胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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八章

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 飛ぶように滑りおりていく四輪駆動車の車中で、アレンはアシストグリップを握りしめ、もう一方の手で叫びださないように蒼白な自分の面の下半分を押さえこむように掴んでいる。
 横に座るヘンリーも体勢を崩さぬようには気を使っているようだが、アレンとは違い何食わぬ顔でフロントガラスを眺めている。

 見渡す限りの金色の砂の波、果てのない砂漠の彼方に、ゆらゆらと動く点のような緑が浮かぶ。

 着いたのか? あれがそうなのか?

 とアレンは兄に訊ねたかった。だが、口を開くと舌を噛んでしまいそうで、それ以上にぐらぐらと頭が揺れ続けている不快感に苛まれ、押し黙ったまま前方を見つめるしかない。

 吉野はこんなところで暮らしているのか、と変化のないここまでの道中を思い、容赦なく照りつける太陽に心までが乾ききっていくような殺伐感を味わいながら、アレンは最後に会った時の彼の変わらない笑顔を思い浮かべていた。この地で、この環境で変わらずにいるには、どれほどの意志力が必要なのだろうか、と。

 生半可な生き物が生存することを許さない灼熱の太陽。
 身の内側の涙すら蒸発させてしまいそうな熱風。
 この中に彼は立ち、働き続け、不毛の大地に緑の種を蒔き続けていたのだろうか。

 この国に到着し、吉野たちに合流するために砂漠に出てからの十数時間、アレンはそんなことばかりを考えていた。


「見えてきたよ」
 滑りおりるか、這いあがるか、その繰り返しだった砂丘をこえ、いつの間にか車は平坦な道にのっていた。平衡感覚がおかしくなっているアレンはいまだ酔ったように視点が定まらなかったが、フロントガラスの向こうには、日に焼けて色褪せたかのような白んだ緑を茂らせる樹々の連なりが、はっきりと見えていた。


 車中で兄から渡された大判の白いスカーフを頭に巻きつけ、車から降りたつ。真っ直ぐに立つことさえ覚束無いアレンに気づいたのか、ヘンリーがさりげなく腕を支えてくれる。

「もう到着しているようだ」

 ヘンリーのその言葉を支えに、アレンも、高く聳える椰子の木の麓に点在する白いテントに視線を据えた。緊張と道中の疲れからくる不快感で強ばっていた頬が、やっと緩んで笑みが零れた。


 白いサウブを翻した集団が近づいてきている。だがその中に吉野はいない。ここまで案内してくれた運転手がアラビア語で何か言っている。

 ヘンリーに促されるまま、アレンも彼らに従って歩を進めた。

 白テントの向こうには翡翠色の水を湛えた湖面が広がり、霞みがかったようにぼやけた空と辺りを縁取る樹々の緑を映している。
 吉野がいるのが乾ききった砂漠ではなく、わずかでも潤いのあるオアシスであることが、アレンには嬉しく思えた。


「アレン!」

 懐かしい声に、彼はふらつく身体を忘れて駆けだしていた。

「サウード!」

 別れの言葉すら言ってくれなかった友人を、固く抱きしめる。

「きみが無事で良かった!」

 懐かしさと再会の喜びで、上手く言葉がでてこない。一年ぶりに逢うサウードは、何も変わらないようでいて、ずっと精神的に大人びたような、そんな深くて静かな夜の瞳をしている。


「来てくださって、感謝しています」

 傍らのヘンリーと、サウードは固く握手を交わしている。アレンはそんな二人の様子を眺めながら、じっと待っていた。吉野が現れるのを――。



 一行は、一番奥にあるテントへと誘われた。サウードは、まだ何も言ってくれない。

 布の一面を四角く切りとり巻きあげた入口から一歩テント内に入れば、じりじりと肌を焼いていた空気が嘘のように冷めたく感じられた。
 サウードは、ここにきてやっと意を決したようにアレンを抱きしめ、その耳元で告げる。

「ヨシノはここにはいない。僕と一緒ではないんだ」

 暗転した視界に完全に身体を支えることのできなくなったアレンを、サウードは予期していたかのように抱きとめている。幾何学模様の真紅の絨毯を滑るように進み、入口を除く三方を囲うように設置されている低い長ソファー上に、そっと彼を横たえる。

「彼は、ちっとも変わらないですね」

 その頭上に自分も腰をおろし、ふわり、とサウードは成り行きを見守っていたヘンリーに頬笑みかけた。ヘンリーは苦笑でもって応えた。

「強くなったよ、これでも」
「彼は元から強い人ですよ。だからヨシノは、彼のことを一片たりとも疑わない。――信じているからこそ、こんな残酷な真似ができる」
「それでも、自分を裏切ることはないと?」

 黒曜石の瞳を静かに揺らし、サウードはゆっくりと頭を振った。

「それでも、自分を失望させることはないと」



 自分の向かいに一人がけソファーを運ばせ、サウードは側近の運んできたお茶をヘンリーに勧めた。傍らに横たわるアレンのスカーフをそっと外し、用意させた濡れタオルで汗にまみれた顔を拭き、冷えた水を湛えたボールで何度か濯ぎながら、その火照った顔を冷やしてやる。

「ヨシノは、よくこうやって彼の額を冷やしてあげていました。アレンは頻繁に風邪をひいて熱を出していたので」

「身体が弱いからね、この子は」
「それなのに、こんなところまで来てくれた」
「あなたは、どうやってここまで? 国境は封鎖されているのでしょう?」

 訊かなくても答えは知っているらしいヘンリーの揺るぎない瞳に、サウードもまた鷹揚な頬笑みを返した。

「ご想像の通りです。国境を持たない民に守られて、ここまで連れてきてもらいました」
「駱駝で?」
 サウードはふふっと笑って頷く。
「快適でしたよ。おそらく4WDよりは」

「それなら、僕にも手配してもらえるかな?」

 まっすぐに向けられているセレスト・ブルー。今は閉じられたままの友人とよく似た瞳を、サウードは目を瞠って見つめ返した。だが彼は何も応えられないまま、ぐっと膝上でその拳を固く握りしめるばかりだった。




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