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八章
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朝から魂がぬけたようにぼんやりしている飛鳥を、デヴィッドはガーデンチェアーに深くもたれて困り果てたまま眺めていた。
鮮やかな深緑に囲まれたテラスに据えられたガーデンテーブルには、晴れ渡る蒼穹を遮る生成りのパラソルが涼やかな影を落としているというのに――。それに木立を揺らす風は穏やかで、かすかに薔薇の香りを揺蕩わせている。真夏とはいえ、いまだ陽射しも柔らかな朝ののんびりとした空気のなかで、飛鳥一人が真冬の空のような瞳をしているのだ。
「もう少し落ち着いたら帰ってくるって」
そう言って宥めてみたところで、飛鳥の耳には恐らく入っていないのだろう。
「アーニーは? もうヒースローには着いたかな?」
虚空に視線を漂わせながら、飛鳥はまた、ため息をついている。
「うん。ついさっきね。まずロンドンの父へ報告にいって、それから事務所、こっちに来るのは夜になるって」
「そう……。でも、アーニーは向こうでは、吉野に会ってないんだよね」
とうとう、心ここに在らずの飛鳥を持てあましたデヴィッドは席を立った。そしてぐいっ、と飛鳥の腕を引く。
「こんな所でうだうだしているくらいなら、イベント映像の点検をしようよ」
「え……」
「ヘンリーが、自らヨシノのお守りをしてるんだよ。僕らはせめて彼が帰ってきた時に不足のないようにしておくべきじゃないの!」
思いきりバシッと背中を張られて、飛鳥は「痛っ」と顔をしかめる。だが次の瞬間には、その面に笑みを浮かべていた。
「きみの言う通りだ。無事だってことが解っただけで喜ばないとね」
イベントホールを借りての新タブレッドのお披露目、予約展示会、そのメインイベントとなる立体映像の世界展――。アーカシャーHDの社運を賭けた一大イベントを、失敗させるわけにはいかないのだ。ましてヘンリーは、吉野の身を案じてかの地に飛んでくれているのだから。
きりりと表情を引き締めた飛鳥の肩を、デヴィッドは今度は軽く、ほっとしたように叩く。二人は黙ったままテラス階段から建物沿いの芝生を通ってコンサバトリーに出て、指紋認証の鍵を解いてガラス戸を開けた。
作業途中で置いたままの機材がそのままになっていた。
最後にこの部屋に入ったのは、いったい、いつだっただろうか、と飛鳥は冷や水をかけられたような焦燥を感じていた。サラもパソコンルームに籠りっきりで、ここは使っていなかったという。メアリーが丁寧に掃除をしてくれていたのだろう。埃を被ってはいない。だが、放ったらかしにされていた部屋は淋し気で、裏ぶれて見えた。
「TSの3Ⅾ映像は、本来、人を傷つけるためのものじゃない。僕は、ここで、それを証明しなきゃならない――」
「そうだよ、僕らの想像力を最大限に刺激して、世界はこんなにも不思議で美しいものなんだって教えてくれた。それが、アスカちゃんの創る世界なんだから!」
ひんやりとした大理石に胡坐をかいて座ると、投影装置の起動音が細かく空気を振動させていくのが肌で感じられる。
「僕はねぇ、この瞬間が大好きなんだ」
天井から闇が溶けだすように流れていく――。ぽうっとその闇に、星が、花が輝きを放ち始める。外界を遮断して逆に閉ざされていた世界が広がっていくさまは、自分の描きだした想像世界が、まるで現実にはみ出し、侵食していくようだった。
「この中で僕は何にでもなれるんだ」
デヴィッドは床の上に身を横たえ、自分を包む闇に溶け入るように手を伸ばす。
「脳に送る情報を書き換えれば、それも可能なのかな?」
飛鳥がデヴィッドにというよりも、自分自身に問いかけるかのように呟いた。
「書き換えるって?」
「たとえば鏡。鏡に映る自分の顔が他人の顔だったら? 初めは違和感があっても、そのうちそれは自分だって思いこむんじゃないのかな」
「本当は、自分の顔は変わってないのに?」
不思議そうに問いかけるデヴィッドに、飛鳥は頷く。
「自分がどんな顔をしているかなんて、僕はあんまり覚えてないよ。結構記憶なんていい加減なものでさ」
「それ、アスカちゃんが言う?」
ケラケラと声をたてて笑うデヴィッドに、飛鳥は苦笑を返す。
「僕は吉野とは違うよ。この空間だって、ただの仮想にすぎないだろ? でも脳はこれが実際の世界だって思いこんでしまうかもしれないんだ。――僕には、この映像は映像にしか見えないけど、他の人にはどうなのかな?」
「僕には、現実も、映像も区別つかないよ」
デヴィッドは起きあがり、居住まいを正して飛鳥に向き合った。
「だからこそだよ! この仮想空間で、僕らは空を飛び、海に潜り、地底を探検できるんだ。今まで一部のエキスパートしか得ることのできなかった視覚体験ができるんだよ。きみという天才の脳の中を探検することだってできるんだ!」
「何だか怖いよ。僕はとんでもないものを創りだしてしまったんじゃないか、て気がするんだ」
目の前にいる飛鳥の見ているのは、自分ではないのだ――。
虚ろに漂う飛鳥の瞳を見据えてデヴィッドはきつく唇を噛んでいた。おそらく飛鳥の瞳が映しているのは、脳内に住みついた自分が創りだした兵士たちの残像だと、彼にはすぐに察しがついていた。銃をかまえ、逃げ惑う敵を追って走る姿を、飛鳥は脳裏に思い描いているのだ。
吉野の無事が確認されたことで、そしてその当人があれほどの犠牲を払ってもなお戻ってはこないことで、飛鳥は自分のしたことを後悔し始めている。その迷いが、デヴィッドには手に取るように感じられていた。それは、飛鳥ほどではなくても確かに自分の中にもあるものだったからだ。本物と見まごう仮想を操るということ。背景ではない、人間を操ることの陶酔感と嫌悪感が混ぜこぜになって、自分の深い意識の中にこびりついている。
だがデヴィッドはそんな思いはおくびにも出さず、朗らかに笑い飛ばした。
「『夢のような、たわいのない出来事にすぎないのだから、お許しあれ』。アスカちゃん、生きることに疲れた現代人に見せる一夜の夢だよ。どんなに現実に見えてもそれは夢にすぎない。それでも、夢は人を癒し、励まし、回復させてくれるものだよ。――アスカちゃんの世界はね、僕にとって、そして多くの人々にとっても、そんな素敵な夢の世界なんだよ!」
鮮やかな深緑に囲まれたテラスに据えられたガーデンテーブルには、晴れ渡る蒼穹を遮る生成りのパラソルが涼やかな影を落としているというのに――。それに木立を揺らす風は穏やかで、かすかに薔薇の香りを揺蕩わせている。真夏とはいえ、いまだ陽射しも柔らかな朝ののんびりとした空気のなかで、飛鳥一人が真冬の空のような瞳をしているのだ。
「もう少し落ち着いたら帰ってくるって」
そう言って宥めてみたところで、飛鳥の耳には恐らく入っていないのだろう。
「アーニーは? もうヒースローには着いたかな?」
虚空に視線を漂わせながら、飛鳥はまた、ため息をついている。
「うん。ついさっきね。まずロンドンの父へ報告にいって、それから事務所、こっちに来るのは夜になるって」
「そう……。でも、アーニーは向こうでは、吉野に会ってないんだよね」
とうとう、心ここに在らずの飛鳥を持てあましたデヴィッドは席を立った。そしてぐいっ、と飛鳥の腕を引く。
「こんな所でうだうだしているくらいなら、イベント映像の点検をしようよ」
「え……」
「ヘンリーが、自らヨシノのお守りをしてるんだよ。僕らはせめて彼が帰ってきた時に不足のないようにしておくべきじゃないの!」
思いきりバシッと背中を張られて、飛鳥は「痛っ」と顔をしかめる。だが次の瞬間には、その面に笑みを浮かべていた。
「きみの言う通りだ。無事だってことが解っただけで喜ばないとね」
イベントホールを借りての新タブレッドのお披露目、予約展示会、そのメインイベントとなる立体映像の世界展――。アーカシャーHDの社運を賭けた一大イベントを、失敗させるわけにはいかないのだ。ましてヘンリーは、吉野の身を案じてかの地に飛んでくれているのだから。
きりりと表情を引き締めた飛鳥の肩を、デヴィッドは今度は軽く、ほっとしたように叩く。二人は黙ったままテラス階段から建物沿いの芝生を通ってコンサバトリーに出て、指紋認証の鍵を解いてガラス戸を開けた。
作業途中で置いたままの機材がそのままになっていた。
最後にこの部屋に入ったのは、いったい、いつだっただろうか、と飛鳥は冷や水をかけられたような焦燥を感じていた。サラもパソコンルームに籠りっきりで、ここは使っていなかったという。メアリーが丁寧に掃除をしてくれていたのだろう。埃を被ってはいない。だが、放ったらかしにされていた部屋は淋し気で、裏ぶれて見えた。
「TSの3Ⅾ映像は、本来、人を傷つけるためのものじゃない。僕は、ここで、それを証明しなきゃならない――」
「そうだよ、僕らの想像力を最大限に刺激して、世界はこんなにも不思議で美しいものなんだって教えてくれた。それが、アスカちゃんの創る世界なんだから!」
ひんやりとした大理石に胡坐をかいて座ると、投影装置の起動音が細かく空気を振動させていくのが肌で感じられる。
「僕はねぇ、この瞬間が大好きなんだ」
天井から闇が溶けだすように流れていく――。ぽうっとその闇に、星が、花が輝きを放ち始める。外界を遮断して逆に閉ざされていた世界が広がっていくさまは、自分の描きだした想像世界が、まるで現実にはみ出し、侵食していくようだった。
「この中で僕は何にでもなれるんだ」
デヴィッドは床の上に身を横たえ、自分を包む闇に溶け入るように手を伸ばす。
「脳に送る情報を書き換えれば、それも可能なのかな?」
飛鳥がデヴィッドにというよりも、自分自身に問いかけるかのように呟いた。
「書き換えるって?」
「たとえば鏡。鏡に映る自分の顔が他人の顔だったら? 初めは違和感があっても、そのうちそれは自分だって思いこむんじゃないのかな」
「本当は、自分の顔は変わってないのに?」
不思議そうに問いかけるデヴィッドに、飛鳥は頷く。
「自分がどんな顔をしているかなんて、僕はあんまり覚えてないよ。結構記憶なんていい加減なものでさ」
「それ、アスカちゃんが言う?」
ケラケラと声をたてて笑うデヴィッドに、飛鳥は苦笑を返す。
「僕は吉野とは違うよ。この空間だって、ただの仮想にすぎないだろ? でも脳はこれが実際の世界だって思いこんでしまうかもしれないんだ。――僕には、この映像は映像にしか見えないけど、他の人にはどうなのかな?」
「僕には、現実も、映像も区別つかないよ」
デヴィッドは起きあがり、居住まいを正して飛鳥に向き合った。
「だからこそだよ! この仮想空間で、僕らは空を飛び、海に潜り、地底を探検できるんだ。今まで一部のエキスパートしか得ることのできなかった視覚体験ができるんだよ。きみという天才の脳の中を探検することだってできるんだ!」
「何だか怖いよ。僕はとんでもないものを創りだしてしまったんじゃないか、て気がするんだ」
目の前にいる飛鳥の見ているのは、自分ではないのだ――。
虚ろに漂う飛鳥の瞳を見据えてデヴィッドはきつく唇を噛んでいた。おそらく飛鳥の瞳が映しているのは、脳内に住みついた自分が創りだした兵士たちの残像だと、彼にはすぐに察しがついていた。銃をかまえ、逃げ惑う敵を追って走る姿を、飛鳥は脳裏に思い描いているのだ。
吉野の無事が確認されたことで、そしてその当人があれほどの犠牲を払ってもなお戻ってはこないことで、飛鳥は自分のしたことを後悔し始めている。その迷いが、デヴィッドには手に取るように感じられていた。それは、飛鳥ほどではなくても確かに自分の中にもあるものだったからだ。本物と見まごう仮想を操るということ。背景ではない、人間を操ることの陶酔感と嫌悪感が混ぜこぜになって、自分の深い意識の中にこびりついている。
だがデヴィッドはそんな思いはおくびにも出さず、朗らかに笑い飛ばした。
「『夢のような、たわいのない出来事にすぎないのだから、お許しあれ』。アスカちゃん、生きることに疲れた現代人に見せる一夜の夢だよ。どんなに現実に見えてもそれは夢にすぎない。それでも、夢は人を癒し、励まし、回復させてくれるものだよ。――アスカちゃんの世界はね、僕にとって、そして多くの人々にとっても、そんな素敵な夢の世界なんだよ!」
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