胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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八章

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 眼下に広がる、麗らかな陽射しに輝く芝生を縁どる薄紅色。開かれた窓から、爽やかな風が運ぶヴァイオリンの音色。手にした本から顔をあげ、アレンは光溢れる戸外を眺める。ティーカップのハンドルを摘み、口に運ぶ。温かで芳しい香りが、喉に詰まった不確かな何かをゆっくりと押し流す。

 ノックの音に、アレンは夢から覚めたように立ちあがった。

「はい、どうぞ」
「一緒にお茶にしない?」

 トレイを持って入室したデヴィッドだが、窓際のティーテーブルに気づくと苦笑いを浮かべる。

「遅かったか!」
「いえ、いただきます」

 アレンは慌ててテーブルの一方にカチャカチャと自分のカップを寄せる。

「ここ、ヘンリーの音がよく聞こえるんだね。僕の部屋じゃ、かすかに弾いているのかな、って程度だよ」
 窓の外に耳を傾けるデヴィッドに、アレンは嬉しそうに頷いた。
「幸せです」
「素直だねぇ、きみは。誰かさんと違って」
 クスクスと笑いながら、デヴィッドは二つのカップにお茶を注ぐ。

「メンデルスゾーンだね。またフランクと話しているんだ」
 ティーコゼーをポットに被せ、手を止めてふっと深い緑色に沈んだヘーゼルの瞳に、アレンも神妙な、複雑な笑みを返す。
「音が迷っていますもの」
「迷わないのが彼なのにねぇ、――どうせまた、アスカちゃんのことだろ」
 ヘーゼルの緑に金色が射しこみ、悪戯っぽい笑みがその口許に浮かんだ。
「ヘンリーを振り回せるのは、あの兄弟くらいだね! 僕も人のこと言えないけどさ! それに、」
「僕も含めてくれます?」
 デヴィッドの誂うような視線に、アレンは悪びれもせずに微笑んで応えている。
「振り回されて喜んでるんじゃないよ!」

 笑いながら、デヴィッドはポットのかげに置かれていた重厚な装幀の本に手を伸ばした。

「これを読んでたの? リチャード小父さんのだね。キーツの『エンディミオン』か――、エリオットの課題か何か?」

 ここで父の名前がでるとは思わなかったのか、アレンはちょっと驚いた様子で、言い訳するように口篭る。

「マーカスさんに、買い物のついでにお願いしたら、この家にあるとのことでお借りしたんです。父の大切な蔵書だとは知らなくて――」
「あ、いいんだよ、気にせずに読んで。ヘンリーがここに持ってきてたことに驚いただけ。ヘンリーはね、エリオットにいた頃さ、『きみのヴァイオリンは技巧に走りすぎていて情緒に欠ける』って批判されてさ、やたらと詩集やら小説やら読み漁っていた時期があったんだよ!」
「え!」

 思った通りのアレンの驚愕の反応に、デヴィッドは声を立てて笑った。

「ヘンリーだって、生まれた時から今のヘンリーだった訳じゃないよ。エリオットの新入生の頃は甚振いたぶられまくってたし、ヴァイオリンだって褒める奴と同じくらい妬む奴も多かったよ」
 おかしそうに、けれどどこか誇らしげにデヴィッドは続けた。
「それを自力でねじ伏せてきたからこその、今のヘンリーさ」

 アレンの表情が複雑に歪んだ。自分とはやはり違うのだと、それは泣きだしそうな、自分を叱咤しているような表情だった。
 彼の揺れ動く心を見透かすように見据えて、デヴィッドはふわりと優しい笑みを浮かべた。

「ヘンリーも一人だった訳じゃないよ。きみにヨシノやフレッドがいるみたいに、彼の傍には、フランクやアーニー、僕やエドがいたんだ」

 懐かしそうに目を細めて、デヴィッドは、金色の煙る睫毛を伏せたままのアレンから手元に置いた濃緑の絹張りの本に視線を落とし、ぱらりと捲った。

「きみも、エンディミオンのように月の女神を追いかけたいの?」
「……まだ、ほんの触りしか読めていなくて」
「粗筋、知らない? エンディミオンは、夢の中で出会った月の女神シンシアに恋をして、彼女を求めて旅にでるんだよ。地下や海底を放浪して、インド人の少女に恋をする。その少女が実は月の女神の化身だった、ていう物語詩なんだよ。――ああ、だからか。ヘンリーがこの本を手元に置いているのって。この詩集に、リチャード小父さんとサラのお母さんを見てるんだね、きっと」

 とたんにセレストブルーの瞳を大きく見開いたアレンに、デヴィッドは、はっと表情を強ばらせる。

「ごめん……」
 アレンは慌てて首を横に振る。
「いいんです。気にしていません。僕だって僕の母がどんな人間か知っていますから。正直言って、僕にとっても、サラのお母さんは憧れです。父の愛した人だもの」
 アレンは無理に笑顔を作りながら、また視線を伏せる。
「ただ、ちょっと、驚いてしまって――。そんな筋書きだとは知らなかったから。神話のエンディミオンを思い描いていたので」
「永遠に眠り続けるエンディミオン?」

 前知識として調べたギリシャ神話とはまるで異なった筋立てに、アレンは軽く混乱を覚えながら頷いていた。デヴィッドはくすくす笑い、頷き返す。

「キーツのこの詩も、この世界も、微睡むエンディミオンの見る夢なのかもねぇ」



 訪れた静寂に、ヴァイオリンの旋律がしめやかに流れこむ。

 アレンはその旋律に耳を澄ませながら、おもむろにティーカップを口に運んだ。

 兄は、理想を追求する飛鳥をエンディミオンに例えた。そのエンディミオンが恋するのは、インド人の少女――。

 驚いた。一度もそんなふうに感じたことはなかったのに……。

 あの場でのぎこちない空気を思いだし、アレンは窓の外に広がる霞むように揺れる薄紅色に視線を落として小さな吐息を漏らしていた。



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