胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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八章

夢1

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 灰色の壁に囲まれている狭い室内に、砂嵐が吹き荒れている。
 風が顔に当たるわけでも髪を攫われるわけでもないのに、視界をよぎる細かな砂塵から目を庇い、耳を叩く風音から頭を覆って、男はうずくまっていた。

 砂の匂いがするのだ。
 静寂に恐る恐る目を細めて辺りを窺うと、はてしなく遠い彼方に地平線が見えた。

「動くなよ」

 自分以外誰もいない砂原から、直接鼓膜に声が響く。聴き覚えのある声だった。

 あの悪魔の声。砂漠の魔人だ――。

 男は恐怖に身をすくませてその場にしゃがみこんだまま、地平に昇る真っ赤な太陽を眺めていた。太陽は瞬く間にあれよあれよと空に昇っていく。気のぬけた様子でそれを目で追っていた男は、しばらくして礼拝の時間に気づき立ちあがる。
 頭上高く広がる青く透き通る空にかかる日輪を仰ぐ。だがすぐに片手で面を覆うと、肩を震わせて押し殺した声で笑いだしながら、頭を何度も横に振った。

 ついさっき、礼拝ファジャルを済ませたばかりではないか。いくらなんでも早すぎる。

 ここは政治犯のみを収容する留置場の独房だ。砂漠ではない。頭上にあるのは灰色の天井で、太陽ではない。この先にあるのも地平線の彼方ではない。突き進めばぶち当たるのは灰色の壁のはずだ。

 男は虚ろに足を踏みだした。

 あの亡霊兵士に遭遇したときから、自分の頭がとうにおかしくなっているのは解っている。毎夜襲いかかる悪夢が正常な思考を蝕んでいることも――。

 今、眼前に広がるこの風景も、いかれた頭が見せる幻覚なのだ。



 数歩踏みだした世界がぐらりと揺れた。眩暈とともに視覚が捩れて入れ変わる。見覚えのあるどこかに――。

 剥きだしの黄色い岩壁に見え隠れする同じ色の土壁。四角い連なり。

 記憶の奥に沈めたはずの故郷……。

 男は顔をしかめたまま目を瞠っていた。
 一、二歩後ずさり振り返る。顔にかかる影が何の影なのか確かめるために。

 いく筋もの太いがっしりとした幹が高く聳えたっていた。濃い緑の葉が茂る杉だ。そびえ立つ岩壁が日光を遮り、涼やかな日陰を作りだしている。その岩肌の窪みに、きらきらとせせらぎが流れ落ちている。

 駆けよってその水に手をつけたい衝動に駆られながら、男の足は動かなかった。

 怖かったのだ。
 この蜃気楼が消えてなくなることが……。

 乾いた故郷に水音が響いている。
 記憶の中の我が家の上に、樹々が柔らかな木陰を作っている。
 子らの笑い声までが――、聴こえる。

 洗濯紐にかかった、風にはためく深紅のショールの後ろで、家族が自分の帰りを待っている。

 名を、呼ばれたような気がしたのだ。

 そんなありえない夢を、男は、もう少しだけ見ていたかった。

 自分の故郷に樹などない。
 流れる水など見たこともない。
 黄色く乾いた土壁に空いた木戸をくぐっても、自分を待つ家族なんかいない。

 皆、死んでしまったのだから――。

 男はその場にしゃがみこんで頭を抱えて叫んだ。


「イブリースよ! これがお前のいざなう未来か!」

「そうだ」と鼓膜に直接声が響く。

「俺は今まで一度も、俺の国が、こんな、緑に覆われる夢を、思い描いた事なんて、なかった。想像したことすら――」

 男は、声を詰まらせながら、呟いた。
 顔を覆い、声を殺して、涙を溢れさせながら。

「約束する。必ずお前の土地に緑を茂らせ、お前に繋がる者たちに、平和な日々をもたらすことを。だから安心して、お前は未来の礎になれ」

 静かに淡々と響く柔らかな声に、男は面をあげ、はっきりとした声音で叫び返した。

「もとより死など恐れてはいない。従う相手を違えたことを悔いるだけだ!」

 男は、天を仰いで微笑んだ。

「砂漠のイブリースよ! 問題が一つある。この中にいると礼拝の時間が判らなくなるぞ! 瞬きする間に一日が終わる!」

 岩壁に立つ一本杉にかかる夕陽を目を細めて眺めながら、男は豪快に笑った。

「だが、叶うなら、もうしばらくここに居させて欲しい。時間になったら教えてくれ」

 そう言って、男は乾いた白い道の真ん中に腰をおろして目を瞑る。

 葉擦れの音。水音。風が泣く。

 自分が殺そうとした悪魔の作る未来には、銃声は響かない。
 もうじき終わりを迎える自分の目で、現実となったその世界を見ることができなくとも、自分に連なる誰かがきっとその目で見据えてくれる。

 今、眼前に広がるこの世界で、命を繋ぎ育んでいくのだ。

 穏やかに何も恐れることなく、あるべき姿に戻る未来がきっと来る――。

 
 吉野は、死刑を目前にした死刑囚たちに、彼らの真実望んだ、だが、彼ら自身では思い描くことのできなかった夢を見せたのだ。
 
 
 


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