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八章
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ノックの音に、サラは意外そうに振り向いた。トレイにティーセットをのせたヘンリーが戸口に佇んでいる。
「邪魔してかまわない?」
窓辺のティーテーブルにトレイを置いて腰かけながら、ヘンリーの視線は壁一面に並んだモニター画面を端から追っている。サラは立ちあがると、彼の向かいに席を移した。
「ヨシノのお土産だよ」
「これ、日本のお菓子なのにお土産って言うのはおかしいわ。その土地のものじゃないもの」
ティーカップに添えられた菓子皿を一瞥すると、サラは生真面目に抗議した。けれど、その目は嬉しそうに細められている。
夏になると、吉野は必ず葛餅を作るのだ。だからサラがこれを目にするのも、食べるのも初めてではない。吉野がいないときですら、レシピを託されたメアリーが、夏場になると食欲が落ち体調を崩しやすくなる飛鳥のために、胃に負担がかからず食べやすいからとこの葛菓子を作っている。すでにこの家の夏の定番菓子といってもよいものなのだ。
「美味しい?」
「やっぱり彼のが本物って感じね。メアリーのも美味しいけれど」
「亡くなられたお母さま直伝だしね」
怪訝そうな顔をしたサラに、ヘンリーは物憂げに言い添えた。
「もちろんレシピは残されていたそうだけどね。彼は、お母さまがこれを作られるところを横で見ていたそうだよ。いったい、いくつの時の記憶なのだろうね――。彼が、二つ、三つの頃なのかな。日本の、吉野という土地で生まれ育ったお母さまの郷土のお菓子なんだそうだよ。この材料は、その土地の特産品だって」
――身を隠せっていうなら、日本に帰るよ。
ふと、吉野の言葉がヘンリーの脳裏を過ぎっていた。砂漠の国も、英国も、彼にとっては外国に変わりはない。そう言い切った吉野の言葉が――。
「きみは……」
言いかけてヘンリーは口を閉じた。サラにとっても英国はいまだに外国なのかと、問いかけそうになった。産まれると同時に母を失い、冷遇されて育ったのに、いまだにサラはパンジャビ・スーツしか着ない。初めて逢ったときの印象から変わることなく成長した彼女にとって、英国は祖国であり郷土といえるのかどうか――。そう訊ねることが、彼には躊躇われたのだ。
だがサラはそんなヘンリーの胸中とはまったく別の解釈をしたようで、にっこりと笑って感慨深そうにヘンリーを見つめた。
「私の思い出のお菓子は、メアリーのヴィクトリアンケーキ。それに、ファッジね。私は、ヨシノみたいに作れないけれど」
「うん。無謀な挑戦はするべきじゃない」
胸を撫でおろして真顔で答えたヘンリーに、サラは唇を尖らせる。
「ひどいわ、ヘンリー」
くすくす笑うヘンリーに、サラはますます頬を膨らませる。
「ヨシノの本当の土産はね、」
ヘンリーは揶揄うような笑みを引っこめて、改めて本題を切りだした。
「原油市場の空売りを全部買い戻して、ここからしばらく買いに回れって、きみへの伝言だよ」
「根拠は?」
サラは食べる手を止め、真剣な視線で応じていた。
「アブド大臣が米国に亡命したことは、きみもアーニーから聞いたろ? ヨシノと殿下は国営会社の『アッシャムス』を清算して、新会社に再編したのち、ルベリーニに任せるつもりなんだよ。当然、国営企業は潰れないとたかをくくって『アッシャムス』の多額のCDSを引受ているアブドルアジーズは、甚大な損失を被ることになる」
「解った! 彼らはその損失を原油の価格操作でうめようとするのね」
「ご明察。ヨシノはアブドルアジーズのCDSを大量に買っているとはいえ、『アッシャムス』の清算まで数ヶ月、まだまだ時間がかかるんだ。それに、資産凍結させたアブドのスイス銀行口座の隠し資産の返還も、右から左というわけにはいかないからね」
「要はアブドに発電施設を破壊されて、打撃を受けているのはヨシノたちも同じ。国民を安心させて国庫を潤すには、やはり原油が手っ取り早い。そういう思惑もあるってことね」
感心したように、サラは吐息を漏らした。
「このためにアブドにシェール油田を握らせ、いまだに生かしているんだ。アレンまで使って――」
逆にヘンリーは呆れたようにため息を吐く。
「アレン?」
きょとんと鸚鵡返しに訊ねたサラに、ヘンリーは苦笑して説明を加えた。
「アブドが失脚し、大勢の有力王族が粛清された今、王宮はサウード殿下を中心に回っている。もう少し落ちついたら、アブドが王宮を制圧し殿下を廃さんとつけ狙っていた時、命をかけて彼を守り支えた殿下の親友アレン・フェイラーの美談記事が出まわるよ。産油国皇太子サウードと、世界シェアトップの石油会社、フェイラー石油の若き後継者が、肩を並べて未来を語りあう写真つきでね」
サラは特に驚いたふうもなく、冷めかけた紅茶をこくりと飲んだ。
「ヨシノは、どこにいてもヨシノなのね。アレンはそれでかまわないの?」
「気づいてもいないよ。自分がその場に居ることが、どういう意味を持つかなんて――」
ただそこに居るだけで――。
勘ぐる輩は、いくらでも意味を見いだすのだ。
ヘンリーも自分のカップに紅茶を注いだ。眉根を寄せているのは、紅茶の若干出過ぎた渋みのせいなのだろうか。
「OK、ヘンリー。原油先物と石油関連株、調整しておくわ」
サラはただ、淡々と呟いていた。
「邪魔してかまわない?」
窓辺のティーテーブルにトレイを置いて腰かけながら、ヘンリーの視線は壁一面に並んだモニター画面を端から追っている。サラは立ちあがると、彼の向かいに席を移した。
「ヨシノのお土産だよ」
「これ、日本のお菓子なのにお土産って言うのはおかしいわ。その土地のものじゃないもの」
ティーカップに添えられた菓子皿を一瞥すると、サラは生真面目に抗議した。けれど、その目は嬉しそうに細められている。
夏になると、吉野は必ず葛餅を作るのだ。だからサラがこれを目にするのも、食べるのも初めてではない。吉野がいないときですら、レシピを託されたメアリーが、夏場になると食欲が落ち体調を崩しやすくなる飛鳥のために、胃に負担がかからず食べやすいからとこの葛菓子を作っている。すでにこの家の夏の定番菓子といってもよいものなのだ。
「美味しい?」
「やっぱり彼のが本物って感じね。メアリーのも美味しいけれど」
「亡くなられたお母さま直伝だしね」
怪訝そうな顔をしたサラに、ヘンリーは物憂げに言い添えた。
「もちろんレシピは残されていたそうだけどね。彼は、お母さまがこれを作られるところを横で見ていたそうだよ。いったい、いくつの時の記憶なのだろうね――。彼が、二つ、三つの頃なのかな。日本の、吉野という土地で生まれ育ったお母さまの郷土のお菓子なんだそうだよ。この材料は、その土地の特産品だって」
――身を隠せっていうなら、日本に帰るよ。
ふと、吉野の言葉がヘンリーの脳裏を過ぎっていた。砂漠の国も、英国も、彼にとっては外国に変わりはない。そう言い切った吉野の言葉が――。
「きみは……」
言いかけてヘンリーは口を閉じた。サラにとっても英国はいまだに外国なのかと、問いかけそうになった。産まれると同時に母を失い、冷遇されて育ったのに、いまだにサラはパンジャビ・スーツしか着ない。初めて逢ったときの印象から変わることなく成長した彼女にとって、英国は祖国であり郷土といえるのかどうか――。そう訊ねることが、彼には躊躇われたのだ。
だがサラはそんなヘンリーの胸中とはまったく別の解釈をしたようで、にっこりと笑って感慨深そうにヘンリーを見つめた。
「私の思い出のお菓子は、メアリーのヴィクトリアンケーキ。それに、ファッジね。私は、ヨシノみたいに作れないけれど」
「うん。無謀な挑戦はするべきじゃない」
胸を撫でおろして真顔で答えたヘンリーに、サラは唇を尖らせる。
「ひどいわ、ヘンリー」
くすくす笑うヘンリーに、サラはますます頬を膨らませる。
「ヨシノの本当の土産はね、」
ヘンリーは揶揄うような笑みを引っこめて、改めて本題を切りだした。
「原油市場の空売りを全部買い戻して、ここからしばらく買いに回れって、きみへの伝言だよ」
「根拠は?」
サラは食べる手を止め、真剣な視線で応じていた。
「アブド大臣が米国に亡命したことは、きみもアーニーから聞いたろ? ヨシノと殿下は国営会社の『アッシャムス』を清算して、新会社に再編したのち、ルベリーニに任せるつもりなんだよ。当然、国営企業は潰れないとたかをくくって『アッシャムス』の多額のCDSを引受ているアブドルアジーズは、甚大な損失を被ることになる」
「解った! 彼らはその損失を原油の価格操作でうめようとするのね」
「ご明察。ヨシノはアブドルアジーズのCDSを大量に買っているとはいえ、『アッシャムス』の清算まで数ヶ月、まだまだ時間がかかるんだ。それに、資産凍結させたアブドのスイス銀行口座の隠し資産の返還も、右から左というわけにはいかないからね」
「要はアブドに発電施設を破壊されて、打撃を受けているのはヨシノたちも同じ。国民を安心させて国庫を潤すには、やはり原油が手っ取り早い。そういう思惑もあるってことね」
感心したように、サラは吐息を漏らした。
「このためにアブドにシェール油田を握らせ、いまだに生かしているんだ。アレンまで使って――」
逆にヘンリーは呆れたようにため息を吐く。
「アレン?」
きょとんと鸚鵡返しに訊ねたサラに、ヘンリーは苦笑して説明を加えた。
「アブドが失脚し、大勢の有力王族が粛清された今、王宮はサウード殿下を中心に回っている。もう少し落ちついたら、アブドが王宮を制圧し殿下を廃さんとつけ狙っていた時、命をかけて彼を守り支えた殿下の親友アレン・フェイラーの美談記事が出まわるよ。産油国皇太子サウードと、世界シェアトップの石油会社、フェイラー石油の若き後継者が、肩を並べて未来を語りあう写真つきでね」
サラは特に驚いたふうもなく、冷めかけた紅茶をこくりと飲んだ。
「ヨシノは、どこにいてもヨシノなのね。アレンはそれでかまわないの?」
「気づいてもいないよ。自分がその場に居ることが、どういう意味を持つかなんて――」
ただそこに居るだけで――。
勘ぐる輩は、いくらでも意味を見いだすのだ。
ヘンリーも自分のカップに紅茶を注いだ。眉根を寄せているのは、紅茶の若干出過ぎた渋みのせいなのだろうか。
「OK、ヘンリー。原油先物と石油関連株、調整しておくわ」
サラはただ、淡々と呟いていた。
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