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八章
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ひんやりとした朝の冷気に、アーネストの目が開く。くるりと寝返りを打てば、窓が開け放たれていて、その手前のティーテーブルでデヴィッドが今まさに芳香を放つ紅茶をカップに注いでいるところだった。楽し気に鼻歌を歌っている弟に思わず頬を緩ませて、彼は「いい香りだね。おはよう、朝からご機嫌だね」と声をかける。
「おはよう、アーニー」
振り返ったデヴィッドは満面の笑みを湛えている。
下心ありありだな――、とアーネストはベッドから起きあがりナイトガウンを羽織る。
「帰ってきていたの? きみはロンドンに泊まりだと思っていたよ」
ナイトテーブルに置かれた時計を一瞥してアーネストは苦笑する。まだ早朝といっていい時間だ。この館の住人の朝食時間にしては早過ぎる。
「なかなかアーニーが捉まらないからだよ。こっちに来てるって聞いたから急いで戻ってきたんだ」
テーブルに着いたアーネストに湯気のたつ紅茶を勧めながら、デヴィッドは上目遣いでにっこりと微笑んでいる。アーネストは紅茶をゆっくりと味わいながら窓越しの薄靄で霞む芝地に目をやり、彼が、ここにこうして居る理由を打ち明けるのを待つ。
静寂のなか、鳥の囀りだけが高く響いている。
デヴィッドは自分の皿に向きあったままだ。ふるふると黄身の揺れる目玉焼きを切り分けている。しばらくたってから「そういえば、」とやっと顔をあげた彼は、急に思いだしたように兄に尋ねた。
「エドが戻ったって?」
「入院中だけどね」
「お見舞いに行こうかなぁ」
「まだ無理だよ。面会謝絶中だ」
淡々と食事する手を休めることもなく告げた兄に、デヴィッドは素っ頓狂に訊き返す。
「そんなに酷い怪我なの?」
「それほどでも。せいぜい骨を何本か折って、あとは打撲程度だよ。取り調べはもう終わっているって聞いているけどね、任務は継続中ってことさ」
「任務って何の?」
訝しげに問い質す弟に、アーネストはただ肩をすくめてみせた。
「それより何の用事だい? こんな朝っぱらから押しかけておいて。まさか一緒に食事がしたかったなんて言うんじゃないだろうね?」
緊張を解せないまま、話を切りだすのを躊躇しているデヴィッドに、アーネストは兄らしく余裕の笑みで問いかける。
弟がこんな顔をして自分の前に座るときは、悪戯がばれて両親に怒られにいくのを助けて欲しいか、はたまた彼らが卒倒しそうな突拍子のない願いを告げるか、あるいは無理難題を通す口添えが欲しいからか――。何にしろ驚かされないように、心の準備をしておかねばならない。
「――今回のイベント会場には、アーニーは、まだ行っていないよね?」
デヴィッドはどこか落ち着きのない様子でベイクドビーンズを突きながら呟いた。
「まだ時間が取れないな」
アーネストは残念そうに微笑んで見せる。エドワードの件に加えて吉野の後見としての立ち回りに忙しすぎて、今回のイベントには関わっていられる暇など露ほどにもないのだ。だが、日々の報告はメールで受けているし、会場の様子も送られてきた動画で概要は掴んでいる。彼にしても、決して気にしていないわけではない。
「ずいぶん盛況らしいじゃない。予約チケットは完売なのに、キャンセル待ちで行列ができているんだって?」
彼はたまたま小耳に挟んだニュースを口にしたみた。何か問題があったのかと、わずかに引っかかりを覚えながら。
「アスカちゃんが初日の様子をみて、また手を加えちゃってねぇ。ヘンリーと一緒に視察に行ってきたんだけど――」
視線を宙に漂わせ、落ち着かない様子でデヴィッドは一気に喋りだした。蛇口を大きく捻ったように言葉が溢れだして、今度は止まらなくなった。
新しく加えられた各々に与えられる質問の数々が、体験者により深い思考をもたらしたと同時に、無防備に晒された感覚が、鮮明にその身の置かれた映像空間を受けとめ同化させ、不思議な浄化作用をもたらすに至っているのだ、とデヴィッドは熱をこめて雄弁に語る。
アーネストはそんな弟に、にこやかな笑みを湛えて相槌を打ち、頷きながらトーストを齧り紅茶を飲む。
兄の皿がほぼ空になるころ、ようやくひと段落着いて口を噤んだデヴィッドは、ほっと息を継いでにっと微笑んだ。
「ヘンリーの引き当てた質問はね、自分は誰かという問いだった。彼は、アーカシャーのCEOだと答えたよ。彼らしいだろ? 次のマーシュコート伯爵だと答えなかっただけで、僕は、ほっとしたねぇ」
くすくす笑うと、デヴィッドはカップを持ちあげ喉を潤す。アーネストはその話に若干皮肉げに唇の端を持ちあげている。
「そして、僕への問いはね、『何をしたいの?』だったんだ」
打って変わって、デヴィッドの口から深いため息が漏れている。
「僕は――、ここで働きたい。このままずっと」
真っ直ぐに向けられたヘーゼルの瞳が、差しこむ朝陽に金色に揺れていた。弟の真剣な瞳を見つめ返し、アーネストはテーブルに置かれた彼の緊張で強張った拳に、自分の手を包みこむように重ねた。
「やっと言ったね。お前が正直になるのをずっと待っていたんだ」
アーネストはにっこりと微笑んでいる。
「法科なんて辞めてしまえ。きみが法律の専門家になるなんて、冗談じゃないよ! すぐに情に流される、ころりと騙される。甘いものにつられる――。きっとろくな事にならないね」
揶揄うようなその目つきに、デヴィッドは唇を尖らせて抗議する。
「何? その甘いものにつられるってのは! 子どもじゃあるまいし!」
「子どもだよ、まだまだね。こんな我儘を言うくらいにね。――だからさ、いいんだよきみは。永遠に子どものままで好きなように生きて!」
「アーニー……」
「お父様には、きみはネバーランドに就職が決まった、とでも言っておくさ。その代わり、ちゃんとフック船長をやっつけろよ! 逃げ帰ってきて、大人になりたいなんて言うんじゃないよ!」
ぽかんと口を開けたデヴィッドの下瞼にじわりと涙が滲んでくる。アーネストは苦笑して皿のベークドビーンズをフォークで拾い、彼の口許に運んだ。
「僕はきみと違って好きでこの道に進んだんだし、今後、政界に進むにしても、それは僕が望んでのことだ。きみが僕に負い目を感じるような事じゃない。――僕はね、デイヴ、自由に生きているきみを見られるのが一番嬉しいんだ」
「……アスカちゃんと同じことを言うんだね」
「彼とはあまり意見があう事はないけれどね。出来の良い兄貴って点では一致しているからね」
ふふっと鼻で笑うアーネストの手を掌を返してぐっと握り、デヴィッドは鮮やかな笑みを刷いた。
「ありがとう、アーニー」
「さぁ、次はヘンリーを叩き起こしておいで。僕はもう一度寝直させてもらうからね。久しぶりの休日なんだ」
「なんだ! アーニーにも休日なんてあったんだ! それならこんな朝っぱらから起こしたりしなかったのに!」
デヴィッドは慌てて立ちあがり、呆れ顔の兄の頭を胸に掻き抱いた。
「おやすみ、アーニー、ゆっくり休んで」
「ありがとう」
早足で部屋を後にする弟の背中を見送り、アーネストはまた、庭の緑に視線を滑らせる。朝靄はすでに消え、芝は夏の陽射しを照り返している。ほっと息をついて、広がる雲一つない青空をすっきりとした瞳で眺めていた。
「おはよう、アーニー」
振り返ったデヴィッドは満面の笑みを湛えている。
下心ありありだな――、とアーネストはベッドから起きあがりナイトガウンを羽織る。
「帰ってきていたの? きみはロンドンに泊まりだと思っていたよ」
ナイトテーブルに置かれた時計を一瞥してアーネストは苦笑する。まだ早朝といっていい時間だ。この館の住人の朝食時間にしては早過ぎる。
「なかなかアーニーが捉まらないからだよ。こっちに来てるって聞いたから急いで戻ってきたんだ」
テーブルに着いたアーネストに湯気のたつ紅茶を勧めながら、デヴィッドは上目遣いでにっこりと微笑んでいる。アーネストは紅茶をゆっくりと味わいながら窓越しの薄靄で霞む芝地に目をやり、彼が、ここにこうして居る理由を打ち明けるのを待つ。
静寂のなか、鳥の囀りだけが高く響いている。
デヴィッドは自分の皿に向きあったままだ。ふるふると黄身の揺れる目玉焼きを切り分けている。しばらくたってから「そういえば、」とやっと顔をあげた彼は、急に思いだしたように兄に尋ねた。
「エドが戻ったって?」
「入院中だけどね」
「お見舞いに行こうかなぁ」
「まだ無理だよ。面会謝絶中だ」
淡々と食事する手を休めることもなく告げた兄に、デヴィッドは素っ頓狂に訊き返す。
「そんなに酷い怪我なの?」
「それほどでも。せいぜい骨を何本か折って、あとは打撲程度だよ。取り調べはもう終わっているって聞いているけどね、任務は継続中ってことさ」
「任務って何の?」
訝しげに問い質す弟に、アーネストはただ肩をすくめてみせた。
「それより何の用事だい? こんな朝っぱらから押しかけておいて。まさか一緒に食事がしたかったなんて言うんじゃないだろうね?」
緊張を解せないまま、話を切りだすのを躊躇しているデヴィッドに、アーネストは兄らしく余裕の笑みで問いかける。
弟がこんな顔をして自分の前に座るときは、悪戯がばれて両親に怒られにいくのを助けて欲しいか、はたまた彼らが卒倒しそうな突拍子のない願いを告げるか、あるいは無理難題を通す口添えが欲しいからか――。何にしろ驚かされないように、心の準備をしておかねばならない。
「――今回のイベント会場には、アーニーは、まだ行っていないよね?」
デヴィッドはどこか落ち着きのない様子でベイクドビーンズを突きながら呟いた。
「まだ時間が取れないな」
アーネストは残念そうに微笑んで見せる。エドワードの件に加えて吉野の後見としての立ち回りに忙しすぎて、今回のイベントには関わっていられる暇など露ほどにもないのだ。だが、日々の報告はメールで受けているし、会場の様子も送られてきた動画で概要は掴んでいる。彼にしても、決して気にしていないわけではない。
「ずいぶん盛況らしいじゃない。予約チケットは完売なのに、キャンセル待ちで行列ができているんだって?」
彼はたまたま小耳に挟んだニュースを口にしたみた。何か問題があったのかと、わずかに引っかかりを覚えながら。
「アスカちゃんが初日の様子をみて、また手を加えちゃってねぇ。ヘンリーと一緒に視察に行ってきたんだけど――」
視線を宙に漂わせ、落ち着かない様子でデヴィッドは一気に喋りだした。蛇口を大きく捻ったように言葉が溢れだして、今度は止まらなくなった。
新しく加えられた各々に与えられる質問の数々が、体験者により深い思考をもたらしたと同時に、無防備に晒された感覚が、鮮明にその身の置かれた映像空間を受けとめ同化させ、不思議な浄化作用をもたらすに至っているのだ、とデヴィッドは熱をこめて雄弁に語る。
アーネストはそんな弟に、にこやかな笑みを湛えて相槌を打ち、頷きながらトーストを齧り紅茶を飲む。
兄の皿がほぼ空になるころ、ようやくひと段落着いて口を噤んだデヴィッドは、ほっと息を継いでにっと微笑んだ。
「ヘンリーの引き当てた質問はね、自分は誰かという問いだった。彼は、アーカシャーのCEOだと答えたよ。彼らしいだろ? 次のマーシュコート伯爵だと答えなかっただけで、僕は、ほっとしたねぇ」
くすくす笑うと、デヴィッドはカップを持ちあげ喉を潤す。アーネストはその話に若干皮肉げに唇の端を持ちあげている。
「そして、僕への問いはね、『何をしたいの?』だったんだ」
打って変わって、デヴィッドの口から深いため息が漏れている。
「僕は――、ここで働きたい。このままずっと」
真っ直ぐに向けられたヘーゼルの瞳が、差しこむ朝陽に金色に揺れていた。弟の真剣な瞳を見つめ返し、アーネストはテーブルに置かれた彼の緊張で強張った拳に、自分の手を包みこむように重ねた。
「やっと言ったね。お前が正直になるのをずっと待っていたんだ」
アーネストはにっこりと微笑んでいる。
「法科なんて辞めてしまえ。きみが法律の専門家になるなんて、冗談じゃないよ! すぐに情に流される、ころりと騙される。甘いものにつられる――。きっとろくな事にならないね」
揶揄うようなその目つきに、デヴィッドは唇を尖らせて抗議する。
「何? その甘いものにつられるってのは! 子どもじゃあるまいし!」
「子どもだよ、まだまだね。こんな我儘を言うくらいにね。――だからさ、いいんだよきみは。永遠に子どものままで好きなように生きて!」
「アーニー……」
「お父様には、きみはネバーランドに就職が決まった、とでも言っておくさ。その代わり、ちゃんとフック船長をやっつけろよ! 逃げ帰ってきて、大人になりたいなんて言うんじゃないよ!」
ぽかんと口を開けたデヴィッドの下瞼にじわりと涙が滲んでくる。アーネストは苦笑して皿のベークドビーンズをフォークで拾い、彼の口許に運んだ。
「僕はきみと違って好きでこの道に進んだんだし、今後、政界に進むにしても、それは僕が望んでのことだ。きみが僕に負い目を感じるような事じゃない。――僕はね、デイヴ、自由に生きているきみを見られるのが一番嬉しいんだ」
「……アスカちゃんと同じことを言うんだね」
「彼とはあまり意見があう事はないけれどね。出来の良い兄貴って点では一致しているからね」
ふふっと鼻で笑うアーネストの手を掌を返してぐっと握り、デヴィッドは鮮やかな笑みを刷いた。
「ありがとう、アーニー」
「さぁ、次はヘンリーを叩き起こしておいで。僕はもう一度寝直させてもらうからね。久しぶりの休日なんだ」
「なんだ! アーニーにも休日なんてあったんだ! それならこんな朝っぱらから起こしたりしなかったのに!」
デヴィッドは慌てて立ちあがり、呆れ顔の兄の頭を胸に掻き抱いた。
「おやすみ、アーニー、ゆっくり休んで」
「ありがとう」
早足で部屋を後にする弟の背中を見送り、アーネストはまた、庭の緑に視線を滑らせる。朝靄はすでに消え、芝は夏の陽射しを照り返している。ほっと息をついて、広がる雲一つない青空をすっきりとした瞳で眺めていた。
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