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八章
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通りすぎざま、わずかに開いているコンピュータールームから漏れ聞こえた笑い声に戸惑って、アレンは足を止めて訝しげにそのドアをノックした。
「はい」
明るい声が即座に返ってくる。アレンはますます驚いてドアから部屋を覗きこんだ。
「アスカさん、どうしていらっしゃるんですか!」
今日は3DTSタブレットのイベント初日だというのに!
「体調がまだ万全じゃないし、ヘンリーが来なくていいって」
「むしろ来るな、って言われたのよね、彼、心配性だから」
飛鳥と椅子を並べているサラが悪戯ぽく笑って言い添える。
「きみもおいでよ」
手招きする飛鳥を尻目に、アレンは気にする様子でちらりとサラに目を遣ったが、そのまま、これまで一度も足を踏み入れたことのない不思議な空間に踏みだした。
壁一面のモニターには、どうやらイベント会場が映っているらしい。利用客はまだいない。真っ暗な闇の中に、ぽうっと浮かび上がる洞窟の様子が映しだされているだけだ。
「遠隔操作できるからさ。現場にいく必要はないんだ。そりゃ現場にいる方が、お客さんの様子はリアルに伝わってくるとは思うんだけどね。向こうには向こうでスタッフがいるし、僕はトラブルが起きた時の待機要員かな」
「気になって仕方がないから見てるのよね。本当は、寝てろ! ってヘンリーにうるさく言われてるのにね」
揶揄うようなサラの口調に、飛鳥はちょっと首をすくめた。
「いいだろ? 初日くらいは。それこそ気になって胃に穴が開いてしまう」
「笑えなーい!」
そう言いながらケラケラと声をたてて笑うサラを、アレンはぽかんと見つめている。
彼にしても、食事時間は彼女と同じテーブルに着いている。お茶もたまには。だが、挨拶以上の会話をした記憶はほとんどないのだ。彼女が兄以外の誰かと話している記憶がそもそも少ない。吉野との会話――、プログラミングや金融の話題でたまにサラの名がでてくるので、彼女が決して孤立しているわけではないのは解っているつもりだったけれど……。
こんなふうに屈託なく飛鳥と話している姿を見ていると、兄だけでなく飛鳥までもが、彼女に独占されているような気がしてしまっていた。
誰も追いつくことのできない高みにいる吉野が、唯一信頼して共同で金融取引を行っているという、自分にはとても真似できない才能を、彼女は有しているだけでなく……。
アレンの瞳には、眼前のサラは愛され守られて成長した幸せな子にしか見えないのだ。自分が米国へ一時帰国するきっかけとなった事件など、信じられないほどに。
あの頃、僕は――。
あのミサンガは、いつ切れたんだっけ?
ふと、まるで昨日のことのように、それでいて遠い昔のことのような懐かしい記憶がアレンの脳裏を掠めていた。
「ほら、始まったよ。入場開始だ」
飛鳥の声で、アレンの中に浮かびあがっていた記憶は途端に霧散してしまっていた。彼は頭上に並ぶモニターにぼんやりと目を向ける。
楽しそうな歓声。華やいだ笑い声。家族連れの和やかな姿。子どもだけでなく大人も目を丸くしてわいわいと、自由自在に変化する蛍光色の草花と闘い、隠された宝物を見つけだすために、真剣な表情で探検に加わっている。
「こうして見るとちょっと単調な気もするなぁ」
飛鳥の呟きに、「そう? どの辺りが?」とサラはすかさず反応する。
「もっとこう、ぱーとさ、」飛鳥は同時にカタカタとキーボードを打ち始めている。いくつもの画面のうちの一つが、会場内の一輪の花の蕾をクローズアップした。
「こんな感じで、」
切り取られたその画面の花が、ゆっくりとその花弁を開き、はらりはらりと散っていく端から蝶になる。連鎖する虹色のグラデーションを作りながら飛び交い始める。
「綺麗――」
「空いている空間がもったいないだろう?」
息をのむサラの横で、飛鳥はどんどん新しいアイデアを加えていく。
「今のこれってもう会場にも反映されているの?」
「できるけどしないよ。そんなマネをしたら、向こうのスタッフが驚くだろ?」
飛鳥は残念そうに笑っている。現場にいればもっと様々なことができたのに、とため息が聞こえてきそうだ。
「これが飛鳥さんの夢の世界ですよね」
アレンが唐突に呟いた。
「そうだよ。大人も子どもも楽しめて、皆で笑いあえる、そんな世界を作りたいんだ」
飛鳥の言葉に、アレンはそのしなやかな両手で顔を覆った。泣きだしそうな顔をごまかしきれなかった。そんな自分を誰にも見せたくなかったのだ。
「どうしたの? まさかモニターの映像に酔った?」
心配そうな飛鳥の声に、アレンは大きく頭を振る。顔を覆ったままで。
「すみません」
肩が小刻みに震えている。だがその肩は、徐々にゆっくりと深呼吸を繰り返し、震えをおさめていった。飛鳥もサラも緊張した面持ちで彼を見守っていた。
やがてアレンはそっと両手を顔からはがし、柔らかく微笑んだ。
「すみません。いろいろキツくて。もう大丈夫です」
ほっとしたような笑みを浮かべた飛鳥とサラを見つめながら、アレンはどこか哀し気に笑い、軽く小首を傾げて告げた。
「ヨシノからの依頼です。本来ならサラに。でも兄には内緒です。だけどサウードの国での立体映像を作ったのは本当はアスカさんだから、お伝えするべきなのは、おそらくアスカさんにです。どうされますか?」
ガタンと飛鳥は勢い立ちあがっていた。そしてすぐまた腰をおろして、眼前のモニターに目を走らせる。
「僕一人に話して、アレン。でも、今日のイベントが終わってからだ。その後で聞くよ」
淡々とした、だがいつもよりも押し殺したような低い声音に、アレンは黙ったまま頷く。
「アスカ……」
不安に陰るペリドットの瞳に、飛鳥はにっこりと笑顔を向けた。
「美しい世界を作ろう、サラ。来てくれた人の一生の記憶に残るような、美しい世界をね」
「はい」
明るい声が即座に返ってくる。アレンはますます驚いてドアから部屋を覗きこんだ。
「アスカさん、どうしていらっしゃるんですか!」
今日は3DTSタブレットのイベント初日だというのに!
「体調がまだ万全じゃないし、ヘンリーが来なくていいって」
「むしろ来るな、って言われたのよね、彼、心配性だから」
飛鳥と椅子を並べているサラが悪戯ぽく笑って言い添える。
「きみもおいでよ」
手招きする飛鳥を尻目に、アレンは気にする様子でちらりとサラに目を遣ったが、そのまま、これまで一度も足を踏み入れたことのない不思議な空間に踏みだした。
壁一面のモニターには、どうやらイベント会場が映っているらしい。利用客はまだいない。真っ暗な闇の中に、ぽうっと浮かび上がる洞窟の様子が映しだされているだけだ。
「遠隔操作できるからさ。現場にいく必要はないんだ。そりゃ現場にいる方が、お客さんの様子はリアルに伝わってくるとは思うんだけどね。向こうには向こうでスタッフがいるし、僕はトラブルが起きた時の待機要員かな」
「気になって仕方がないから見てるのよね。本当は、寝てろ! ってヘンリーにうるさく言われてるのにね」
揶揄うようなサラの口調に、飛鳥はちょっと首をすくめた。
「いいだろ? 初日くらいは。それこそ気になって胃に穴が開いてしまう」
「笑えなーい!」
そう言いながらケラケラと声をたてて笑うサラを、アレンはぽかんと見つめている。
彼にしても、食事時間は彼女と同じテーブルに着いている。お茶もたまには。だが、挨拶以上の会話をした記憶はほとんどないのだ。彼女が兄以外の誰かと話している記憶がそもそも少ない。吉野との会話――、プログラミングや金融の話題でたまにサラの名がでてくるので、彼女が決して孤立しているわけではないのは解っているつもりだったけれど……。
こんなふうに屈託なく飛鳥と話している姿を見ていると、兄だけでなく飛鳥までもが、彼女に独占されているような気がしてしまっていた。
誰も追いつくことのできない高みにいる吉野が、唯一信頼して共同で金融取引を行っているという、自分にはとても真似できない才能を、彼女は有しているだけでなく……。
アレンの瞳には、眼前のサラは愛され守られて成長した幸せな子にしか見えないのだ。自分が米国へ一時帰国するきっかけとなった事件など、信じられないほどに。
あの頃、僕は――。
あのミサンガは、いつ切れたんだっけ?
ふと、まるで昨日のことのように、それでいて遠い昔のことのような懐かしい記憶がアレンの脳裏を掠めていた。
「ほら、始まったよ。入場開始だ」
飛鳥の声で、アレンの中に浮かびあがっていた記憶は途端に霧散してしまっていた。彼は頭上に並ぶモニターにぼんやりと目を向ける。
楽しそうな歓声。華やいだ笑い声。家族連れの和やかな姿。子どもだけでなく大人も目を丸くしてわいわいと、自由自在に変化する蛍光色の草花と闘い、隠された宝物を見つけだすために、真剣な表情で探検に加わっている。
「こうして見るとちょっと単調な気もするなぁ」
飛鳥の呟きに、「そう? どの辺りが?」とサラはすかさず反応する。
「もっとこう、ぱーとさ、」飛鳥は同時にカタカタとキーボードを打ち始めている。いくつもの画面のうちの一つが、会場内の一輪の花の蕾をクローズアップした。
「こんな感じで、」
切り取られたその画面の花が、ゆっくりとその花弁を開き、はらりはらりと散っていく端から蝶になる。連鎖する虹色のグラデーションを作りながら飛び交い始める。
「綺麗――」
「空いている空間がもったいないだろう?」
息をのむサラの横で、飛鳥はどんどん新しいアイデアを加えていく。
「今のこれってもう会場にも反映されているの?」
「できるけどしないよ。そんなマネをしたら、向こうのスタッフが驚くだろ?」
飛鳥は残念そうに笑っている。現場にいればもっと様々なことができたのに、とため息が聞こえてきそうだ。
「これが飛鳥さんの夢の世界ですよね」
アレンが唐突に呟いた。
「そうだよ。大人も子どもも楽しめて、皆で笑いあえる、そんな世界を作りたいんだ」
飛鳥の言葉に、アレンはそのしなやかな両手で顔を覆った。泣きだしそうな顔をごまかしきれなかった。そんな自分を誰にも見せたくなかったのだ。
「どうしたの? まさかモニターの映像に酔った?」
心配そうな飛鳥の声に、アレンは大きく頭を振る。顔を覆ったままで。
「すみません」
肩が小刻みに震えている。だがその肩は、徐々にゆっくりと深呼吸を繰り返し、震えをおさめていった。飛鳥もサラも緊張した面持ちで彼を見守っていた。
やがてアレンはそっと両手を顔からはがし、柔らかく微笑んだ。
「すみません。いろいろキツくて。もう大丈夫です」
ほっとしたような笑みを浮かべた飛鳥とサラを見つめながら、アレンはどこか哀し気に笑い、軽く小首を傾げて告げた。
「ヨシノからの依頼です。本来ならサラに。でも兄には内緒です。だけどサウードの国での立体映像を作ったのは本当はアスカさんだから、お伝えするべきなのは、おそらくアスカさんにです。どうされますか?」
ガタンと飛鳥は勢い立ちあがっていた。そしてすぐまた腰をおろして、眼前のモニターに目を走らせる。
「僕一人に話して、アレン。でも、今日のイベントが終わってからだ。その後で聞くよ」
淡々とした、だがいつもよりも押し殺したような低い声音に、アレンは黙ったまま頷く。
「アスカ……」
不安に陰るペリドットの瞳に、飛鳥はにっこりと笑顔を向けた。
「美しい世界を作ろう、サラ。来てくれた人の一生の記憶に残るような、美しい世界をね」
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