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九章
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「ポーカーで負けた!」
窓越しに広がるどんよりと重い鈍色の空を背にしたヘンリーは、ぷいと露骨に顔を逸らした。糾弾を避けようと、あらぬ方向へ視線を彷徨わせている。だがデヴィッドは、そんな彼に容赦ない罵倒を浴びせ続けている。
「よりによって新事業を立ちあげてこれからって時に喧嘩して、長期休暇を許可しただなんて、もちろん冗談で言っているんだよね、きみ!」
「喧嘩したわけではないよ」
その方がどれほどましか――。一方的に宣言され、いきなり断ち切られたのだ。冗談だろ? と言いたいのは自分の方だ、とヘンリーは内心臍を嚙んでいる。
「なにやってるんだよ、きみらしくもない!」
長年のつきあいだけあって、デヴィッドの反応は予想通り容赦ない。だが、呆れられるのは覚悟の上で彼を呼んだのは、こうして自分を叱咤して貰うためではないのだ。ヘンリーはぐっと腹に力を入れ、執務机に手をついて自分に渋面を向けている彼に向きあった。
「解っている。そう言わないでくれ、これでも反省しているんだ」
率直に見つめ返すセレストブルーにデヴィッドは少し安堵して、口を噤んで机の端に腰かけた。
経緯を聞けば、してやられた、としか思えなかった。ゲームを受けた時点でヘンリーの負けだ。飛鳥にしてみれば、勝ち負けなど問題でなかったのだから。仮にヘンリーが勝っていたにせよ、彼が飛鳥に望むことなど知れている。許しを請い、今まで通りの信頼を取り戻すことしかない。その信頼をカードで取り戻す、という誘惑に負けたヘンリーの愚かさが敗因だ。飛鳥はただ自分の怒りをヘンリーに知らしめ、ぶつけたかったにすぎないのだから。
「まぁ、きみばかりを責められないのは僕だって解ってるよ」
デヴィッドの吐息交じりの声には、若干の苦々しさが含まれている。
「あの二人、どうしてああもとんでもないところで兄弟なのかな? あれがコウゾー氏の血のなせる技? 遺伝子も甘くは見れないな」
苦笑するヘンリーに、デヴィッドは笑うに笑えない気分で顔をしかめて言い返した。
「それはきみたちも同じ。きみも、アレンもキャルも、いったいどうしたんだ、てくらいトヅキ兄弟に弱いじゃないか」
「キャル?」
久しぶりに聞くその名前を繰り返すと、ヘンリーは訝しげな視線でもって詳細を催促した。
「知らないの?」
デヴィッドはまたも素っ頓狂な声をあげる。そしてすぐに、ピンと指を弾いて呼びだしたTS画面を、ついっと引っ張ってヘンリーの眼前に示した。
そこに映しだされた、米国に住む妹と吉野が並び立つスナップ写真、それに付随するゴシップ記事に、ヘンリーは我慢しきれず失笑を漏らす。
「あの子、今度は何をしでかすつもりなんだい? キャルなんかにかまってどういうつもりだろう?」
「まさか、こうも堂々とフェイラーの懐に飛びこんでいくなんて想像もしなかった、ってアーニーがボヤいていたよ。マシュリク国石油鉱物資源相補佐官の肩書きじゃ、あの狸爺もそうそう無下には扱えないんだろうねぇ」
呆れ返った様子で大袈裟に言いながらも、デヴィッドは吉野の身の安全を心底心配しているのだ。ヘンリーは彼の不安を紛らわそうと、にこやかな笑みで空中に浮かぶ画面を指先で弾く。
「それにしてもこの記事、けっこう真実なんじゃないのかい? 『あんたよりあんたの弟の方が百倍可愛い』って! いかにもあの子が言いそうなセリフじゃないか! 久しぶりに笑ったよ!」
フレデリックの小説は、米国でも発売されているのだ。英国内ほどの知名度はないが、権威と伝統に守られた階級制度に支配される取り澄まされた別世界であるパブリックスクールを舞台に、暴力とドラッグに汚染された権力構造に立ち向かう少年たちの物語として、好評を博していると聞いている。
デヴィッドの見せた記事も、フレデリックのこの新作小説に関連したものだ。なにかのレセプション会場で顔を合わせた二人を中心にこの小説の話題があがった折、モデルとして取り沙汰されているアレンと吉野の、友情以上の感情のやり取りを示唆する内容に嫌悪感をしめしたキャルに対して、吉野が数多の彼女の取り巻き連中の前で、彼女の弟であるアレンの方が、彼女よりもよほど魅力的な存在であると言い切った、というものだ。
「それに対する彼女の反応がね。怒りと羞恥で震えるだけで、なにも言い返せなかったっていうんだからね、あの高慢な娘が!」
ちらりと向けられたデヴィッドの瞳には、ヘンリーに対する嫌味ももちろん含まれている。気づきはしたが、ヘンリーは素知らぬ顔を通して、類似の記事はないかと検索をかけている。
「あの子――、ヨシノはなんのために米国へ行ったのだろうね? アスカやアレンは知っているの?」
「さぁ? 僕だって向こうにいるアーニーからこの記事を送ってもらって、初めてあの子が米国にいるって知ったくらいだよ」
唇を尖らせて首を傾げるデヴィッドを、ヘンリーは黙ったままじっと見つめる。
「僕はお断りだよ、アスカちゃんを思い留まらせるなんて、僕にはできないからね」
ヘンリーが口を開く前に先手を打って、デヴィッドは苦々しげに告げた。
「アスカちゃんが日本に帰るなら、僕もついて行く。彼なしでこのプロジェクトを遂行するなんて無理だからね。ネット会議だなんて画面越しのやりとりなんてまどろっこしいこと、やってられない!」
「――きみは、彼の味方なの?」
「その逆! 今回の件は僕の責任でもあるんだから、僕なりに責任を取るって言ってるんだよ! アスカちゃんの気が済むまでつきあう、そういう事!」
小説の中には書かれていない真実。誰が吉野を金融界に引き戻すきっかけを作ったか、を問われるなら、それは間違いなく自分だとデヴィッドは思っている。自分がヘンリーの真意を吉野に伝えなかった。そこから生じた誤解が、周囲を巻きこんだ騒動に発展していった事実は疑いようがないのだ。
だが、ヘンリーは飛鳥に対してそんな言い訳はしない。デヴィッドが真実を告げたところで、彼の怒りの矛先は変わらないだろうと思っている。本当は、飛鳥にだって解っているのだ。吉野は戻るべくして戻った。誰にも止めようがなかったのだということを。
甘えているのだ、僕に。
解ってはいる――。
「帰国は許さないよ。彼の本当の望みはそんなことじゃないだろう?」
ヘンリーは机に肘をつき、組んだ両手の上に顎をのせて空中画面を凝視したまま、静かに呟いた。
窓越しに広がるどんよりと重い鈍色の空を背にしたヘンリーは、ぷいと露骨に顔を逸らした。糾弾を避けようと、あらぬ方向へ視線を彷徨わせている。だがデヴィッドは、そんな彼に容赦ない罵倒を浴びせ続けている。
「よりによって新事業を立ちあげてこれからって時に喧嘩して、長期休暇を許可しただなんて、もちろん冗談で言っているんだよね、きみ!」
「喧嘩したわけではないよ」
その方がどれほどましか――。一方的に宣言され、いきなり断ち切られたのだ。冗談だろ? と言いたいのは自分の方だ、とヘンリーは内心臍を嚙んでいる。
「なにやってるんだよ、きみらしくもない!」
長年のつきあいだけあって、デヴィッドの反応は予想通り容赦ない。だが、呆れられるのは覚悟の上で彼を呼んだのは、こうして自分を叱咤して貰うためではないのだ。ヘンリーはぐっと腹に力を入れ、執務机に手をついて自分に渋面を向けている彼に向きあった。
「解っている。そう言わないでくれ、これでも反省しているんだ」
率直に見つめ返すセレストブルーにデヴィッドは少し安堵して、口を噤んで机の端に腰かけた。
経緯を聞けば、してやられた、としか思えなかった。ゲームを受けた時点でヘンリーの負けだ。飛鳥にしてみれば、勝ち負けなど問題でなかったのだから。仮にヘンリーが勝っていたにせよ、彼が飛鳥に望むことなど知れている。許しを請い、今まで通りの信頼を取り戻すことしかない。その信頼をカードで取り戻す、という誘惑に負けたヘンリーの愚かさが敗因だ。飛鳥はただ自分の怒りをヘンリーに知らしめ、ぶつけたかったにすぎないのだから。
「まぁ、きみばかりを責められないのは僕だって解ってるよ」
デヴィッドの吐息交じりの声には、若干の苦々しさが含まれている。
「あの二人、どうしてああもとんでもないところで兄弟なのかな? あれがコウゾー氏の血のなせる技? 遺伝子も甘くは見れないな」
苦笑するヘンリーに、デヴィッドは笑うに笑えない気分で顔をしかめて言い返した。
「それはきみたちも同じ。きみも、アレンもキャルも、いったいどうしたんだ、てくらいトヅキ兄弟に弱いじゃないか」
「キャル?」
久しぶりに聞くその名前を繰り返すと、ヘンリーは訝しげな視線でもって詳細を催促した。
「知らないの?」
デヴィッドはまたも素っ頓狂な声をあげる。そしてすぐに、ピンと指を弾いて呼びだしたTS画面を、ついっと引っ張ってヘンリーの眼前に示した。
そこに映しだされた、米国に住む妹と吉野が並び立つスナップ写真、それに付随するゴシップ記事に、ヘンリーは我慢しきれず失笑を漏らす。
「あの子、今度は何をしでかすつもりなんだい? キャルなんかにかまってどういうつもりだろう?」
「まさか、こうも堂々とフェイラーの懐に飛びこんでいくなんて想像もしなかった、ってアーニーがボヤいていたよ。マシュリク国石油鉱物資源相補佐官の肩書きじゃ、あの狸爺もそうそう無下には扱えないんだろうねぇ」
呆れ返った様子で大袈裟に言いながらも、デヴィッドは吉野の身の安全を心底心配しているのだ。ヘンリーは彼の不安を紛らわそうと、にこやかな笑みで空中に浮かぶ画面を指先で弾く。
「それにしてもこの記事、けっこう真実なんじゃないのかい? 『あんたよりあんたの弟の方が百倍可愛い』って! いかにもあの子が言いそうなセリフじゃないか! 久しぶりに笑ったよ!」
フレデリックの小説は、米国でも発売されているのだ。英国内ほどの知名度はないが、権威と伝統に守られた階級制度に支配される取り澄まされた別世界であるパブリックスクールを舞台に、暴力とドラッグに汚染された権力構造に立ち向かう少年たちの物語として、好評を博していると聞いている。
デヴィッドの見せた記事も、フレデリックのこの新作小説に関連したものだ。なにかのレセプション会場で顔を合わせた二人を中心にこの小説の話題があがった折、モデルとして取り沙汰されているアレンと吉野の、友情以上の感情のやり取りを示唆する内容に嫌悪感をしめしたキャルに対して、吉野が数多の彼女の取り巻き連中の前で、彼女の弟であるアレンの方が、彼女よりもよほど魅力的な存在であると言い切った、というものだ。
「それに対する彼女の反応がね。怒りと羞恥で震えるだけで、なにも言い返せなかったっていうんだからね、あの高慢な娘が!」
ちらりと向けられたデヴィッドの瞳には、ヘンリーに対する嫌味ももちろん含まれている。気づきはしたが、ヘンリーは素知らぬ顔を通して、類似の記事はないかと検索をかけている。
「あの子――、ヨシノはなんのために米国へ行ったのだろうね? アスカやアレンは知っているの?」
「さぁ? 僕だって向こうにいるアーニーからこの記事を送ってもらって、初めてあの子が米国にいるって知ったくらいだよ」
唇を尖らせて首を傾げるデヴィッドを、ヘンリーは黙ったままじっと見つめる。
「僕はお断りだよ、アスカちゃんを思い留まらせるなんて、僕にはできないからね」
ヘンリーが口を開く前に先手を打って、デヴィッドは苦々しげに告げた。
「アスカちゃんが日本に帰るなら、僕もついて行く。彼なしでこのプロジェクトを遂行するなんて無理だからね。ネット会議だなんて画面越しのやりとりなんてまどろっこしいこと、やってられない!」
「――きみは、彼の味方なの?」
「その逆! 今回の件は僕の責任でもあるんだから、僕なりに責任を取るって言ってるんだよ! アスカちゃんの気が済むまでつきあう、そういう事!」
小説の中には書かれていない真実。誰が吉野を金融界に引き戻すきっかけを作ったか、を問われるなら、それは間違いなく自分だとデヴィッドは思っている。自分がヘンリーの真意を吉野に伝えなかった。そこから生じた誤解が、周囲を巻きこんだ騒動に発展していった事実は疑いようがないのだ。
だが、ヘンリーは飛鳥に対してそんな言い訳はしない。デヴィッドが真実を告げたところで、彼の怒りの矛先は変わらないだろうと思っている。本当は、飛鳥にだって解っているのだ。吉野は戻るべくして戻った。誰にも止めようがなかったのだということを。
甘えているのだ、僕に。
解ってはいる――。
「帰国は許さないよ。彼の本当の望みはそんなことじゃないだろう?」
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