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八章
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「今日は進まないみたいだね、アスカちゃん」
コンサバトリーのローテーブルを挟んで、ぼんやりと対座している飛鳥を呆れ顔で眺めると、デヴィッドは膝の上のスケッチブックをいったん脇に置いた。
「なんだかショックでさ」
ソファーの上に膝を抱えあげて、ため息混じりに呟かれた飛鳥の返事に、デヴィッドも憂いを秘めた瞳を伏せて頷く。
「アスカちゃんは、そのパブのご主人にお逢いしたことがあるんだよね。アーニーも、何度か訪れたって言ってたし、僕だけなのかぁ、面識がないのは……」
「うん……。僕も、しばらくお世話になってたんだ。吉野、本当に可愛がってもらってたんだ」
生気のない飛鳥の声に、デヴィッドは急に怒ったように眉根を寄せる。
「きみも一緒に行けば良かったのに」
だが、飛鳥は首を大きく横に振る。
「吉野が向こうに戻ったらね。邪魔になりたくないんだ。吉野にしても、ヘンリーにしても、彼との思い出は特別なんだろ? アレンだって――」
「行く前から泣いちゃってたねぇ……」
昨日、ヘンリーとの密談めいた歓談から戻ってきた吉野が告げたジャックの病とその病状を聞くなり、顔をくしゃくしゃにして涙を零していたアレンを思いだし、デヴィッドの胸にはどこか息苦しさを感じる不安がよぎっていた。
英国に来た頃に比べると友人も増えて人慣れしてきたとはいえ、いまだ限られた付き合いの中で生きているとしか見えないアレンが、下層階級の、場末のパブの主人の身を案じて泣くなどと想像もつかなかったのだ。
実際のところ、こうして彼を知る前に知らされていたほど、彼はレイシストではないし、英国人の様に階級意識が強い訳でもない。けれど、そのパブの主人が、アレンにとってそこまでの存在であったことに、彼がそんなに深く他人に関わっていた事に違和感を覚えたのだ。
関わっていた――、というよりも、アレンは自分に向けられた親切や、損得ぬきにかけられた愛情に対して、深すぎるほどの感謝と信頼を寄せてしまうのでは――。そんなふうに思えてならなかったのだ。
あの子は、優しすぎるんだ――。
「お茶を淹れてもらってくるよ。それに、何か甘いものもね」
そんな自分の危惧を振り払うために、そして、ため息ばかりついている飛鳥を慰めるように、デヴィッドは微笑み立ちあがった。
「アスカ」
入れ違いに入ってきたサラが、デヴィッドの腰かけていたソファーに座る。
「ん?」
気のぬけた返事にはおかまいなしで、サラは空中に映しだした映像を飛鳥に送ってみせる。
「ヨシノの予測した為替レートの変動幅と、それに連動する為替差損の試算」
「ああ、スイスフランの? それから、ポンドの為替差益だね」
元々スイスに本拠地のあったアーカシャーHDの本社をまずはロンドンへ、続いてケンブリッジに研究施設を移す。それに付随してスイスにある『杜月』の工場施設も徐々に英国へ移ることになっているのだ。
為替の変動は、製造業企業の収益に直結する。スイスフラン高のスイスからポンド安の英国へ――。あの一夜にして翻ったスイスフランの高騰劇を、ヘンリーは予測していたように準備を進めていたというわけだ。
「今はポンド安だものね。吉野が計算したんなら間違いはないよ」
飛鳥はTS画面をちらっと見ただけで、すい、とその画面を指でサラに送り返した。
「『杜月』の経理はヨシノがみているの?」
「いや、吉野は関わっていないはずだよ」
表情の読めないサラのライムグリーンの瞳に、飛鳥は不安そうに眉根を寄せた。サラはその大きな瞳で飛鳥を見つめ返し、にっこりする。
「『杜月』の決算報告、すごく優秀だと思って」
「ヘンリーの紹介してくれたアル・マクレガーが、とんでもなく優秀な人だからだよ」
飛鳥は、ひと夏をともに暮らしたアルバートを思いだし、懐かしそうに目を細めた。
日本に来たばかりの頃は、執事だか雑用係りだかを兼ねさせられ、とても秘書といえるような大層な扱いではなかったアルバートだったが、今では立派な父の片腕となってくれているのだ。あんな優秀な人材に、身の回りの世話までさせていたなんて、と申しわけなさで、飛鳥は面を上げていられないほどだ。
「ヨシノがでかくなるわけだよなぁ……」
英国に来てからの時間を思い返し、飛鳥はまた吐息を漏らす。
留学生という形で異国に来たばかりの、幼い吉野をずっと支えてくれていた人が、今、あいつの前から永遠に去ろうとしているのだ、と。記憶の中のジャックの面影に、祖父の姿が重なっていた。
また、近しい人の死に向かいあわなければならない吉野の心を思うと、飛鳥は、どうしても塞いだ気持ちを奮いたたせる事ができなかった。
「何、何? ヨシノ、また伸びた! 僕の身長追い越されちゃって悔しいったらないよ!」
トレイを持って入ってきたデヴィッドが、頓狂な声をあげている。
「サラはあんまり変わらないのにねぇ!」
ぷんと膨れるサラに、デヴィッドは声を立てて笑う。
「女の子は、小さい方が可愛らしくていいじゃないか。アスカちゃんと並んでいると雛人形みたいだよ」
「雛人形って?」
「日本の女の子のためのお祭りでね」
それって、僕も小さいから釣り合いが取れているってこと?
と、一言言い返したい飛鳥ではあったのだが、瞳を輝かせて画面に集中しているサラをちらりと見ると、立ち上げたTS画面を差しながら説明しているデヴィッドを、軽く拗ねた様に睨むにとどめておいた。そして、苦笑を湛えたまま、静かに彼に代ってお茶を淹れるのだった。
コンサバトリーのローテーブルを挟んで、ぼんやりと対座している飛鳥を呆れ顔で眺めると、デヴィッドは膝の上のスケッチブックをいったん脇に置いた。
「なんだかショックでさ」
ソファーの上に膝を抱えあげて、ため息混じりに呟かれた飛鳥の返事に、デヴィッドも憂いを秘めた瞳を伏せて頷く。
「アスカちゃんは、そのパブのご主人にお逢いしたことがあるんだよね。アーニーも、何度か訪れたって言ってたし、僕だけなのかぁ、面識がないのは……」
「うん……。僕も、しばらくお世話になってたんだ。吉野、本当に可愛がってもらってたんだ」
生気のない飛鳥の声に、デヴィッドは急に怒ったように眉根を寄せる。
「きみも一緒に行けば良かったのに」
だが、飛鳥は首を大きく横に振る。
「吉野が向こうに戻ったらね。邪魔になりたくないんだ。吉野にしても、ヘンリーにしても、彼との思い出は特別なんだろ? アレンだって――」
「行く前から泣いちゃってたねぇ……」
昨日、ヘンリーとの密談めいた歓談から戻ってきた吉野が告げたジャックの病とその病状を聞くなり、顔をくしゃくしゃにして涙を零していたアレンを思いだし、デヴィッドの胸にはどこか息苦しさを感じる不安がよぎっていた。
英国に来た頃に比べると友人も増えて人慣れしてきたとはいえ、いまだ限られた付き合いの中で生きているとしか見えないアレンが、下層階級の、場末のパブの主人の身を案じて泣くなどと想像もつかなかったのだ。
実際のところ、こうして彼を知る前に知らされていたほど、彼はレイシストではないし、英国人の様に階級意識が強い訳でもない。けれど、そのパブの主人が、アレンにとってそこまでの存在であったことに、彼がそんなに深く他人に関わっていた事に違和感を覚えたのだ。
関わっていた――、というよりも、アレンは自分に向けられた親切や、損得ぬきにかけられた愛情に対して、深すぎるほどの感謝と信頼を寄せてしまうのでは――。そんなふうに思えてならなかったのだ。
あの子は、優しすぎるんだ――。
「お茶を淹れてもらってくるよ。それに、何か甘いものもね」
そんな自分の危惧を振り払うために、そして、ため息ばかりついている飛鳥を慰めるように、デヴィッドは微笑み立ちあがった。
「アスカ」
入れ違いに入ってきたサラが、デヴィッドの腰かけていたソファーに座る。
「ん?」
気のぬけた返事にはおかまいなしで、サラは空中に映しだした映像を飛鳥に送ってみせる。
「ヨシノの予測した為替レートの変動幅と、それに連動する為替差損の試算」
「ああ、スイスフランの? それから、ポンドの為替差益だね」
元々スイスに本拠地のあったアーカシャーHDの本社をまずはロンドンへ、続いてケンブリッジに研究施設を移す。それに付随してスイスにある『杜月』の工場施設も徐々に英国へ移ることになっているのだ。
為替の変動は、製造業企業の収益に直結する。スイスフラン高のスイスからポンド安の英国へ――。あの一夜にして翻ったスイスフランの高騰劇を、ヘンリーは予測していたように準備を進めていたというわけだ。
「今はポンド安だものね。吉野が計算したんなら間違いはないよ」
飛鳥はTS画面をちらっと見ただけで、すい、とその画面を指でサラに送り返した。
「『杜月』の経理はヨシノがみているの?」
「いや、吉野は関わっていないはずだよ」
表情の読めないサラのライムグリーンの瞳に、飛鳥は不安そうに眉根を寄せた。サラはその大きな瞳で飛鳥を見つめ返し、にっこりする。
「『杜月』の決算報告、すごく優秀だと思って」
「ヘンリーの紹介してくれたアル・マクレガーが、とんでもなく優秀な人だからだよ」
飛鳥は、ひと夏をともに暮らしたアルバートを思いだし、懐かしそうに目を細めた。
日本に来たばかりの頃は、執事だか雑用係りだかを兼ねさせられ、とても秘書といえるような大層な扱いではなかったアルバートだったが、今では立派な父の片腕となってくれているのだ。あんな優秀な人材に、身の回りの世話までさせていたなんて、と申しわけなさで、飛鳥は面を上げていられないほどだ。
「ヨシノがでかくなるわけだよなぁ……」
英国に来てからの時間を思い返し、飛鳥はまた吐息を漏らす。
留学生という形で異国に来たばかりの、幼い吉野をずっと支えてくれていた人が、今、あいつの前から永遠に去ろうとしているのだ、と。記憶の中のジャックの面影に、祖父の姿が重なっていた。
また、近しい人の死に向かいあわなければならない吉野の心を思うと、飛鳥は、どうしても塞いだ気持ちを奮いたたせる事ができなかった。
「何、何? ヨシノ、また伸びた! 僕の身長追い越されちゃって悔しいったらないよ!」
トレイを持って入ってきたデヴィッドが、頓狂な声をあげている。
「サラはあんまり変わらないのにねぇ!」
ぷんと膨れるサラに、デヴィッドは声を立てて笑う。
「女の子は、小さい方が可愛らしくていいじゃないか。アスカちゃんと並んでいると雛人形みたいだよ」
「雛人形って?」
「日本の女の子のためのお祭りでね」
それって、僕も小さいから釣り合いが取れているってこと?
と、一言言い返したい飛鳥ではあったのだが、瞳を輝かせて画面に集中しているサラをちらりと見ると、立ち上げたTS画面を差しながら説明しているデヴィッドを、軽く拗ねた様に睨むにとどめておいた。そして、苦笑を湛えたまま、静かに彼に代ってお茶を淹れるのだった。
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