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八章
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目を瞑り、ヘンリーは柔らかく鼻腔を刺激する青臭い芝の香りを胸いっぱいに吸い込んでいた。
こんなふうに芝生に寝転がるのは何年ぶりだろう?
目を開けて、頭上高く広がる蒼空を眺める。
――きみも、空の青さに憧れたことがある?
飛鳥のように、空に向かって腕を伸ばす。
草いきれが遠い記憶を刺激する。すでに遠い――、わずか数年前にすぎないはずの――。
「ヘンリー!」
呼ばれて身を起こし、声の方へと面を向ける。
「お帰り、アーニー」
「めずらしいね、きみがこんなふうにぼんやりしているなんて」
呆れたように微笑みつつ彼を見下ろし、アーネストも腰を下ろした。
「僕にだって休息は必要だよ。特にこんなご時世にはね」
小さく吐息を漏らしたヘンリーに、アーネストは軽い調子で頷き返した。
「早耳だね。――情報源はヨシノかな?」
沈黙に風のさやけさが応えたかのように、さやさやと音を立てる。
「ヨシノはどっちにつくの?」
ヘンリーはそれにも答えなかった。
「英国は?」
返答の代わりに尋ねられた問いに、アーネストは困ったように首を傾げた。
「軍事介入はしない」
「建前上は、だろ」
今現在、吉野のいるサウードの本国マシュリク国では、宗教間の派閥争いを建前としたテロ事件が絶えず、国内は混乱を増している。首都圏こそは通常と変わらず平和を謳歌しているように見えるが、地方の石油基地では、強奪、奪還の繰り返しですでに内戦状態といってよいほどだ。
「よくあんなところにヨシノを帰したね。アスカがよく許したよ。そっちの方に驚いた」
アーネストのどこか責めるような口調に、ヘンリーは辛そうな笑みを浮かべて答えた。
「アスカは知らないんだ。ニュースで報道されてはいないからね」
というよりも、報道規制がけられている節があるから。
ヘンリーは表情を引き締め、アーネストを見据えた。
「英国は、大臣側か。逆賊につくとはね」
「どちらも同じ王室だよ。現国王も、アブド大臣も。叔父と甥じゃないか」
「内政干渉だ」
「そうならないように、速やかに終わらせる」
イスラムの戒律に則ったイスラム国家らしい独立した体制を貫こうとする現政権よりも、国際情勢に明るく、より親米派で開けた思想の持ち主であるアブド大臣を王座につけようとする一派が、国内の混乱に乗じて蠢いている。
ここまでは以前からいわれていたことだ。そこへ吉野が加わった。吉野のもたらした経済改革が一気に労働力を集め、それまで石油の恩恵を受けることのなかった底辺労働者の生活を底上げし、アブド大臣の人気を高めることに一役買ったのだ。原油価格の低迷がもたらした暗澹たる未来から、光を呼び戻した聡慧なる大臣、それが現在のアブド大臣の評価なのだ。
この情勢に、欧米諸国が内密に介入しようとしている。トップ交代が起こるのであれば、今のうちに売れるだけ恩を売っておけ、というところだろう。
「ヨシノはすっかり、アブド大臣の片腕のように扱われているじゃないか。でも、もとはサウード殿下の側近としてあの国に滞在しているんだろう? その辺り、どうなっているの?」
ヘンリーはやはり答えずに、煙草を取りだし火を点けた。
「英国は、まだトヅキの人間を国内に留め置きたいと思っているのかい?」
TSの軍事利用への打診がない訳ではない。レーザーガラスの特殊製法にしても然りだ。そのすべてが、飛鳥と同じように杜月吉野の頭の中にも詰まっていると知られたら――。
ヘンリーは心の内を曝け出してしまわないように、遠まわしに訊ねた。聡いアーネストなら、どんな言い方をしても気付くかもしれないと勘ぐりながら。
「どうだろうね? ヨシノはあくまで日本人だよ。何かあったとしても、英国が表だって保護する義務もない。僕が心配しているのはそこなんだよ?」
「ウィリアムを護衛につけてある」
顔色を変えて息を呑んだアーネストに、ヘンリーは微笑を返した。
「情勢がどう動こうと、あの子は守りぬくよ。彼が、命に変えてもね」
「……彼が命を捨ててもかまわないのは、きみのためだけだ」
「だからこそ適任だろ? 僕が心底信頼できるのはウィルだけだよ。彼は僕の一部だもの」
銜えた煙草を燻らせ、ヘンリーはコンサバトリーに視線を移して目を細める。そこでは飛鳥とサラが、天井を指差しながら真剣な顔で話し合っている。
「それに、ことが起きた時には、ルベリーニも黙って見ているなんて真似はしないだろうよ。世界があの子の動向を息を潜めて見守っているんだ。――そのことを知らないのは、アブド大臣くらいのものさ」
「きみは知っているんだろう? あの子、どっち派なんだい? いざ軍事行動が起こされた場合、今のあの子の立ち位置じゃ、民間人だって言い逃れできる立場じゃないんだよ!」
「ヨシノは勝つ方につくよ。彼が確率計算を過つことはない」
にっと笑いながらヘンリーはポケットをごそごそと探して、小さく吐息を漏らした。
「しまった。携帯灰皿を忘れたよ。芝生に吸殻を捨てるとゴードンに叱られるんだ」
「――はい」
差しだされた自分のイニシャル入りの携帯灰皿に、ヘンリーは怪訝そうにアーネストを見返した。
「居間のソファーに落ちていた」
「ありがとう」
一見懐中時計のような鈍い銀色が光る灰皿で煙草をもみ消し、蓋を閉じる。
「最近、僕もアスカの気持ちが解るようになってきたよ。籠の中で美しく囀る鳥もいれば、大空を自由に羽ばたいている姿が見たいと思わせる鳥もいる」
「怖々と見守るのも楽しみのうち?」
アーネストはくすりと笑った。
「まぁ、解るよ。僕の弟も大馬鹿ものだったからねぇ」
「だった? 過去形かい?」
「ああ、確かに、今も変わりなくだねぇ――」
揃って見上げる麗らかな蒼空には、ぽっかりと白い雲が浮かんでいた。
こんなふうに芝生に寝転がるのは何年ぶりだろう?
目を開けて、頭上高く広がる蒼空を眺める。
――きみも、空の青さに憧れたことがある?
飛鳥のように、空に向かって腕を伸ばす。
草いきれが遠い記憶を刺激する。すでに遠い――、わずか数年前にすぎないはずの――。
「ヘンリー!」
呼ばれて身を起こし、声の方へと面を向ける。
「お帰り、アーニー」
「めずらしいね、きみがこんなふうにぼんやりしているなんて」
呆れたように微笑みつつ彼を見下ろし、アーネストも腰を下ろした。
「僕にだって休息は必要だよ。特にこんなご時世にはね」
小さく吐息を漏らしたヘンリーに、アーネストは軽い調子で頷き返した。
「早耳だね。――情報源はヨシノかな?」
沈黙に風のさやけさが応えたかのように、さやさやと音を立てる。
「ヨシノはどっちにつくの?」
ヘンリーはそれにも答えなかった。
「英国は?」
返答の代わりに尋ねられた問いに、アーネストは困ったように首を傾げた。
「軍事介入はしない」
「建前上は、だろ」
今現在、吉野のいるサウードの本国マシュリク国では、宗教間の派閥争いを建前としたテロ事件が絶えず、国内は混乱を増している。首都圏こそは通常と変わらず平和を謳歌しているように見えるが、地方の石油基地では、強奪、奪還の繰り返しですでに内戦状態といってよいほどだ。
「よくあんなところにヨシノを帰したね。アスカがよく許したよ。そっちの方に驚いた」
アーネストのどこか責めるような口調に、ヘンリーは辛そうな笑みを浮かべて答えた。
「アスカは知らないんだ。ニュースで報道されてはいないからね」
というよりも、報道規制がけられている節があるから。
ヘンリーは表情を引き締め、アーネストを見据えた。
「英国は、大臣側か。逆賊につくとはね」
「どちらも同じ王室だよ。現国王も、アブド大臣も。叔父と甥じゃないか」
「内政干渉だ」
「そうならないように、速やかに終わらせる」
イスラムの戒律に則ったイスラム国家らしい独立した体制を貫こうとする現政権よりも、国際情勢に明るく、より親米派で開けた思想の持ち主であるアブド大臣を王座につけようとする一派が、国内の混乱に乗じて蠢いている。
ここまでは以前からいわれていたことだ。そこへ吉野が加わった。吉野のもたらした経済改革が一気に労働力を集め、それまで石油の恩恵を受けることのなかった底辺労働者の生活を底上げし、アブド大臣の人気を高めることに一役買ったのだ。原油価格の低迷がもたらした暗澹たる未来から、光を呼び戻した聡慧なる大臣、それが現在のアブド大臣の評価なのだ。
この情勢に、欧米諸国が内密に介入しようとしている。トップ交代が起こるのであれば、今のうちに売れるだけ恩を売っておけ、というところだろう。
「ヨシノはすっかり、アブド大臣の片腕のように扱われているじゃないか。でも、もとはサウード殿下の側近としてあの国に滞在しているんだろう? その辺り、どうなっているの?」
ヘンリーはやはり答えずに、煙草を取りだし火を点けた。
「英国は、まだトヅキの人間を国内に留め置きたいと思っているのかい?」
TSの軍事利用への打診がない訳ではない。レーザーガラスの特殊製法にしても然りだ。そのすべてが、飛鳥と同じように杜月吉野の頭の中にも詰まっていると知られたら――。
ヘンリーは心の内を曝け出してしまわないように、遠まわしに訊ねた。聡いアーネストなら、どんな言い方をしても気付くかもしれないと勘ぐりながら。
「どうだろうね? ヨシノはあくまで日本人だよ。何かあったとしても、英国が表だって保護する義務もない。僕が心配しているのはそこなんだよ?」
「ウィリアムを護衛につけてある」
顔色を変えて息を呑んだアーネストに、ヘンリーは微笑を返した。
「情勢がどう動こうと、あの子は守りぬくよ。彼が、命に変えてもね」
「……彼が命を捨ててもかまわないのは、きみのためだけだ」
「だからこそ適任だろ? 僕が心底信頼できるのはウィルだけだよ。彼は僕の一部だもの」
銜えた煙草を燻らせ、ヘンリーはコンサバトリーに視線を移して目を細める。そこでは飛鳥とサラが、天井を指差しながら真剣な顔で話し合っている。
「それに、ことが起きた時には、ルベリーニも黙って見ているなんて真似はしないだろうよ。世界があの子の動向を息を潜めて見守っているんだ。――そのことを知らないのは、アブド大臣くらいのものさ」
「きみは知っているんだろう? あの子、どっち派なんだい? いざ軍事行動が起こされた場合、今のあの子の立ち位置じゃ、民間人だって言い逃れできる立場じゃないんだよ!」
「ヨシノは勝つ方につくよ。彼が確率計算を過つことはない」
にっと笑いながらヘンリーはポケットをごそごそと探して、小さく吐息を漏らした。
「しまった。携帯灰皿を忘れたよ。芝生に吸殻を捨てるとゴードンに叱られるんだ」
「――はい」
差しだされた自分のイニシャル入りの携帯灰皿に、ヘンリーは怪訝そうにアーネストを見返した。
「居間のソファーに落ちていた」
「ありがとう」
一見懐中時計のような鈍い銀色が光る灰皿で煙草をもみ消し、蓋を閉じる。
「最近、僕もアスカの気持ちが解るようになってきたよ。籠の中で美しく囀る鳥もいれば、大空を自由に羽ばたいている姿が見たいと思わせる鳥もいる」
「怖々と見守るのも楽しみのうち?」
アーネストはくすりと笑った。
「まぁ、解るよ。僕の弟も大馬鹿ものだったからねぇ」
「だった? 過去形かい?」
「ああ、確かに、今も変わりなくだねぇ――」
揃って見上げる麗らかな蒼空には、ぽっかりと白い雲が浮かんでいた。
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