヘンリー!」
カツンと靴音を立て、ヘンリーは振り返った。
「デイヴ、誤解しないで。これは政略結婚なんかじゃない。アスカは心からサラを愛しているし、サラもそうだよ。僕は二人を祝福している。本心からね」
「嘘つき!」
顔を紅潮させ、掴みかかろうと伸ばされたその腕を避け、ヘンリーはデヴィッドを抱きしめた。息を呑み硬直する彼の中に、ヘンリーの強く力の籠った腕や指の先から、やるせなさが、じんわりと染み入るように流れこんでくる。
「愛の形はひとつではないだろう? これでいいんだよ。きみが知っていてくれる。それだけで僕は救われる」
「そんなに苦しいのに……?」
「きみが僕の代わりに泣いてくれた。覚えているだろ?」
あの日に終わっているのだ。こんな想いは。あの、すべてを暴きたてる夏の日差しの下、崩れ落ちた石塀の陰に捨てたのだ。甘やかな思い出はすべて。
「終わっていないから苦しいんじゃないか」
自分に縋りつくヘンリーを抱きしめ返すことも、宥めることもできないまま、デヴィッドは両脇にだらりとおろしている掌を、ぐっと握りこむ。
「それでも」
ふわりと腕を緩めて身体を離したヘンリーは、静かな微笑を湛えてデヴィッドを見つめた。唇を厳しくへの字に結んだまま、今度はデヴィッドの方が、そんな彼から視線を逸らす。
ヘンリーは変わらない。どこまでも、ヘンリー・ソールスベリーなのだ。それでも彼は、そんな自分を誰にも晒すことなく歩み続けるのだ。これまでそうであったように、これからも――。
その事実が今ほど悔しく、哀しかったことはない。
「ありがとう」
デヴィッドは顔を背けたまま、呟いた。
「初めて僕に甘えてくれたね」
「そうかな? 僕はこれまでだって、ずいぶんきみを頼ってきたつもりだけど」
ヘンリーの穏やかな微笑を、デヴィッドは拗ねた子どものように唇を尖らせてちらりと見やる。
「僕はきみの横を歩けている?」
「気づかなかった?」
「――お茶を淹れてあげるよ。段取りを聞かなきゃ。ああ、もう、アスカちゃんはまだ向こうに残っているの? あれこれやらなきゃいけないことが立てこんでいるってのに!」
文句の矛先を飛鳥に変え、デヴィッドは毅然と背筋を伸ばした。
その決意が正しいものかどうかは判らない。きっと、ヘンリーにだって判らないのだろう。だがもう翻ることはない。それだけは確かだと納得したのだ。
ヘンリーがそれでいいと決めたのであれば。それに従い滞りなく進行させるのが自分の務めであると、デヴィッドは心得ているのだ。それ以外に自分にできることはない、ということも。
「こうして、変わっていくんだねぇ、きみも、アレンも――」
「アレン?」
自分との引き合いに出された弟の名に、ヘンリーは訝しげにちらりとデヴィッドに目をやった。淹れたばかりの香しい紅茶を堪能しながら話すデヴィッドは、さきほどまでの感情の高まりをすでに抑え、のんびりしたいつものペースに戻っている。
「ヨシノやきみが米国に行ったのは、フェイラー家の後継者問題に絡んでのことだろう、って訊かれたよ。ラザフォード家は、自分とキャルのどちらを望むか、って。最初はお人形みたいに可愛いだけの子だと思っていたのにねぇ。そんなことに気が回るようになっていたなんてね。きみの教育の賜物かな?」
手にしていたティーカップをソーサーに戻し、ヘンリーは思案げに瞼を伏せた。
「きみはどう応えたの?」
「知らないし、知っていても、ラザフォードの意向は僕の口からは語れない、それしか言えないだろ?」
「あの子、知っているのかな――」
「キャルの実父?」
表情を引き締めたヘンリーに、デヴィッドは当然のことのように尋ね返す。
「以前のあの子は、自分の優位を微塵も疑っていなかった」
記憶を探るように、ヘンリーはその目を細める。
「ヨシノ?」
ではないだろう。彼は障害を覆い隠し、取り除きこそすれ、わざわざアレンにショックを与えるような真似はしない。となると、
「キングスリーか……」
デヴィッドはこくりとお茶を飲んだ。
「さすがにあのフランクの弟だけのことはあるねぇ。情報収集能力が半端じゃないよ。いや、それ以上に知り得た情報を分析して、推理する才能かなぁ」
くすくすと、ヘンリーの口からも笑い声が零れ落ちる。
「まいったな。彼の優秀さは買っていたつもりだったけれど、これほどとはね……。それで?」
それを知ってアレンはどうしようと言うのだ?
「本人に訊いてみなよ。あの子が本当に知りたいのは、ラザフォードではなくて、きみの腹の内だろ?」
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