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九章
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TS立体映像のイベントも終わり、アレンたちもいない夏の間、飛鳥はケム川沿いのラザフォード家のフラットに通って、今までほったらかしたままだった荷物類をすべて片づけた。共有スペースである居間や台所はそのまま使えるので、整理が必要だったのは自分の部屋だけだ。
空いた飛鳥の部屋をフレデリックが、アーネストのもといた部屋をクリスが使うことになったらしい。几帳面なアーネストは、アレンがこのフラットに滞在するようになると自分の使用していた部屋を空け、殺風景な防音室から移ればどうかと勧めたのだが、アレンは気がねなくピアノを弾きたいから、この部屋で寝泊まりさせて欲しいと、申しわけなさそうに断っていた。
だがそれもしばらく経つと、アレンもエリオットの休暇のほとんどは郊外のヘンリーの館ですごす様ようになり、ここに滞在することもなくなった。そのため、部屋の件はなおざりにされたままだったのだ。
だが、大学入学が決まりフラットに住居を移す段になって、音楽レッスン用の防音室ではあまりにも不都合が多いでしょう、と執事のマーカスからインテリアの要望を尋ねられた。おそらくはヘンリーの気遣いなのだろう。アレンも今回はその助言に従った。必要な家具をカタログで選び、ファブリック類を好みのものに変え、快適にすごせるように室内を設えることにした。
そしてこの日、退寮後からほったらかしのままだった荷物の荷解きと部屋を整えるために、飛鳥はアレンと一緒にフラットに到着したところだった。数週間前に訪れたとはいえ、夏場に締めきっていた家の玄関を開けると、ひんやりとした空気が澱んで感じられた。まずは、各階の窓を開けて回ることにする。
最後に、飛鳥は長く主の戻ることのない吉野の部屋の窓を開け放った。戸口に立ちすくんだままのアレンを振り返る。
「どうせ学年末試験にしか帰ってこないんだから、あいつに部屋なんかいらないのに」
アレンは一瞬、不満げに唇を尖らせる。飛鳥はそんな彼をいたわるように、すぐに口許を優しい微笑みに変えた。
「冗談だよ。あいつの帰る家はここだからね。でも、誰かが部屋を移りたいなら遠慮なく言って。いない奴に文句は言わせないから」
飛鳥はアレンの肩をぽんと叩いてこの部屋を後にする。備えつけの家具の他には、吉野の私物なぞこれといって何もないのだ。アレンのように、感傷に囚われることもなかったのだ。
つづいてアレンの部屋になる防音室に、すでに届いている小家具の包装を剥がして設置した。それからカーテンをつけ替える。ベッドも簡易ベッドからちゃんとしたものに買い替えてある。徐々にアレンらしい個性の現れてくるこの部屋に、当の本人よりも飛鳥の方が満足そうな顔をしている。
「それにしても、いかにもきみらしい部屋だね」
飛鳥はぐるりと室内を見回した。白いコルクの床に、壁、家具もファブリックもすべて白。その白い空間の真ん中に艶やかな黒が光るグランドピアノ。
「がちゃがちゃ色が煩いのは疲れるんです」
アレンは黙々と作業を続けている。百号キャンパスに描かれた絵を壁にかけ終えると、二、三歩下がって歪みがないかを確かめる。
「雪景色――。綺麗だね。うちの桜林の東屋の風景かな」
飛鳥の称賛に照れくさそうに振り返り、アレンは心から嬉しそうな笑みをみせた。歩みよって彼の傍らに並んでその絵をまじまじと眺めた飛鳥は、その中に孤独な弟の佇む姿を見つけて息を呑んだ。
「創立祭で出品したんです。すごく評判も良くて。その後、学校からコンクールにも出品していただいて、佳作でしたけれど賞もいただけたんです」
「――そうだったんだ、ちっとも知らなかった。おめでとう」
飛鳥は笑顔を作って、蒼く輝く真冬の絵から夏の陽射しを思わせるアレンの黄金の髪の波打つ面に視線を移す。
「もうヘンリーから話は聞いたかな?」
唐突に飛鳥は話題を変えた。アレンは何のことか判らず小首を傾げている。その仕草がどこか嫋やかで愛らしい小鹿を思わせた。飛鳥は軽く気恥ずかしさを覚えながら話を継いだ。
「新しく立ちあげるTSインテリア部門の映像設計をね、デヴィが指揮を執るんだ。彼、きみにも手伝って欲しいって。ヘンリーもぜひにと言ってる。彼もきみの美術センスを高く評価してるからね」
「あ、デヴィッド卿からそのお話は少し伺いました」
アレンはやっと腑に落ちたようで、何度も頷いた。
「もちろん、やるよね」
真剣な飛鳥の瞳に、アレンは頬を紅潮させて蕩けそうな笑みを浮かべて大きく頷いた。兄ヘンリーの望みと聞いては、返事は「はい」以外にないではないか。滅多にどころか、この兄から自分が評価される日がくるなどと夢にも思ったことがなかったのだ。アレンの顔は思わぬ称賛に緩み放しだ。
そんな彼を見つめ、飛鳥も表情を緩めてにっこりと微笑む。
「少し休憩してお茶にしようか」
「はい」
明るい声が返ってきた。
そうだ、アレンはもっと色んな色彩を知るべきなのだ。この真っ白な部屋を彩るものが、黒いピアノと黒いローブを羽織った吉野の背中だけだなんて――。それでいいはずがない。
この絵の雪に埋もれる東屋の先には、温かな明かりの灯るヘンリーの館があるのだ。絵の中の吉野は描かれていないその館をひとり眺めている。だが、アレンの視線は温かな灯ではなく吉野の背中を見つめている。彼は吉野を通してしか、その視線を通してしか温もりを求めようとしないなんて――。
色のないモノトーンの世界の天使。こんな温かな、淋しげな笑みを刷く天使。
その笑顔を眺めていると、飛鳥は罪悪感に圧し潰れそうになる。それは自分の罪ではないというのに。まして吉野の罪であろうはずもないのに。
この場から逃げるように、飛鳥はドアノブに手をかけた。
「コーヒーと、紅茶、どっちにしよう? 牛乳は買ってきたよね? ホットチョコレートでもいいな」
「いいですね。あ、でも、小鍋を焦がしちゃうと、ヨシノが帰ってきた時に、また怒られちゃうかもしれませんよ」
アレンは、いつだかの飛鳥のしくじりを思いだしたのか、顎に指先をかけてくすくすと笑って言った。
空いた飛鳥の部屋をフレデリックが、アーネストのもといた部屋をクリスが使うことになったらしい。几帳面なアーネストは、アレンがこのフラットに滞在するようになると自分の使用していた部屋を空け、殺風景な防音室から移ればどうかと勧めたのだが、アレンは気がねなくピアノを弾きたいから、この部屋で寝泊まりさせて欲しいと、申しわけなさそうに断っていた。
だがそれもしばらく経つと、アレンもエリオットの休暇のほとんどは郊外のヘンリーの館ですごす様ようになり、ここに滞在することもなくなった。そのため、部屋の件はなおざりにされたままだったのだ。
だが、大学入学が決まりフラットに住居を移す段になって、音楽レッスン用の防音室ではあまりにも不都合が多いでしょう、と執事のマーカスからインテリアの要望を尋ねられた。おそらくはヘンリーの気遣いなのだろう。アレンも今回はその助言に従った。必要な家具をカタログで選び、ファブリック類を好みのものに変え、快適にすごせるように室内を設えることにした。
そしてこの日、退寮後からほったらかしのままだった荷物の荷解きと部屋を整えるために、飛鳥はアレンと一緒にフラットに到着したところだった。数週間前に訪れたとはいえ、夏場に締めきっていた家の玄関を開けると、ひんやりとした空気が澱んで感じられた。まずは、各階の窓を開けて回ることにする。
最後に、飛鳥は長く主の戻ることのない吉野の部屋の窓を開け放った。戸口に立ちすくんだままのアレンを振り返る。
「どうせ学年末試験にしか帰ってこないんだから、あいつに部屋なんかいらないのに」
アレンは一瞬、不満げに唇を尖らせる。飛鳥はそんな彼をいたわるように、すぐに口許を優しい微笑みに変えた。
「冗談だよ。あいつの帰る家はここだからね。でも、誰かが部屋を移りたいなら遠慮なく言って。いない奴に文句は言わせないから」
飛鳥はアレンの肩をぽんと叩いてこの部屋を後にする。備えつけの家具の他には、吉野の私物なぞこれといって何もないのだ。アレンのように、感傷に囚われることもなかったのだ。
つづいてアレンの部屋になる防音室に、すでに届いている小家具の包装を剥がして設置した。それからカーテンをつけ替える。ベッドも簡易ベッドからちゃんとしたものに買い替えてある。徐々にアレンらしい個性の現れてくるこの部屋に、当の本人よりも飛鳥の方が満足そうな顔をしている。
「それにしても、いかにもきみらしい部屋だね」
飛鳥はぐるりと室内を見回した。白いコルクの床に、壁、家具もファブリックもすべて白。その白い空間の真ん中に艶やかな黒が光るグランドピアノ。
「がちゃがちゃ色が煩いのは疲れるんです」
アレンは黙々と作業を続けている。百号キャンパスに描かれた絵を壁にかけ終えると、二、三歩下がって歪みがないかを確かめる。
「雪景色――。綺麗だね。うちの桜林の東屋の風景かな」
飛鳥の称賛に照れくさそうに振り返り、アレンは心から嬉しそうな笑みをみせた。歩みよって彼の傍らに並んでその絵をまじまじと眺めた飛鳥は、その中に孤独な弟の佇む姿を見つけて息を呑んだ。
「創立祭で出品したんです。すごく評判も良くて。その後、学校からコンクールにも出品していただいて、佳作でしたけれど賞もいただけたんです」
「――そうだったんだ、ちっとも知らなかった。おめでとう」
飛鳥は笑顔を作って、蒼く輝く真冬の絵から夏の陽射しを思わせるアレンの黄金の髪の波打つ面に視線を移す。
「もうヘンリーから話は聞いたかな?」
唐突に飛鳥は話題を変えた。アレンは何のことか判らず小首を傾げている。その仕草がどこか嫋やかで愛らしい小鹿を思わせた。飛鳥は軽く気恥ずかしさを覚えながら話を継いだ。
「新しく立ちあげるTSインテリア部門の映像設計をね、デヴィが指揮を執るんだ。彼、きみにも手伝って欲しいって。ヘンリーもぜひにと言ってる。彼もきみの美術センスを高く評価してるからね」
「あ、デヴィッド卿からそのお話は少し伺いました」
アレンはやっと腑に落ちたようで、何度も頷いた。
「もちろん、やるよね」
真剣な飛鳥の瞳に、アレンは頬を紅潮させて蕩けそうな笑みを浮かべて大きく頷いた。兄ヘンリーの望みと聞いては、返事は「はい」以外にないではないか。滅多にどころか、この兄から自分が評価される日がくるなどと夢にも思ったことがなかったのだ。アレンの顔は思わぬ称賛に緩み放しだ。
そんな彼を見つめ、飛鳥も表情を緩めてにっこりと微笑む。
「少し休憩してお茶にしようか」
「はい」
明るい声が返ってきた。
そうだ、アレンはもっと色んな色彩を知るべきなのだ。この真っ白な部屋を彩るものが、黒いピアノと黒いローブを羽織った吉野の背中だけだなんて――。それでいいはずがない。
この絵の雪に埋もれる東屋の先には、温かな明かりの灯るヘンリーの館があるのだ。絵の中の吉野は描かれていないその館をひとり眺めている。だが、アレンの視線は温かな灯ではなく吉野の背中を見つめている。彼は吉野を通してしか、その視線を通してしか温もりを求めようとしないなんて――。
色のないモノトーンの世界の天使。こんな温かな、淋しげな笑みを刷く天使。
その笑顔を眺めていると、飛鳥は罪悪感に圧し潰れそうになる。それは自分の罪ではないというのに。まして吉野の罪であろうはずもないのに。
この場から逃げるように、飛鳥はドアノブに手をかけた。
「コーヒーと、紅茶、どっちにしよう? 牛乳は買ってきたよね? ホットチョコレートでもいいな」
「いいですね。あ、でも、小鍋を焦がしちゃうと、ヨシノが帰ってきた時に、また怒られちゃうかもしれませんよ」
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