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八章
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爽やかな青空の下、すでにレセプション会場は多くの父兄や来賓客、卒業生で賑わっている。和やかな空気に落ちついた談笑がさんざめく。色取り取りのスーツ姿の彼らの立つ、鮮やかな芝の緑が目に眩しい。
遅れて到着したアレンにいち早く気づき、いつも通りのにこやかな笑みを湛えてたヘンリーが、「卒業おめでとう」と歩みより、シャンパングラスを差しだす。通常であれば、「ありがとうございます」とはにかんだ笑みを浮かべて受け取ったであろうアレンだが、今はその美しい面を強張らせたまま兄を睨めつけている。
「ヨシノに何があったんです?」
「何も。彼は普段通りだよ」
「じゃあ、どうして、」
声を荒らげたアレンを、ヘンリーは静かな眼差しで見据えて言った。
「落ちついて。きみには監督生代表としてすべきことがあるだろう? ほら、彼らはきちんと自らの役目を果たしているよ」
はっとして、アレンは友人たちの姿を賑やかな集団のなかに探した。
クリスもフレデリックも、監督生として、そして寮長、銀ボタン保持者として、いつの間にか、来賓や先生方とにこやかに挨拶を交わしているではないか。あんな事があったばかりなのにも関わらず――。再びアレンが兄に視線を戻すと、ヘンリーは穏やかな笑みを湛えて頷く。その温かな眼差しに、アレンは自らを恥じて視線を落とした。
「ありがとうございます」
しゃっきりと頭をあげ、アレンは差しだされていたグラスを受け取ると、その金色の輝きをヘンリーのグラスに軽く打ち合わせた。
お世話になった先生方、来賓客への謝辞、歓談。これまで言葉を交わすことのなかった同期生までもが、この日ばかりはとアレンに言葉をかけてくる。
心は、遠く異国の地で危険に晒されているのかもしれない吉野の身を案じながら、アレンも、クリスも、フレデリックも、学校の代表として笑みを絶やさず自らの役目を演じている。
「一言くらい教えて差しあげればいいのに」
会場からわずかに逸れた木陰では、フィリップが傍らのヘンリーにちらと目を遣り憮然と呟いていた。
「こんな場所でするような話題じゃないよ」
ヘンリーは静かに返答する。
「でも、ありがとう。きみがいてくれて助かったよ」
労いの言葉にフィリップはかすかに顔をほころばせる。だが彼はすぐにそんな自分を誤魔化すように胸を張ると、「当然のことをしたまでです」とつんと澄ました調子で答えていた。
レセプション会場からカレッジ・ホールに移動し、表彰式、そして会食へとセレモニーは続く。
そんななかで、アレンはじりじりとした思いで時をすごしていた。父兄としてではなく来賓としてこの場に列席している兄の姿に、時折目を走らせる。その傍らには、いつの間にきたのかアーネストの姿もある。落ち着いた二人の表情、仕草からは何も見いだすことができないまま、吐息を呑みこむ。話しかけられる声にも、その内容にもどこか上の空のまま、味のしない晩餐を機械的に口に運ぶだけだった。
「アレン」
緊張したフレデリックの声音に、アレンはびくりと跳ねあがる。
「荷物はもう片づけてある?」
寮を引き払うのは明日なので大方の片づけは終わっている。だがアレンは、彼の緊迫した眼差しからこの問いかけの本当の意味を察して、すぐに頷いた。
「後は簡単な身の周りのものくらいだから。クリスは、」
視線を移した先では、クリスも笑みを消した緊張した面持ちで頷いている。だが、あっと思い出したようにクリスは首を捻る。
「でも、僕の迎えは明日だよ――」
「ヘンリー卿がもう連絡を入れて下さっている。今日は僕たちと一緒にケンブリッジに滞在するように、って」
それを聞いていた周囲からどよめきがあがった。
「今日出るのか! 打ちあげは?」
「参加しないのか!」
「冗談だろ!」
憮然とした声に、フレデリックが適当な言い訳を返している。アレンもクリスも、顔に申し訳なさそうな笑みを貼りつかせていた。だが、アレンの視線は、しきりに残念がっている周囲の声を越えてカレッジホールの窓外の暮れかかる茜色に向けられ、やがてその唇は微笑むことを忘れ、ぎゅっとを引き結ばれていった。
晩餐会を終えるなり、彼らは急いで寮に戻ると荷物をまとめた。感傷に浸る暇などないのだ。ほどなくフレデリックがアレンの部屋のドアを叩いた。
「出れる?」
「今、済んだところ」
アレンはスーツケースを引きずって自室を後にすると、クリスの部屋のドアを叩く。
「待って! あともうちょっと!」
クリスも大急ぎで散らかった衣類をボストンバッグに詰め込んでいる。
「正門にお迎えが来られています。残りは僕がまとめて送って差しあげますから」
アレンとフレデリックの隙間からフィリップが顔を覗かせている。クリスは、こまごまと散らかった部屋を見回してため息をつくと、諦めたように頷いた。
「お願いするよ、でも――」
「早く、クリス!」
アレンの声に遮られ、クリスは未練たらしく吐息を漏らす。
廊下にはすでに寮生すべてが出揃っているんじゃないか、というほどに続々と人が集まっていた。
「元気でな!」
「創立祭には来て下さい!」
「クリスマスコンサートにも!」
「大学で会おうな!」
早足で廊下をいく彼らに、次々と声がかけられる。
「寮監に挨拶をしなくちゃ。チューターの先生方にも――」
ふっと思い出したようにフレデリックを振り返ったアレンに、彼はにっこりと頷き返した。
階段から見おろす寮の正面扉の前に、寮監、チューターの先生方、寮母さん、はてはカレッジ寮厨房のコックまでもがいるではないか。
アレンは、その一人一人と握手を交わしお礼を言った。
「きみは実に印象深い生徒だったよ。これからもしっかり頑張りなさい」と、寮監に肩を抱かれた時には、涙が零れ落ちそうだった。
「落ちつきましたら、いずれまたご挨拶にうかがわせてください」
フレデリックは、この切迫した突然の出立に頭をさげている。
「なあに、すぐにまた会える。きみの本のなかでな」
寮監は茶目っ気たっぷりに微笑み返している。
「あのやんちゃ坊主にもよろしく伝えてくれ。いつでも遊びにこいとな!」
寮中に見送られて、彼らはすっかり日の落ちた正門をくぐりぬけた。フレデリックやクリスは、来期の寮長や代表に最後の言葉をかけている。
ふと初めてこの門をくぐった日のことが、アレンの脳裏をよぎっていた。たった一人、期待よりも不安で押しつぶされそうになりながら――。
「エリオットの大天使!」
歓声に、アレンは意識を引き戻される。
「エリオットの大作家!」
「僕は?」
クリスの眉根が不安に歪んでいる。
「ガストン家の男だろ!」
誰かがすかさず叫んだ。
「エリオットいち、友情に厚い男さ!」
「エリオットいちのやんちゃカラス、ヨシノ・トヅキ先輩と一緒にまた学校を覗きにきてください! あなた方とともに過ごした日々を、僕たちは生涯忘れません! あなた方こそが、僕たちの英雄でした! 今この瞬間も、そしてこれからも、あなた方こそがカレッジ寮の、このエリオットの伝説です!」
歓声と拍手に見送られて、アレンたちは門の前で待機していた車に乗りこんだ。その車が石畳を走りぬけ、昏い夜空に溶けて消えさるまで、見送る生徒たちは声を張りあげ、その手を高く振り続けていた。
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「じゃあ、どうして、」
声を荒らげたアレンを、ヘンリーは静かな眼差しで見据えて言った。
「落ちついて。きみには監督生代表としてすべきことがあるだろう? ほら、彼らはきちんと自らの役目を果たしているよ」
はっとして、アレンは友人たちの姿を賑やかな集団のなかに探した。
クリスもフレデリックも、監督生として、そして寮長、銀ボタン保持者として、いつの間にか、来賓や先生方とにこやかに挨拶を交わしているではないか。あんな事があったばかりなのにも関わらず――。再びアレンが兄に視線を戻すと、ヘンリーは穏やかな笑みを湛えて頷く。その温かな眼差しに、アレンは自らを恥じて視線を落とした。
「ありがとうございます」
しゃっきりと頭をあげ、アレンは差しだされていたグラスを受け取ると、その金色の輝きをヘンリーのグラスに軽く打ち合わせた。
お世話になった先生方、来賓客への謝辞、歓談。これまで言葉を交わすことのなかった同期生までもが、この日ばかりはとアレンに言葉をかけてくる。
心は、遠く異国の地で危険に晒されているのかもしれない吉野の身を案じながら、アレンも、クリスも、フレデリックも、学校の代表として笑みを絶やさず自らの役目を演じている。
「一言くらい教えて差しあげればいいのに」
会場からわずかに逸れた木陰では、フィリップが傍らのヘンリーにちらと目を遣り憮然と呟いていた。
「こんな場所でするような話題じゃないよ」
ヘンリーは静かに返答する。
「でも、ありがとう。きみがいてくれて助かったよ」
労いの言葉にフィリップはかすかに顔をほころばせる。だが彼はすぐにそんな自分を誤魔化すように胸を張ると、「当然のことをしたまでです」とつんと澄ました調子で答えていた。
レセプション会場からカレッジ・ホールに移動し、表彰式、そして会食へとセレモニーは続く。
そんななかで、アレンはじりじりとした思いで時をすごしていた。父兄としてではなく来賓としてこの場に列席している兄の姿に、時折目を走らせる。その傍らには、いつの間にきたのかアーネストの姿もある。落ち着いた二人の表情、仕草からは何も見いだすことができないまま、吐息を呑みこむ。話しかけられる声にも、その内容にもどこか上の空のまま、味のしない晩餐を機械的に口に運ぶだけだった。
「アレン」
緊張したフレデリックの声音に、アレンはびくりと跳ねあがる。
「荷物はもう片づけてある?」
寮を引き払うのは明日なので大方の片づけは終わっている。だがアレンは、彼の緊迫した眼差しからこの問いかけの本当の意味を察して、すぐに頷いた。
「後は簡単な身の周りのものくらいだから。クリスは、」
視線を移した先では、クリスも笑みを消した緊張した面持ちで頷いている。だが、あっと思い出したようにクリスは首を捻る。
「でも、僕の迎えは明日だよ――」
「ヘンリー卿がもう連絡を入れて下さっている。今日は僕たちと一緒にケンブリッジに滞在するように、って」
それを聞いていた周囲からどよめきがあがった。
「今日出るのか! 打ちあげは?」
「参加しないのか!」
「冗談だろ!」
憮然とした声に、フレデリックが適当な言い訳を返している。アレンもクリスも、顔に申し訳なさそうな笑みを貼りつかせていた。だが、アレンの視線は、しきりに残念がっている周囲の声を越えてカレッジホールの窓外の暮れかかる茜色に向けられ、やがてその唇は微笑むことを忘れ、ぎゅっとを引き結ばれていった。
晩餐会を終えるなり、彼らは急いで寮に戻ると荷物をまとめた。感傷に浸る暇などないのだ。ほどなくフレデリックがアレンの部屋のドアを叩いた。
「出れる?」
「今、済んだところ」
アレンはスーツケースを引きずって自室を後にすると、クリスの部屋のドアを叩く。
「待って! あともうちょっと!」
クリスも大急ぎで散らかった衣類をボストンバッグに詰め込んでいる。
「正門にお迎えが来られています。残りは僕がまとめて送って差しあげますから」
アレンとフレデリックの隙間からフィリップが顔を覗かせている。クリスは、こまごまと散らかった部屋を見回してため息をつくと、諦めたように頷いた。
「お願いするよ、でも――」
「早く、クリス!」
アレンの声に遮られ、クリスは未練たらしく吐息を漏らす。
廊下にはすでに寮生すべてが出揃っているんじゃないか、というほどに続々と人が集まっていた。
「元気でな!」
「創立祭には来て下さい!」
「クリスマスコンサートにも!」
「大学で会おうな!」
早足で廊下をいく彼らに、次々と声がかけられる。
「寮監に挨拶をしなくちゃ。チューターの先生方にも――」
ふっと思い出したようにフレデリックを振り返ったアレンに、彼はにっこりと頷き返した。
階段から見おろす寮の正面扉の前に、寮監、チューターの先生方、寮母さん、はてはカレッジ寮厨房のコックまでもがいるではないか。
アレンは、その一人一人と握手を交わしお礼を言った。
「きみは実に印象深い生徒だったよ。これからもしっかり頑張りなさい」と、寮監に肩を抱かれた時には、涙が零れ落ちそうだった。
「落ちつきましたら、いずれまたご挨拶にうかがわせてください」
フレデリックは、この切迫した突然の出立に頭をさげている。
「なあに、すぐにまた会える。きみの本のなかでな」
寮監は茶目っ気たっぷりに微笑み返している。
「あのやんちゃ坊主にもよろしく伝えてくれ。いつでも遊びにこいとな!」
寮中に見送られて、彼らはすっかり日の落ちた正門をくぐりぬけた。フレデリックやクリスは、来期の寮長や代表に最後の言葉をかけている。
ふと初めてこの門をくぐった日のことが、アレンの脳裏をよぎっていた。たった一人、期待よりも不安で押しつぶされそうになりながら――。
「エリオットの大天使!」
歓声に、アレンは意識を引き戻される。
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「僕は?」
クリスの眉根が不安に歪んでいる。
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誰かがすかさず叫んだ。
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歓声と拍手に見送られて、アレンたちは門の前で待機していた車に乗りこんだ。その車が石畳を走りぬけ、昏い夜空に溶けて消えさるまで、見送る生徒たちは声を張りあげ、その手を高く振り続けていた。
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