胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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八章

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「お帰り、吉野」

 タクシーの停まる音。ケンブリッジの中心地にあるフラットでは、待ちかまえていた飛鳥が、玄関の呼び鈴の鳴る前にドアを開けて満面の笑みで弟を出迎えていた。とっくに闇に沈んでいる前庭の外灯が、にっと嬉しそうに目を細めている吉野を照らしている。

「ただいま」
「まったく、お前って奴はぎりぎりにしか戻ってこないんだから」
「まぁ、そう言うなよ。ちゃんと帰ってきたんだからさ」
「もう少し早けりゃ、アレンもハーフタームで会えたのに」

 唇を尖らせて小言を言う飛鳥を軽くあしらい、吉野はキッチンに向かい、さっそくコーヒーを淹れる準備を始める。

「あいつ、どうだったって?」
「試験?」
 頷く吉野に、飛鳥はまた叱るように顔をしかめる。
「本人に訊きなよ」
「訊いたんだけどさぁ、教えてくれないんだ。あいつ、最近すげぇ俺に意地悪なんだぞ。こっちは心配してるってのにさぁ」
「調子良くない、なんて言うと、お前のことだから試験問題をハッキングしてきかねないって、思ってるんじゃないの?」
 揶揄うような飛鳥の口調に、吉野は肩をすくめてみせる。
「するわけないだろ、そんな真似」
「本当かなぁ?」
「そんなことまでしなくても、あいつなら充分A評価を取ってくるよ」
 吉野は呆れた口調で笑っている。

「お前って、見かけによらず、信じるんだよな」
 ふっと口調を変えて呟いた飛鳥に、吉野は淹れたてのコーヒーを差しだした。
「なんだよ、その見かけによらずってのは?」

 乱暴な口調の割に、吉野の顔は笑っている。

 ふと中東情勢の悪化とともに感じ始めたギクシャクとした空気を、飛鳥は思いだしていた。その渦中にいる吉野に真実を訊きたい衝動にかられながらも、心の中で首を振る。

 こいつは、皆が思っているような奴じゃない。何よりも信頼関係を大切にするし、自分を信じて力を貸してくれた人を裏切ったりしない。そりゃたまには、馬鹿な真似もしでかしたりするけど――。

「僕はいつだってお前を信じてるよ」
 ふわりと微笑んだ飛鳥に、吉野はにっと唇の端を上げて微笑み返す。
「当然だろ」

 飛鳥は黙ったままカップを口に運んだ。柔らかな薫香が鼻腔を擽る。ゆっくりと飲み干し、カチャリとカップを置く。

「訊かないんだね」
「新発明のことか?」
「新、って訳でもないけどね」
「言うなよ、あいつらには」
「できることをやらなかった、これって背任行為かな?」
「ばらしちまったのか?」

 飛鳥はゆっくりと首を横に振る。

「夏のイベントで紫の薔薇の3D映像を配るんだ。宝探しの商品としてね」
「紫の? ヘンリーの親父が作った薔薇か?」

 飛鳥は軽く頷いた。

 TSタブレットで配る立体映像に、あの紫の薔薇を提案したのはヘンリーだ。それはアーカシャーHDのシンボルカラーと同じ色の花で、温室ではなく庭で育てられている。室内でしか見ることのできなかった立体映像を戸外に、世界に広げる第一弾として、飛鳥にもそれはとてもふさわしく思えた。

「何だかさ、やるせないな」
「ん? 何が?」
「飛鳥、あの薔薇の名前、知らないのか?」
「名前? 薔薇に名前なんかあるの?」
「そりゃあるよ。当たり前だろ」

 当たり前と言われて、飛鳥は怪訝な顔で吉野を見つめ返した。薔薇は薔薇だ。それ以外の名があるとは思えなかったのだ。

「ヘンリーの父親がさ、あいつのために交配して作りだした花なんだよ。あの青紫はさ。あいつの瞳の色だろ?」

 言われてみれば確かにそうだ。光に透き通る彼の瞳の色だと言われれば、納得できる。

「あいつの母親の瞳の色でもある」
「アレンも同じだね」

 あの引き込まれるようなセレストブルーの瞳を思いだしながら、飛鳥は頷いた。

「『悔恨』って名前なんだ。あの花は」
「どういう意味? 彼が生まれてきたことを、お父さんは後悔してたっていうの?」
 飛鳥は信じられない、とばかりにきつく眉を寄せる。
「そうじゃない。そうじゃないよ。あいつの父親が後悔していたのは、ヘンリーの母親との関係だよ。そういう言い方だった」
「誰に聞いたの?」
「ゴードンさん。庭師の」

 ヘンリーの口からは終ぞ語られることのない彼の母親の話題が、予期せず弟の口から零れ落ちるなんて――。

 この事実に飛鳥は混乱しているようだ。吉野はそんな兄を見てくすりと笑った。

「コーヒー、おかわりいれようか?」

 黙って差しだされたカップを引き寄せ、吉野はカウンターから立ち上がりお湯を沸かす。

「なぁ、おれさぁ、ちゃんと解ってるつもりだよ。俺がどんなことをしたら飛鳥が哀しいか。――あいつが泣くか」

 捲くり上げられた袖から覗く、コーヒー豆と変わらないくらい真っ黒に日焼けした吉野の腕を眺め、次いで静かな弟の瞳を眺め、そしてその下に薄らと流れる頬の傷を眺めながら、飛鳥は頷いた。

「お前、それだけ日焼けしていると傷が目立たないね」
「そうか? 残念だな。この傷を見るとさ、大抵の奴がビビるから重宝してるのにな」
「誰をビビらせてるんだよ?」

 ふふっと笑いながら、とぽとぽと丁寧にコーヒーをドリップする弟を、飛鳥は目を細めて眺めている。湯気の中に吉野の姿が揺れる。


 悔恨――。

 することのないように、ヘンリーはあの薔薇をシンボルとしたのだろうか? それとも他にもまだ意味があるのだろうか?

 吉野が自分に、自分がヘンリーに話せないことがあるように、彼にもまた、自分たちに話せないことがある。
 お互いがお互いに、すべてをオープンにしあっている訳では決してないのだ。


「ほら、それ飲んだら俺もう寝るよ。明日の朝、早いんだ」

 差しだされたカップを受け取り、飛鳥は微笑んで頷いた。

「試験、頑張れよ」


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