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八章
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ヘンリーが次に目を開けたとき視界に入ったのは、デヴィッドではなく静かな空気のような弟の姿だった。
「どうしてきみがここにいるの?」
クリアな兄の声に、アレンはほっとしたような笑みを浮かべて伏せていた面をあげた。
「デヴィッド卿から連絡をいただきました」
「迎えにこいって? 子どもじゃあるまいし」
顔をしかめるヘンリーに、アレンは微笑したまま首を振る。
「映像酔いのテストに、です。『人魚姫』の部屋はまだ体験者が少ないそうなので。酷く酔うようなら嵐の場面はカットするか、投影時間を短くするって、仰っていました」
「それはご苦労様。で、もう行ってきたの?」
身体を起こしてヘンリーは軽く頭を振った。まだ不快そうで、顔をしかめたまま髪をかきあげたり、首を回したりしている。
「何か飲み物を貰ってきます」
「持ってこさせればいい」
無造作にソファーの背にかけてあった自分の上着からTSネクストを取りだして、ヘンリーはいくつかの指示をだし、ついでの様にコーヒーを頼んだ。
「映像酔いがこんなにきついなんて、思ってもみなかったよ。車にも船にも酔ったことはなかったからね。きみも無理しなくていいんだよ、人体実験なんて」
「人体実験――」
視も蓋もない言いように、アレンはくすくす笑いだしながら首を振った。
「あなたの方が僕よりずっと症状が重そうに見えますよ。僕は気分が悪くなっても、わりに直ぐ回復しましたから」
「酔ったというよりも、疲労だろうとデイヴにも言われたよ」
ネクタイを締め直して上着に袖を通しながら、ヘンリーは苦笑して立ちあがった。
「だらしなく見えない?」
「とんでもない」
トラウザーズの皺を気にする兄に、アレンはふるふると何度も首を振る。そうこうする内に、軽いノックの音が響く。びくりと震え、一瞬、アレンは窺うような視線を兄に流した。それを受けて、あえてヘンリーはドアを開けるように弟をうながした。
「きみは今でも人が怖いの?」
コーヒーを運んできたスタッフから新たに受け取ったタブレットを眺めながら、ヘンリーは唐突にアレンにそんな質問を投げかけた。
「え?」とアレンは跳ねるように兄に面を向ける。
「そう四六時中ぴりぴりしていたんじゃ、あの子の傍にいるのは辛いんじゃないのかい?」
不思議そうに小首を傾げたアレンを一瞥し、ヘンリーはおもむろにコーヒーカップを口に運ぶ。
「ヨシノは、きみよりもずっと広い世界に生きているからね。そんな今のきみじゃ、あの子も、もてあますだろうと思ってね」
化石化してしまったアレンを尻目に、ヘンリーはコーヒーを飲み干し立ちあがった。
「そろそろ行こうか、デイヴが待っている」
ヘンリーは、暗がりに浮かぶくすんだ青いドアに手を触れた。青から緑のグラデーションになっている霧のトンネルを潜りぬけると、濃く、深い森の中だ。
空を遮る生い茂った枝葉の隙間をぬって、金糸の光が垂れさがっている。まだらに照らされる足下に広がる下生えには、白い小花が咲き乱れている。
鳥の囀りに木の葉の葉擦れ。そこかしこに顔を覗かせる栗鼠や兎の小動物に、アレンの緊張もほぐれて微笑んでいる。
「ここは何のモチーフでしたっけ?」
「青い鳥だよ。今は森の場面」
アレンの背後から、聞き覚えのある声が応えた。
「デヴィッド卿?」
声はするのに姿がない。立ち並ぶ樹々には人の気配すらしない。声をたよりに、アレンが辺りをくるりと一回りして戻ってきたときには、兄さえもが消えている。
いきなり出口のない森の中に置きざりにされた――、そんな寂寞がひたひたと広がる。本当は狭い部屋にすぎないはずなのに……。
アレンはあまりの心細さからかぞくりと寒気を覚えて、両手を交差させて自らの腕を抱いていた。
「気をつけて。もうじき精霊の時間になるよ」
デヴィッドの声の警告に小首を傾げながら、アレンは子どもの頃に読んだ『青い鳥』の粗筋を思いだそうと、必死に記憶の小箱を探った。
と、一瞬にして視界を覆う白い閃光が走った。眩しさに目許を庇い、瞼越しに光の度あいを確かめ、ゆるゆると目を眇めながら辺りを窺う。
明るい陽射しの中、梢を楽しげに揺らしていた樹々が、今は真っ黒な幹に同じく黒ずんだ葉をざわざわと揺すり、腕組みしたり腰に手を当てるように枝をしならせながら自分を覗きこんでいるではないか。時折ひそひそと話しあっているように、樹と樹が顔を寄せあっている。互いの幹や枝をしならせている。
囁きあい。笑い声。細かな星屑のようなラメが散りばめられた輝く紺青に浮かびあがる影絵の森だ。
アレンはすっかり惹きつけられ、呆けたように見とれている。
ひゅんと、鞭のように蔦がしなり、ぽっかりと頭上に空いた夜空に飛んだ。しゅるしゅると蛇のように蔦はその身をくねらせ、捩じりながら、文字を形作っていく。
誰の夢?
満天の星空に描かれた文字は、彼が息を呑んで見つめている間に、ぼわりと焔を放ち燃え尽きて、黒い灰となって零れ落ち――。
「青い鳥を捕まえるのが、ここでのテーマなの?」
兄の声に、アレンはふっと我に返る。姿の見えなかった兄が、そしてデヴィッドも、いつの間にかすぐ傍に佇んでいるではないか。
「大丈夫? きみも映像酔い?」
ぽかんとしたままの彼を、デヴィッドが心配そうに覗きこんでいる。アレンは慌てて首を振る。
「いいえ、平気です。ただ、メッセージがすごく不思議で――。以前、アスカさんにコンサバトリーで試作品を見せて頂いたときにはなかった気がして……」
戸惑いを隠せないままとつとつと話すアレンの肩を、デヴィッドが勢い良くバンッと叩いた。
「きみの課題は何だった?」
にっこりと訊ねたデヴィッドに、アレンは引きつった曖昧な笑みを浮かべてみせたままで何も答えなかった。デヴィッドは軽く肩をすくめてみせ、それ以上尋ねることはしなかった。そしてくるりと矛先を変え「きみもぶっ倒れておいて、また戻ってくるなんて懲りないねぇ」などと、もうヘンリーを揶揄っている。「これくらいで現場を放棄するようではCEOは務まらないよ」と、ヘンリーは余裕綽々の笑みでかわしている。
そんな二人の会話をどこか幻のように感じながら、アレンは先ほどの文字を何度も心の中でなぞっていた。
僕の夢? ヨシノの夢? ヨシノの夢は僕の夢?
僕の夢はヨシノの夢じゃない。
僕の夢は、いったい、何? それは本当に僕の夢?
ヨシノの夢を、僕は知っているの?
くるくると回り続ける言葉に囚われた彼の頭上で、青い鳥が旋回する。
「ほら、時間だ」
デヴィッドの声で、青い小鳥が囁いたような気がした。
「どうしてきみがここにいるの?」
クリアな兄の声に、アレンはほっとしたような笑みを浮かべて伏せていた面をあげた。
「デヴィッド卿から連絡をいただきました」
「迎えにこいって? 子どもじゃあるまいし」
顔をしかめるヘンリーに、アレンは微笑したまま首を振る。
「映像酔いのテストに、です。『人魚姫』の部屋はまだ体験者が少ないそうなので。酷く酔うようなら嵐の場面はカットするか、投影時間を短くするって、仰っていました」
「それはご苦労様。で、もう行ってきたの?」
身体を起こしてヘンリーは軽く頭を振った。まだ不快そうで、顔をしかめたまま髪をかきあげたり、首を回したりしている。
「何か飲み物を貰ってきます」
「持ってこさせればいい」
無造作にソファーの背にかけてあった自分の上着からTSネクストを取りだして、ヘンリーはいくつかの指示をだし、ついでの様にコーヒーを頼んだ。
「映像酔いがこんなにきついなんて、思ってもみなかったよ。車にも船にも酔ったことはなかったからね。きみも無理しなくていいんだよ、人体実験なんて」
「人体実験――」
視も蓋もない言いように、アレンはくすくす笑いだしながら首を振った。
「あなたの方が僕よりずっと症状が重そうに見えますよ。僕は気分が悪くなっても、わりに直ぐ回復しましたから」
「酔ったというよりも、疲労だろうとデイヴにも言われたよ」
ネクタイを締め直して上着に袖を通しながら、ヘンリーは苦笑して立ちあがった。
「だらしなく見えない?」
「とんでもない」
トラウザーズの皺を気にする兄に、アレンはふるふると何度も首を振る。そうこうする内に、軽いノックの音が響く。びくりと震え、一瞬、アレンは窺うような視線を兄に流した。それを受けて、あえてヘンリーはドアを開けるように弟をうながした。
「きみは今でも人が怖いの?」
コーヒーを運んできたスタッフから新たに受け取ったタブレットを眺めながら、ヘンリーは唐突にアレンにそんな質問を投げかけた。
「え?」とアレンは跳ねるように兄に面を向ける。
「そう四六時中ぴりぴりしていたんじゃ、あの子の傍にいるのは辛いんじゃないのかい?」
不思議そうに小首を傾げたアレンを一瞥し、ヘンリーはおもむろにコーヒーカップを口に運ぶ。
「ヨシノは、きみよりもずっと広い世界に生きているからね。そんな今のきみじゃ、あの子も、もてあますだろうと思ってね」
化石化してしまったアレンを尻目に、ヘンリーはコーヒーを飲み干し立ちあがった。
「そろそろ行こうか、デイヴが待っている」
ヘンリーは、暗がりに浮かぶくすんだ青いドアに手を触れた。青から緑のグラデーションになっている霧のトンネルを潜りぬけると、濃く、深い森の中だ。
空を遮る生い茂った枝葉の隙間をぬって、金糸の光が垂れさがっている。まだらに照らされる足下に広がる下生えには、白い小花が咲き乱れている。
鳥の囀りに木の葉の葉擦れ。そこかしこに顔を覗かせる栗鼠や兎の小動物に、アレンの緊張もほぐれて微笑んでいる。
「ここは何のモチーフでしたっけ?」
「青い鳥だよ。今は森の場面」
アレンの背後から、聞き覚えのある声が応えた。
「デヴィッド卿?」
声はするのに姿がない。立ち並ぶ樹々には人の気配すらしない。声をたよりに、アレンが辺りをくるりと一回りして戻ってきたときには、兄さえもが消えている。
いきなり出口のない森の中に置きざりにされた――、そんな寂寞がひたひたと広がる。本当は狭い部屋にすぎないはずなのに……。
アレンはあまりの心細さからかぞくりと寒気を覚えて、両手を交差させて自らの腕を抱いていた。
「気をつけて。もうじき精霊の時間になるよ」
デヴィッドの声の警告に小首を傾げながら、アレンは子どもの頃に読んだ『青い鳥』の粗筋を思いだそうと、必死に記憶の小箱を探った。
と、一瞬にして視界を覆う白い閃光が走った。眩しさに目許を庇い、瞼越しに光の度あいを確かめ、ゆるゆると目を眇めながら辺りを窺う。
明るい陽射しの中、梢を楽しげに揺らしていた樹々が、今は真っ黒な幹に同じく黒ずんだ葉をざわざわと揺すり、腕組みしたり腰に手を当てるように枝をしならせながら自分を覗きこんでいるではないか。時折ひそひそと話しあっているように、樹と樹が顔を寄せあっている。互いの幹や枝をしならせている。
囁きあい。笑い声。細かな星屑のようなラメが散りばめられた輝く紺青に浮かびあがる影絵の森だ。
アレンはすっかり惹きつけられ、呆けたように見とれている。
ひゅんと、鞭のように蔦がしなり、ぽっかりと頭上に空いた夜空に飛んだ。しゅるしゅると蛇のように蔦はその身をくねらせ、捩じりながら、文字を形作っていく。
誰の夢?
満天の星空に描かれた文字は、彼が息を呑んで見つめている間に、ぼわりと焔を放ち燃え尽きて、黒い灰となって零れ落ち――。
「青い鳥を捕まえるのが、ここでのテーマなの?」
兄の声に、アレンはふっと我に返る。姿の見えなかった兄が、そしてデヴィッドも、いつの間にかすぐ傍に佇んでいるではないか。
「大丈夫? きみも映像酔い?」
ぽかんとしたままの彼を、デヴィッドが心配そうに覗きこんでいる。アレンは慌てて首を振る。
「いいえ、平気です。ただ、メッセージがすごく不思議で――。以前、アスカさんにコンサバトリーで試作品を見せて頂いたときにはなかった気がして……」
戸惑いを隠せないままとつとつと話すアレンの肩を、デヴィッドが勢い良くバンッと叩いた。
「きみの課題は何だった?」
にっこりと訊ねたデヴィッドに、アレンは引きつった曖昧な笑みを浮かべてみせたままで何も答えなかった。デヴィッドは軽く肩をすくめてみせ、それ以上尋ねることはしなかった。そしてくるりと矛先を変え「きみもぶっ倒れておいて、また戻ってくるなんて懲りないねぇ」などと、もうヘンリーを揶揄っている。「これくらいで現場を放棄するようではCEOは務まらないよ」と、ヘンリーは余裕綽々の笑みでかわしている。
そんな二人の会話をどこか幻のように感じながら、アレンは先ほどの文字を何度も心の中でなぞっていた。
僕の夢? ヨシノの夢? ヨシノの夢は僕の夢?
僕の夢はヨシノの夢じゃない。
僕の夢は、いったい、何? それは本当に僕の夢?
ヨシノの夢を、僕は知っているの?
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