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八章
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「やはり来なかったね」
涼やかな風が吹きぬける木陰で温かな紅茶を口にしながら、ヘンリーは仕方がないな、と苦笑を漏らした。
「無理に決まってるじゃない。アスカが何かを始めたら、終わるまで顔を見せるはずないもの。こっちを優先して、って怒って引っ張りだしてこないと!」
サラは当然のように淡々と、だが少し腹立たしそうに言う。
「それにアレンまで来ないなんて! アスカに盗られちゃったみたい」
「きみがあの子を気にするなんてね」
「映像酔いのことと、新しく手を加えたところの感想を聴きたかったの!」
あからさまに憮然としているサラを宥めるように、ヘンリーは目を細めてくすくすと笑い、アレンに代わって彼女の疑問に応じた。
「翻弄された」
サラは、やっぱり、とますます頬を膨らませる。
「時々アスカはいきなり哲学者になるの! 付きあってられない!」
「そう? 僕は、久しぶりに立ちどまって、自分の足許を見つめ直せた気がするよ。だから眩暈なんて起こしたんだね、きっと」
サラの不満を涼しい顔でさらりと流し、ヘンリーは蜂蜜色の館の壁に連なる窓に視線を向ける。飛鳥の部屋はカーテンが閉め切られたままだ。遮断されたその向こうで、どんな映像に取り組んでいるのか――。
飛鳥のイベント会場での問いかけは、彼の、彼自身への問いに違いない。吉野へ応じるために探し続け、問い続けた想いがほぼ無意識の内に描きこまれたのだろう。ヘンリーにはそう思えてならない。
イベントのテーマである「御伽噺」の曖昧さと不思議な世界が、その問いを拒まず景色のなかに溶けこませた。郷愁を誘う記憶を映す世界が、小さな子どものような、素朴な問いに輝きを与えた。
「楽しかったよ。自分に問い質しながらアスカの映像に浸っていたら、いろんな思い出が蘇ってきたよ。子どもの頃の僕の方が、ずっと物事を解っていたような気がした。今の僕は忙しさにかまけて、大切な事をなおざりにしてしまっていたのじゃないかってね」
ため息交じりに話すヘンリーに、サラは意外そうにペリドットの瞳を輝かせる。
「楽しめた? あんな言葉遊びが?」
「楽しんだよ。アレンも真剣に考えていた。デイヴは――、しまったな、彼の答えを聴くのを忘れた」
「彼のはどんな質問だったの?」
「何をしたいの? だったかな」
「デイヴは何をしたいの?」
真剣な瞳を向けられ、ヘンリーは困ったように小首を傾げた。
「それは本人に訊かないと」
サラは唇を尖らせたまま、考えこむように首を左右に振った。
「アスカは何をしたいの?」
続いて繰りくされた質問に、ヘンリーは思わず苦笑を漏らす。
「それも、本人に訊かないことにはね」
会場視察後、飛鳥が新たに映像に盛りこんだ「問い」のリストをスタッフから受け取った。彼らからも同じ質問をされた。
ヘンリーが興味深かったのは、外側からこの「問い」を見たスタッフと、会場を巡りながら物語の一部として自分自身の「問い」を受け取ったスタッフとの差だ。
自分を現実に縛りつける重力すら忘れてしまいそうになる浮力のある空間で、即答できない問いかけをされる。その問いに、抵抗する気も起きずに呑みこまれる。それが部屋を出る頃に、いつの間にか答えを得ているのだ。とても幸せな気分と一緒に。わずかな時を楽しんだにすぎない幻想の冒険で、人生の一生分歩んできたような錯覚さえ味わっている。
大切なものと、そうでもないもの。
心を覆う嘘や見栄をあの暗闇の中に置き忘れてきたように――。
スタッフの体験談や、イベント参加後のアンケートでそんな回答が散見された。まだ手を加えた初日。イベントそのものが始まったばかりで、それが大方の意見とは、まだまだ断言はできないけれど。
「僕もアスカの得た答えが知りたいよ」
あれだけ多くの質問を繰り広げ、答えを得て自室に籠って制作に入っているという飛鳥の見出した答えは何なのか……。
気になるのなら、自分から出向けばいいのだ。
解っていても、いつも、いつも自分から訪ねる。尋ねる。その事実が悔しくて、この椅子に根が生えてしまったようにヘンリーは立ちあがることができないでいる。
「兄弟揃って振り回されているな……」
苦笑いしているヘンリーに、サラは悟りきった表情で、「今さらでしょう?」と、頷いてみせる。
「そうそう、まったく同感だね」
背後からかかった声に、ヘンリーは身体を捻って立ちあがる。
「お帰り、アーニー」
「ただいま。僕もお茶を貰える? まったくもって振り回されっ放しだよ。あの兄弟には!」
口調とは裏腹に楽しげに微笑んで、アーネストはヘンリーとサラに向きあってガーデンチェアに腰をおろす。
「エドもやっと帰国したよ。まだ病院だけどね」
「進展は?」
眉根を寄せて表情を曇らせたヘンリーに、アーネストは唇を曲げて肩をすくめてみせた。
「エドの回復はいたって順調。問題はヨシノだよ。本当、喰えない子だよ、あの子は。まぁ、本人が表立って立ち回っているのではないし、僕も静観してはいるんだけどね。まぁ、とにかく面白いことになっているよ」
冷ややかに笑うアーネストの眼差しが、いったい誰に向けられたものなのか訝しく想いながら、ヘンリーはお茶を淹れ直しているサラにちらりと目をやり、彼に目配せして話題を変えた。
「ロンドンには、寄ったの? デイヴに逢ったかい? 彼、きみとゆっくり話がしたいって言っていたんだが」
涼やかな風が吹きぬける木陰で温かな紅茶を口にしながら、ヘンリーは仕方がないな、と苦笑を漏らした。
「無理に決まってるじゃない。アスカが何かを始めたら、終わるまで顔を見せるはずないもの。こっちを優先して、って怒って引っ張りだしてこないと!」
サラは当然のように淡々と、だが少し腹立たしそうに言う。
「それにアレンまで来ないなんて! アスカに盗られちゃったみたい」
「きみがあの子を気にするなんてね」
「映像酔いのことと、新しく手を加えたところの感想を聴きたかったの!」
あからさまに憮然としているサラを宥めるように、ヘンリーは目を細めてくすくすと笑い、アレンに代わって彼女の疑問に応じた。
「翻弄された」
サラは、やっぱり、とますます頬を膨らませる。
「時々アスカはいきなり哲学者になるの! 付きあってられない!」
「そう? 僕は、久しぶりに立ちどまって、自分の足許を見つめ直せた気がするよ。だから眩暈なんて起こしたんだね、きっと」
サラの不満を涼しい顔でさらりと流し、ヘンリーは蜂蜜色の館の壁に連なる窓に視線を向ける。飛鳥の部屋はカーテンが閉め切られたままだ。遮断されたその向こうで、どんな映像に取り組んでいるのか――。
飛鳥のイベント会場での問いかけは、彼の、彼自身への問いに違いない。吉野へ応じるために探し続け、問い続けた想いがほぼ無意識の内に描きこまれたのだろう。ヘンリーにはそう思えてならない。
イベントのテーマである「御伽噺」の曖昧さと不思議な世界が、その問いを拒まず景色のなかに溶けこませた。郷愁を誘う記憶を映す世界が、小さな子どものような、素朴な問いに輝きを与えた。
「楽しかったよ。自分に問い質しながらアスカの映像に浸っていたら、いろんな思い出が蘇ってきたよ。子どもの頃の僕の方が、ずっと物事を解っていたような気がした。今の僕は忙しさにかまけて、大切な事をなおざりにしてしまっていたのじゃないかってね」
ため息交じりに話すヘンリーに、サラは意外そうにペリドットの瞳を輝かせる。
「楽しめた? あんな言葉遊びが?」
「楽しんだよ。アレンも真剣に考えていた。デイヴは――、しまったな、彼の答えを聴くのを忘れた」
「彼のはどんな質問だったの?」
「何をしたいの? だったかな」
「デイヴは何をしたいの?」
真剣な瞳を向けられ、ヘンリーは困ったように小首を傾げた。
「それは本人に訊かないと」
サラは唇を尖らせたまま、考えこむように首を左右に振った。
「アスカは何をしたいの?」
続いて繰りくされた質問に、ヘンリーは思わず苦笑を漏らす。
「それも、本人に訊かないことにはね」
会場視察後、飛鳥が新たに映像に盛りこんだ「問い」のリストをスタッフから受け取った。彼らからも同じ質問をされた。
ヘンリーが興味深かったのは、外側からこの「問い」を見たスタッフと、会場を巡りながら物語の一部として自分自身の「問い」を受け取ったスタッフとの差だ。
自分を現実に縛りつける重力すら忘れてしまいそうになる浮力のある空間で、即答できない問いかけをされる。その問いに、抵抗する気も起きずに呑みこまれる。それが部屋を出る頃に、いつの間にか答えを得ているのだ。とても幸せな気分と一緒に。わずかな時を楽しんだにすぎない幻想の冒険で、人生の一生分歩んできたような錯覚さえ味わっている。
大切なものと、そうでもないもの。
心を覆う嘘や見栄をあの暗闇の中に置き忘れてきたように――。
スタッフの体験談や、イベント参加後のアンケートでそんな回答が散見された。まだ手を加えた初日。イベントそのものが始まったばかりで、それが大方の意見とは、まだまだ断言はできないけれど。
「僕もアスカの得た答えが知りたいよ」
あれだけ多くの質問を繰り広げ、答えを得て自室に籠って制作に入っているという飛鳥の見出した答えは何なのか……。
気になるのなら、自分から出向けばいいのだ。
解っていても、いつも、いつも自分から訪ねる。尋ねる。その事実が悔しくて、この椅子に根が生えてしまったようにヘンリーは立ちあがることができないでいる。
「兄弟揃って振り回されているな……」
苦笑いしているヘンリーに、サラは悟りきった表情で、「今さらでしょう?」と、頷いてみせる。
「そうそう、まったく同感だね」
背後からかかった声に、ヘンリーは身体を捻って立ちあがる。
「お帰り、アーニー」
「ただいま。僕もお茶を貰える? まったくもって振り回されっ放しだよ。あの兄弟には!」
口調とは裏腹に楽しげに微笑んで、アーネストはヘンリーとサラに向きあってガーデンチェアに腰をおろす。
「エドもやっと帰国したよ。まだ病院だけどね」
「進展は?」
眉根を寄せて表情を曇らせたヘンリーに、アーネストは唇を曲げて肩をすくめてみせた。
「エドの回復はいたって順調。問題はヨシノだよ。本当、喰えない子だよ、あの子は。まぁ、本人が表立って立ち回っているのではないし、僕も静観してはいるんだけどね。まぁ、とにかく面白いことになっているよ」
冷ややかに笑うアーネストの眼差しが、いったい誰に向けられたものなのか訝しく想いながら、ヘンリーはお茶を淹れ直しているサラにちらりと目をやり、彼に目配せして話題を変えた。
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