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九章
決意1
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煌びやかな装いの紳士淑女の輪の中にひときわ華やかな輝きを放つ見慣れた男を見つけて、吉野は思わず舌打ちをして背中を向けた。まさかここで、彼が毛嫌いしているこの屋敷で遇うことになろうとは予想していなかったのだ。
今はまだ逢いたくない。
だが吉野は、いったんは踵を返した足先を再度向け直す。取り囲む誰彼と談笑しながらさり気なく自分を探している様子の彼に、苦笑を湛えつつゆっくりと歩みよる。
ヘンリー自らこんなところまで出向いてきているのだ。よほどの要件があるに違いない。やはり逃げだすわけにはいかない、そう思い直したのだ。
室内の喧騒から逃れるために、彼は吉野をひと気のないバルコニーへと誘った。そこで、わざわざ米国の敵対している彼の祖父、ベンジャミン・フェイラーの夜会にまで自分に逢いにきた理由を聞き、吉野はヘンリーを慮ることなく、思いきり顔をしかめた。
「何やってんだよ、あんたらしくもない」
冷めた一瞥と皮肉げに歪められた唇が、追い打ちをかける。
「それにしたって何考えてんだよ、飛鳥の奴……」
だがヘンリーの予想通り、吉野の瞳はすぐに怒りよりも不安を色濃く映し、考えこむように細められている。
「僕の方こそ問い質したい質問だね。彼だけでなくきみにもね」
欄干に腰を預けたヘンリーは、逆向きに肘をつき暗闇に沈む庭園を眺めている吉野の横顔に一瞥を返す。
「飛鳥、俺のことを怒ってんの?」
とつとつとした口調で、吉野は眼前に広がる闇に向かって呟いた。
「どうだろうね。僕に対して怒りが収まらないのは理解できたけれどね。僕にだって彼の本心は見えないよ」
ヘンリーもガラス越しに見える室内を行き交う顔ぶれに、見るともなしに目を据えている。
「まいったな」
欄干に置いた腕に頭を沈め、吉野は思いきり深いため息をついた。
「日本だなんて……。あの家じゃ、まともな警備なんてできやしないのに。だいたいもう俺たちの家なんて、会社の寮になってんだぞ。飛鳥だって知らないわけじゃないのに」
飛鳥が日本をでてから六年、吉野が実家を離れてすでに五年の歳月が経っているのだ。その間に日本の『杜月』も彼らの実家も様変わりしている。英国のアーカシャー本社からの駐在社員のため、本所の実家は社員寮として機能しているのだ。飛鳥や吉野の部屋もすでにない。もう気楽に帰れるような実家ではないのだ。帰るとなれば、それこそ住居を探すことから始めなければならない。
「飛鳥はなんでああなんだろうな。自覚がなさすぎるんだよ」
吉野のボヤキに、ヘンリーは苦笑気味に応じる。
「それはきみが、彼に現実を教えようとしなかったからさ」
「俺のせいかよ!あんたの方だろ!」
現実のしがらみに囚われることなく開発に勤しんで欲しい。そんな周囲の想いが、飛鳥を世事に疎い浮世離れした性格にしてしまったわけではない。そんなことは吉野が一番良く知っている。だが、突然予期しないことを言いだされると、つい、「お前のせいだ」と、横にいるこのとり澄ました男のせいにしたくなる。
八つ当たりだと自覚しながら吉野はしかめっ面をして、あれこれ思考を巡らせていた。
飛鳥が日本に帰りたがっている。『杜月』で働きたいと言うのなら、それはそれでかまわないのだ。だが今はまずい。あの無防備な日本で今のヘンリーの館ほどの警備を備え、日常生活を滞りなく送るための警護システムを用意するには、それなりの時間が欲しかった。
飛鳥を引き留めて欲しいヘンリーの思惑とは裏腹に、吉野の脳内では、飛鳥の希望を叶えるための段取り計算が始まっている。
「でもそれってさ、一時帰国? それとも飛鳥はずっと『杜月』に戻りたいの?」
吉野は、根本的な疑問を投げかけた。自分に対する苛立ちから、たんに里心がついただけなのか、それとも、昔のような生活に戻りたいと望んでいるのか――。言われてみれば、吉野が英国に来てから飛鳥は一度も帰国していないのだ。それを望んだからと言って、ヘンリーや自分とは関係ないのでは、とさえ思えてくる。
「しばらく、とは言っていたけどね」
ヘンリーは語尾を濁して視線を漂わす。
「休みをくれ、とは言わなかった。ただ帰りたいとだけ」
「そんな大事なことを賭けで決めるなんて。あんた最近、腑抜けてるんじゃないの?」
ようやく吉野はヘンリーを見遣り、くすくすと笑った。ヘンリーは無表情のまま、デイヴの奴、余計なことを――、と心の中で舌打ちを打つ。
「負けると思わなかったんだ」
「あんたらしくないな」
軽く肩をすくめて返すと、吉野はわざとらしくため息をついて頭を振った。
「イカサマしたに決まってるだろ。相手は飛鳥だぞ。あんた相手に正攻法でくるかよ」
わずかに目を瞠ったヘンリーの視界に、吉野のにっと笑う顔が映る。
「その発想はなかったな」
「あんたもまだまだだな」
呆れたように言い放ち、吉野はくるりと向きを変えて欄干に腰かけた。
「飛鳥は自分のことには無頓着だけど、馬鹿じゃない。やっぱりだめだ、まだ日本に帰らせるわけにはいかないよ。解った。俺がなんとかするよ」
室内から漏れる暖色の光に照らされる吉野の面は、ヘンリーには、どこか喜色を湛えているようにさえ映っていた。
今はまだ逢いたくない。
だが吉野は、いったんは踵を返した足先を再度向け直す。取り囲む誰彼と談笑しながらさり気なく自分を探している様子の彼に、苦笑を湛えつつゆっくりと歩みよる。
ヘンリー自らこんなところまで出向いてきているのだ。よほどの要件があるに違いない。やはり逃げだすわけにはいかない、そう思い直したのだ。
室内の喧騒から逃れるために、彼は吉野をひと気のないバルコニーへと誘った。そこで、わざわざ米国の敵対している彼の祖父、ベンジャミン・フェイラーの夜会にまで自分に逢いにきた理由を聞き、吉野はヘンリーを慮ることなく、思いきり顔をしかめた。
「何やってんだよ、あんたらしくもない」
冷めた一瞥と皮肉げに歪められた唇が、追い打ちをかける。
「それにしたって何考えてんだよ、飛鳥の奴……」
だがヘンリーの予想通り、吉野の瞳はすぐに怒りよりも不安を色濃く映し、考えこむように細められている。
「僕の方こそ問い質したい質問だね。彼だけでなくきみにもね」
欄干に腰を預けたヘンリーは、逆向きに肘をつき暗闇に沈む庭園を眺めている吉野の横顔に一瞥を返す。
「飛鳥、俺のことを怒ってんの?」
とつとつとした口調で、吉野は眼前に広がる闇に向かって呟いた。
「どうだろうね。僕に対して怒りが収まらないのは理解できたけれどね。僕にだって彼の本心は見えないよ」
ヘンリーもガラス越しに見える室内を行き交う顔ぶれに、見るともなしに目を据えている。
「まいったな」
欄干に置いた腕に頭を沈め、吉野は思いきり深いため息をついた。
「日本だなんて……。あの家じゃ、まともな警備なんてできやしないのに。だいたいもう俺たちの家なんて、会社の寮になってんだぞ。飛鳥だって知らないわけじゃないのに」
飛鳥が日本をでてから六年、吉野が実家を離れてすでに五年の歳月が経っているのだ。その間に日本の『杜月』も彼らの実家も様変わりしている。英国のアーカシャー本社からの駐在社員のため、本所の実家は社員寮として機能しているのだ。飛鳥や吉野の部屋もすでにない。もう気楽に帰れるような実家ではないのだ。帰るとなれば、それこそ住居を探すことから始めなければならない。
「飛鳥はなんでああなんだろうな。自覚がなさすぎるんだよ」
吉野のボヤキに、ヘンリーは苦笑気味に応じる。
「それはきみが、彼に現実を教えようとしなかったからさ」
「俺のせいかよ!あんたの方だろ!」
現実のしがらみに囚われることなく開発に勤しんで欲しい。そんな周囲の想いが、飛鳥を世事に疎い浮世離れした性格にしてしまったわけではない。そんなことは吉野が一番良く知っている。だが、突然予期しないことを言いだされると、つい、「お前のせいだ」と、横にいるこのとり澄ました男のせいにしたくなる。
八つ当たりだと自覚しながら吉野はしかめっ面をして、あれこれ思考を巡らせていた。
飛鳥が日本に帰りたがっている。『杜月』で働きたいと言うのなら、それはそれでかまわないのだ。だが今はまずい。あの無防備な日本で今のヘンリーの館ほどの警備を備え、日常生活を滞りなく送るための警護システムを用意するには、それなりの時間が欲しかった。
飛鳥を引き留めて欲しいヘンリーの思惑とは裏腹に、吉野の脳内では、飛鳥の希望を叶えるための段取り計算が始まっている。
「でもそれってさ、一時帰国? それとも飛鳥はずっと『杜月』に戻りたいの?」
吉野は、根本的な疑問を投げかけた。自分に対する苛立ちから、たんに里心がついただけなのか、それとも、昔のような生活に戻りたいと望んでいるのか――。言われてみれば、吉野が英国に来てから飛鳥は一度も帰国していないのだ。それを望んだからと言って、ヘンリーや自分とは関係ないのでは、とさえ思えてくる。
「しばらく、とは言っていたけどね」
ヘンリーは語尾を濁して視線を漂わす。
「休みをくれ、とは言わなかった。ただ帰りたいとだけ」
「そんな大事なことを賭けで決めるなんて。あんた最近、腑抜けてるんじゃないの?」
ようやく吉野はヘンリーを見遣り、くすくすと笑った。ヘンリーは無表情のまま、デイヴの奴、余計なことを――、と心の中で舌打ちを打つ。
「負けると思わなかったんだ」
「あんたらしくないな」
軽く肩をすくめて返すと、吉野はわざとらしくため息をついて頭を振った。
「イカサマしたに決まってるだろ。相手は飛鳥だぞ。あんた相手に正攻法でくるかよ」
わずかに目を瞠ったヘンリーの視界に、吉野のにっと笑う顔が映る。
「その発想はなかったな」
「あんたもまだまだだな」
呆れたように言い放ち、吉野はくるりと向きを変えて欄干に腰かけた。
「飛鳥は自分のことには無頓着だけど、馬鹿じゃない。やっぱりだめだ、まだ日本に帰らせるわけにはいかないよ。解った。俺がなんとかするよ」
室内から漏れる暖色の光に照らされる吉野の面は、ヘンリーには、どこか喜色を湛えているようにさえ映っていた。
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